Episode 01 /2

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 東京は霞ヶ関、総理大臣官邸の一室に、数人の男たちが集められていた。

「――これは本当なんですか?」

 自衛隊の統合幕僚長、林田が戸惑うように言った。林田のとなりには同じく自衛隊、陸海空の各幕僚長が座り、同じひとつの机を政府からは事務次官、防衛大臣、そしてときの総理大臣が囲んでいる。

「にわかには信じられない――かといって、冗談とも思えないが」

 机の上には複数枚の紙資料のほか、写真をプリントアウトしたものも置かれていた。林田は写真を取り上げ、じっと見つめたあと、ちいさく息をついて机の上に戻す。

「これはNASAからの?」

「そうです」と事務次官が答えて、「ホワイトハウスから送られてきたものですが、情報の提供元はNASAだということです」

「NASA以外では確認できていないんですか」

「国立天文台でも同様のものを確認しているそうです。ここまで解像度の高いものはまだ一部の人間しか把握していませんが、月の周囲に普段見られないものがあることはアマチュアの天文学者も把握しているようで、ネット上にもすでにそれに関する情報が数多く流れています」

「ホワイトハウスはなんと?」

「これは全人類の危機である、と」

 ときの内閣総理大臣である曽我部は、どこか現実味が感じられない声色で言った。

「この危機に際して人類は一致団結し、立ち向かわなければならない――ホワイトハウスからの連絡が真実なら、たしかにこれは全人類、地球上に暮らすすべての人間にとっての危機になり得る。われわれ日本政府も決して看過はできません。アメリカや各国と協力し、この国、ひいてはこの星の平和と安定を守らなければならない」

「それはまあ、結構ですが」

 皮肉でもなく林田は言って、もう一度机の上の写真をじっと見つめた。

「――本当に宇宙人が攻めてきたとしたら、われわれにできることなどあるでしょうか」

「まだ宇宙人と決まったわけではありません」

「しかし地球にあるどんな国家の仕業でもないとすれば、地球外の文明からの使者だと考えるべきでしょう。もちろん、向こうが攻めてくるつもりではなく、友好を求めてやってくるのだとすれば話は別ですが――この写真を見るかぎり、私にはどうも、友好的には見えない」

 大きく拡大された月の写真だった。

 月は画面に収まりきらず、右下の一部を除いてすっかりはみ出している。唯一、写真上に残っている月の右下は白くぼんやりと輝き、幻想的ではあったが、同じ写真に写っているもののせいでその幻想性は大きく損なわれていた。

 林田は目を細める。NASAが撮影したというその写真には、奇妙なものが映り込んでいる。

 月の右下、白銀の光を受けて宇宙に浮かんでいるのは、流線型の形をした、数機の戦闘機だった。

 いや、実際に戦闘機かどうかはわからない。戦闘機状をしたもの、だ。しかし林田には経験上それは戦闘機にしか見えなかった。

「ここに写っているのは、全部で八機ですか――これがいままさに宇宙空間を移動し、この地球へ近づいているわけですね。移動速度は?」

「およそ時速一万キロだということです。もちろん、重力の影響で速度は上下しますが、対象物は通常の軌道航路ではなく直線航路で月から地球へ向かってきているようです」

「月と地球の距離は、どれくらいでしたか――」

「約三十八万キロです」

「ふむ――二日も経たないうちに、それは地球へ到達するというわけですね」

「いや、期限はもっと短い」

 曽我部は苦痛を吐き出すように言った。その口調で林田は、曽我部がこの状況にひどく困憊しているのだと知る――たしかに、内閣総理大臣という肩書きを持つ人間にとっては不運以外のなにものでもないだろう。まさか自分がこの国の代表であるあいだに、宇宙人が攻めてくるなどという事態が起こるとは。しかしそれはだれに対しても同じだと林田は思う。これが全人類の危機だというなら、いまこの地球上に生きているすべての人間にとって不運だろう。もちろん、自分にとっても。

「最初に月付近でこれが発見されてから、もう丸一日が経過しています。この対象物はすでに地球近傍まで迫っている」

「なにか向こうからコンタクトのようなものは?」

「NASAがあらゆる電波や光で通信を試みているということですが、成功はしていないようです。向こうからもそれらしい通信はありません」

「なにかを交渉しにきたわけではないのか。そもそも、それは本当に地球外文明のものなのですか。地球のどこかの国が秘密裏に打ち上げた兵器では」

「たとえどんな国であろうと、まったく秘密裏に宇宙までものを運ぶことはできません。とくに近ごろは大陸間弾道ミサイルなどもありますから、そうしたものは衛星によって徹底的に監視されている。それに衛星軌道というならともかく、一度月まで移動させてから地球へ持ってくる意味がない。月から一直線に地球を目指しているところも地球の文明とは相反する。ふつうなら燃料の問題等から軌道投入するはずです。月から地球を目指している彼らには、おそらく月地球間の移動に必要な燃料程度は大したものではないのでしょう。燃料を節約することもなく、最短距離を選んでいるのですから」

「そこで、だ」

 曽我部は椅子の背もたれから起き上がり、その場にいる全員を見回した。

「もしこの対象物が日本へ飛来したとき、自衛隊にはどのような対応が取れるか、教えてください」

 自衛隊所属の四人は顔を見合わせ、その代表として林田が曽我部を見た。

「状況による、という当然の前提はあるにしても――もしこれがミサイルのたぐいだとすれば、自衛隊にもPAC-3のような弾道ミサイルの迎撃システムはあります」

「PAC-3は自衛隊単体で運用可能なシステムですか」

「PAC-3自体は単体で可能ですが、そのためには対象物の軌道や速度などを完全に把握していなければなりません。そのための情報はアメリカの衛星に頼らざるを得ない。そもそもPAC-3は弾道ミサイルの終末航路、つまり大気圏内に突入してから迎撃するものですから、これがミサイルであり、なおかつ放射能のようなものを搭載している場合、地上に影響が出る可能性はあります。もしこれがミサイルではなく戦闘機のたぐいだとすれば、もちろん地対空兵器や空対空兵器で撃墜可能だとは思いますが――しかし月から地球までを難なく移動できるようなものです。大気圏内での機動力は未知数ですし、向こうがなにかの兵器を使用すれば、それに対抗できる術があるとは思えない」

「つまり――対象物が行動をはじめる前に撃墜しなければならない、ということですか」

「撃墜するのであれば、そうです」

「しかし向こうが敵対行動を示すと決まったわけではありません」と事務次官が冷静に言った。「敵対行動を示す前にこちらから攻撃するのはリスクが高すぎる」

「アメリカはどう言っているんです? 撃墜すべきか、それとも様子を見るべきか」

「ホワイトハウスとは電話で話しましたが、まだわからないというのが正直なところです。早まった行動を取るわけにはいかない。しかし行動が遅すぎれば致命的な被害を受ける可能性がある――そもそも、この対象物が大気圏内に突入するつもりかどうかすらわれわれにはわからない。もしかしたら軌道上で停止し、なんらかの手段でコミュニケーションを取るつもりなのかもしれない」

「後手に回るしかない、ということですね」

「一応、全自衛隊にスクランブルを出します。出撃はしませんが、出撃準備は整えておく。地対空兵器、戦闘機、高機動車、陸海空のあらゆる展開に対応できるようにしておく必要があるでしょう。林田幕僚長、指揮はあなたが執ってください。これは一地域の攻防戦ではない。この国、日本全土を守る戦いになる。もちろん、戦わず済めば、それに越したことはありませんが」

 林田はうなずきながら、戦いになったときにはどうなるだろうと考えていた。

 第二次大戦後、日本は当然のことながら戦争というものを経験していない。自衛隊員も訓練は受けているが、実戦経験がある人間はひとりとしていないのだ。訓練と実戦はちがう。訓練は、うまくやるかぎり、危険はない。しかし実戦は自分がどれだけうまくやっても理不尽に命を奪われる。加えて相手は同じ人間ではなくまったく未知の存在となれば、どれだけ戦えるかはわからない。

 戦闘にならなければいい、という曽我部の言葉には林田も心の底から同意していた。ならなければいい、というのではない、おそらく、なってはならない、戦闘をはじめてはならない、だ。戦闘になれば、勝ち目はない。林田は直感的にそう思う。

 事務次官の携帯電話が鳴った。断って席を立ったが、すぐに戻ってきて、曽我部になにか耳打ちをする。曽我部はちいさく息を吐き出したあと、自衛隊のトップたちを眺めて言った。

「いま、ホワイトハウスから連絡があったそうです。状況はよくない。軌道上にいた対象物は散開し、そのうちの数機が大気圏に突入。早ければ数十分、遅くても数時間のうちには地球上のどこかに降り立つか、あるいは上空で停止するかという状況になりそうです」

「どこに向かっているのかは?」

「まだわかりません。あるいは、NASAは掴んでいるのかもしれないが――アメリカがすべての情報を出してくれるとは限らない。日本もJAXAと国立天文台から情報を上げてもらっていますが、軍事衛星ではアメリカには敵わない。それに自由落下で地上を目指しているとは限りません。大気圏を抜けたところで通常の飛行をはじめるかもしれない。だとしたら目標地点を割り出すのは不可能でしょう」

「対象物は全八機ですか。それが地球のどこへ降りるか――」

 日本でなければいい、と林田は祈った。しかし経験上、根拠のない祈りは通じないものだともわかっていた。

 いまはまだ、情報規制によってほとんどの人間はこの状況を知らない。午後八時をすぎたこの時間、まだ仕事をしている人間もいるだろうし、家族揃って夕食を取っているところもあるだろう。

 しかし状況次第では数時間以内に速報が流れる可能性がある。宇宙から飛来したものがどこかに着陸、となったら、どれだけの騒ぎになるか――騒ぎを眺めている分には、まだいい。しかしそれが日本の国土のどこかなら、騒ぎだけでは済まない。

 通じないとはわかっていながらも、林田は祈らずにはいられなかった。

 どうか、この国の平和が一瞬でも長く続きますように――と。



  *



 正門の鍵が閉まっていればそこで諦めるしかないし、もし正門が開いていても校舎が開いていなければそこで終わりだ、と思いつつ北側の扉のノブに手をかけた貴昭は、それがなんの抵抗もなくするりと開いたのを感じてため息をついた。

「不用心すぎだろ、うちの学校。もっとなんかこう、セキュリティをちゃんとさあ……」

 せっかくいい言い訳ができそうだったのに、これでは先に進むしかなかった。貴昭は照明が完全に落ちた暗い校舎を今一度見上げ、ため息をつき、靴を脱いで廊下へ上がる。

 リノリウムの廊下は、靴下で歩くとまったく足音を立てなかった。これはこれで不気味だと貴昭はなんとなく寒気を感じながら北階段を目指す。

「うう、やだなあ……暗いし、静かだし……」

 いかにもなにかが出てきそうな、夜の学校だった。

 不用心にも鍵がかかっていなかった正門を抜け、だれもいない校庭に立ったときから嫌な予感はしたのだ。暗闇に浮かび上がる学校の校舎を見上げたとき、無数の窓に人影が見えるような気がしたり、屋上からだれかが覗いているような気がしたり――。

 もちろん、気のせいに決まっている。部活はとっくに終わり、生徒は全員帰宅しているはずだった。門や校舎が開いているのは先生が残っている証拠だが、その先生にしてもまっ暗な校舎のなかを歩き回ったりはしないだろう。だから、気のせいなのだが、気のせいでそう感じるということがすでに怖い。

 下駄箱に近い扉ではなく、北側の扉は、本来は体育館と校舎を行き来するためのちいさな扉だった。北階段はそこにいちばん近い階段だが、普段もあまり生徒は使用していない場所になる。体育館へ行くときも教室に近い階段を使い、一階の廊下を歩いて向かうから、北側の階段を使うことはまれなのだ。

 この時間、その北階段に人影がある、ということからして不気味だった。

 いやしかし、幽霊なんているはずがない、と貴昭は自分に言い聞かせる。なぜなら、幽霊というのはだいたい最初から怪しい場所に出るものであって、たとえば墓場だとか、古い校舎だというなら幽霊の一体や二体はいるかもしれないが、ここはたった二年前に新しく建ったばかりの校舎なのだ。たった二年の校舎に幽霊が出るような「いわく」があるとは思えない。つまり幽霊など出ない。完全な理論である、と貴昭は満足し、廊下を歩き、不意に北階段に出くわして心臓が止まりそうなくらい驚く。

 夜の北階段は、いかにも不気味だった。

 そもそも、校舎全体が暗い。おまけに窓がない階段のまわりは一層闇が深く、かろうじてぼんやりと段が見えるくらいだった。

 一階から踊り場まではそれほど段数がない。一度階段から降りてくると、目の前の廊下へ進む以外はどこにも行けない作りになっている。廊下以外に扉はないし、階段が途切れた先は壁になっていて、もちろんその向こうにも行けない。ということは階段を降りてきた人間は必ず目の前の廊下に出なければならないということで、階段を直接監視していなくても、廊下を見ていれば出入りがわかるということになる。

 貴昭は廊下の角に身を潜め、ちいさく息をついた。

 あたりは静かだった。静かすぎて、耳鳴りがするほどに。

 自分の呼吸だけが、まるで耳元で囁かれているように聞こえてくる。

 二十分だ、と貴昭はポケットからスマートフォンを取り出し、思う。二十分待ってだれもこなかったら、幽霊はいなかった、ということにして帰ろう。だからせめてあと二十分、なにも現れるなよ、と祈る。

 祈りは通じなかった。

 廊下に身を潜めて十五分。

 とん、とん、と、二階から一階へ降りてくる軽い足音を聞いたとき、貴昭はよっぽど気のせいだということにしようと思ったが、聞き間違いとは思えないほどはっきりと足音は聞こえていた。

 貴昭はスマートフォンをポケットに押し込み、息を殺す。

 足音はたしかに近づいてくる。上履きで階段を降りてくるような、リノリウムにきゅっとこすれる音。それが鮮明に聞こえ、足音の主が踊り場を折り返してこちらへ降りてきているのだとわかる。

 もしこのまま、まっすぐに降りてくれば、貴昭が身を潜めている廊下に姿を見せるはずだった。貴昭はセーラー服を着た血まみれの顔の女がぬっと廊下に現れるのを想像してぞくりとふるえたが、現実は想像どおりにはならず、階段を降りたあたりでぴたりと足音が止んだ。

 そのまま、しばらく静寂。

 貴昭は廊下の壁にぴたりと背をつけ、首筋に汗がじわりと浮き上がってくるのを感じながら耳を澄ました。

 なにか、かすかな物音が聞こえる。かちゃかちゃと、金属に触れるような音だった。貴昭は廊下の角から顔だけ出し、階段を窺った。

 階段にはだれもいない。踊り場にも人影はなかった。その代わり、階段を降りきった先、行き止まりになっている壁の前に、だれかがいる。

 あたりは深い暗闇だった。そこでなにかが動く。黒い影だと感じる。目を凝らしていると、その黒い影に、白い線が入っていることに気づいた。

 セーラー服。この学校の制服で、襟に白の線が入っている。それにちがいない、と思った瞬間、暗闇のなかでぐるりと振り返るような気配を感じ、慌てて廊下に引っ込んだ。

 心臓が早鐘を打ち、ずきずきと痛む。見つかったかもしれない。だいたいこういうとき、幽霊に見つかった人間はろくなことにならない。だから幽霊探しなんか嫌だったんだ、くそう、幽霊に呪い殺されたら高橋を呪ってやる、と思っているあいだも呼吸さえ憚られるような静寂が続いていた。

 階段のほうを覗いてみる気にはなれなかった。覗こうとした瞬間、音もなく近づいてきた幽霊と鉢合わせになる気がしてならない。かといってこのまま校舎から逃げ出すわけにもいかなかった。

 静寂が途切れる。

 がちゃり、という、扉を開けるような音だった。貴昭はその音を聞いて高橋の話を思い出した――昨日、幽霊を見たというだれかも、そんな音がして人影が消えた、と言っていた。

 貴昭は廊下の角から顔を出す。暗闇のなかに人影が揺れていた。

 その人影が、ふと消える。

「――え」

 貴昭は驚いて階段のほうへ近づいた。すると、壁だったはずの場所にぽっかりと穴が開き、いま再び壁が閉じて穴が塞がろうとしているところだった。貴昭はとっさに近づき、穴のすき間に手に持っていた靴を挟み込んだ。

 ぎゅ、とゴムがこすれるような音を立て、壁が止まる。そのまま動かなくなったのを確認してから、貴昭はポケットのスマートフォンを取り出し、そのバックライトで壁を照らした。

 なにもおかしなところもない、ただの壁にしか見えなかったところが、いまは扉のように手前へ開いていた。壁に見せかけた扉は独りでに閉じようとしていたが、靴が挟まったことで動きが止まり、十センチほどすき間が空いたままになっている。

「……隠し扉、だよな?」

 学校の校舎に、壁に見せかけた隠し扉があるなんて――貴昭はごくりと唾を飲み込んだ。

 消えた人影は扉の向こうへ入っていったにちがいない。昨日の幽霊目撃談も、同じように隠し扉へ消える人影を見たのだろう。たしかにそれなら足音もなく姿を消したことになる。しかしどうしてこんなところに隠し扉があるのか――それも壁を隠し扉にするなんて、校舎を作るときにそういう構造を作っておかなければできない芸当だった。

 貴昭は扉のすき間に手をかけ、力を込めた。壁にしか見えない扉は重たかったが、それでも開けることはできる。と、なれば。

「……行くしかない、よなあ」

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