Episode 01 /1
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「北階段の女の幽霊?」
私立第六英賢学院の第二校舎四階、もっとも南に位置しているちいさなその部屋は、表向きは空き部屋のようになっていたが、実際はある団体がひそかに拠点として使用していた。
私立第六英賢学院オカルト研究会、というのがその団体の名前である。
研究会、といっても由緒もなければ学校公認の団体でもない。つい数ヶ月前、たった三人の生徒が勝手に発足させ、勝手に活動しているいわば地下団体で、その空き部屋もだれも使っていないのをいいことにこっそり鍵を持ち出して使用しているにすぎなかった。
しかしいまではその部屋に様々なオカルト関係の資料が持ち込まれ、ちょっとした図書室のようになっていたが、それでもオカルト研究会が公式ではない地下の団体であることには変わりなく、会員も一年の三宅、二年の新嶋、三年の高橋の三人だけだった。
いま、ちょうど居残りの勉強を終えて二年の新嶋貴昭が部室に入ってきたとき、高橋が怪しげな笑みで放った言葉が「北階段の女の幽霊を知っているか」という一言だった。それで貴昭がオウム返しをしたのだが、高橋はさらににやりと笑って、
「まだ知らないらしいな。ま、無理もない。それほど広まってる噂じゃないみたいだからな」
「なんですか、それ。だれかがそんな噂を?」
「ああ、おれのクラスメイトが見たらしいんだ。昨日、そいつは塾の帰りに教室に忘れ物をしたことを思い出したらしい。で、まだ先生が残ってるかもしれないからと思って学校に寄ったら、案の定正門が開いてる。ただいちいち先生を呼び出すのもめんどくさいから、こっそり忘れ物を回収して帰ろうと思って校舎のなかに入ったんだ。ただ下駄箱のほうのドアは閉まってたから、北側のドアからなかに入ったらしい。じゃなきゃ北側の階段は使わないからな」
たしかに、と貴昭は校舎の間取りを思い出しながらうなずき、高橋がどこかから調達してきたパイプ椅子に腰を下ろした。その向こうでは三宅が月刊で出ているオカルト雑誌を眺めながら話を聞いている。
「時間はもう八時すぎだった。当然校舎はまっ暗。職員室以外は電気もついてない。そいつはなんとなく不気味に思ったらしいが、ともかく、さっさと忘れ物を回収して帰ろうと北階段を上がりかけたとき――上から降りてくる足音が聞こえた」
「ふむふむ。で?」
「そいつは見回りをしてた先生が降りてきたんだと思って、慌てて廊下の影に隠れた。足音はゆっくり階段を降りてくる。踊り場を回って、一階へ――そこでふと、足音が途切れた。そいつはしばらく息を殺していたが、そのうち不審に思えてきた。なにしろ北階段は目の前の廊下に出る以外、どこにも行き場はないはずだ。廊下を通らずに入れるドアなんかないし、窓だってない。もちろん、一階だから、下へつながる階段もない。おかしいぞ、と思ったそいつは、恐る恐る階段のほうを覗いてみた。そしたら、階段の下、同じ構造の二階で言うところの階下へつながる階段がある壁の前に、ひとりの女子生徒が立ってたんだ」
まあそりゃ女子生徒だろ、男子生徒なら北階段の男の幽霊になるわけだし、と貴昭は考えつつ黙って先を聞く。
「女子生徒の顔はわからなかった。なにせ、後ろ姿だったんだ。そいつにわかったのは、うちの制服であるセーラー服を着てたことと、長い黒髪だったこと――暗闇でもそれだけはわかったんだな。で、そいつはその女子生徒も自分と同じように忘れ物でもしてこっそり取りにきたのかもしれないと考えた。だったら見つかっても問題なかったわけだけど、ま、そのへんは若干不気味でもあったし、もう一階廊下に隠れたんだ。でも、いつまで経ってもその女子生徒は廊下に出てこない。かといってもう一階階段を上がったような足音も聞こえない。ただ――がちゃん、ってドアを閉めるような音が一度、聞こえただけだった。そいつは不審に思ってもう一度階段を覗いてみた。すると――そこにいたはずの女子生徒は、影も形もなくなってたってわけ。かくして北階段の女の幽霊のできあがり」
「ってことは、それ、まだ噂以前にひとりしか見てないんじゃないですか。だったらただの見間違いじゃ?」
「見間違いでどうにかなる問題か? その女子は廊下に出てくるか階段を上がるかしかなかったのに、廊下には出てこないし、階段を上がった足音も聞こえなかったんだぜ」
「足音が聞こえなかった可能性はあるんじゃないですか」
雑誌を読んでいた三宅が顔を上げ、くいとメガネを直しながら言った。
「いくら静かでも、リノリウムの床に上履きなら音はほとんどしないでしょ」
「でも、階段を降りてくる音は聞こえたんだ。それなら上がっていく音も聞こえるはずだろ。すくなくともまったく聞こえなかったとは考えづらい」
「がちゃんって音が聞こえたって、なんの音ですかね。あのへんにはドアなんかないはずですけど」
「な、気になるだろ?」
高橋はにっと笑い、貴昭の肩をぽんと叩いた。貴昭は嫌な予感。だいたい、高橋がこういう笑い方をするときはろくでもないことを押しつけられるのだ。
思えば、このオカルト研究会に入ったときもそうだったと貴昭は思う。
数ヶ月前、図書室の机にこれ見よがしに置かれていたオカルト雑誌を手に取った瞬間、棚の影に隠れていた高橋が現れて誘われたのだ。興味があるならぜひオカルト研究会に入ってみないか、と。そのときは学校にそんな部があるとは知らなかったが、まあどうせ暇だし、と了解してから、自分がふたり目、つまり高橋以外の最初の部員であることを知らされたのだった。結局同じ手法で一年生をもうひとり、つまり三宅を引き込んだとはいえ、それでもまだ部員はたったの三人、部室もなければ学校の許可を受けたわけでもない地下活動の片棒を担がされているわけで、すべての発端はこの高橋の怪しい笑みだとさえ言える。
「いや、別にそんなに気には――」
「そうかそうか、そんなに気になるか。おまえの気持ちはよくわかった。よし、新嶋、この件はおまえに託す!」
「へ?」
「今夜、ぜひ日が暮れてから調査してくれたまえ」
「え、あの……み、みんな揃って、ですよね?」
「いや、おれはな」と高橋は立ち上がり、鞄を持つ。「これから塾だから」
「ふつうの理由!?」
「塾終わんの九時すぎだし。受験生の夏はきついぜ、マジで。じゃ、あとよろしく」
「いや爽やかな笑顔で去られても! み、三宅、おまえは付き合うよな?」
一年後輩の冷静なメガネ男子は、自慢のメガネをくいと上げ、読んでいた雑誌を机に置いた。
「うち、六時半門限なんで」
「早っ! おぼっちゃまか! 箱入り息子か!」
「じゃ、そろそろ出荷の時間なんで」
「うまいこと言ったつもりか! え、ええっ、マジでおれひとりでやれって?」
「別に危ないことでもなさそうだし、大丈夫じゃないですか?」
いつも冷静な三宅が部室の扉を開ける。ちょうど差し込む赤い夕日が、その冷静な横顔を照らしていた。
「それにたぶん、幽霊なんかいませんよ」
「オカルト研究会の人間が言うかね」
「ぼくがオカルト研究会に入ったのは、そういうことにはだいたい合理的で科学的な理由がつけられるはずだと思ったからですし。幽霊なんかいちばん非合理的で非科学的です。いわゆる霊体のようなものが存在するとして、それが目に見える存在であるなら、それはたしかに光を反射する、ないし発光する物理的構造を持っているわけです。でなければ人間の網膜が捉えられるはずがない。物理的構造が存在するということは、自由自在に消えたり壁をすり抜けたりなんてことは絶対不可能です。だから高橋さんの言ってたのもたぶんなにかの見間違いか、別の合理的理由があることにちがいありません」
「ま、まあ、たしかに。おれも幽霊なんかあんまり信じてないけどさ……で、でも、もしいたら、やばいじゃん?」
「もしいたとしても、その悪影響を受けるのは新嶋さんだけですし」
「やっぱりおれ生け贄じゃねえか! あ、おい、待てよ箱入り!」
ぱたん、と扉が閉まる。無情な先輩と後輩だった。貴昭はひとりになった部室でぽつりと呟く。
「ま、マジかよ……おれ、幽霊とか、わりと怖いんだけど……」
*
まあ、無理もないよな、とは思う。
この私立第六英賢学院は進学校として有名だった。また同時にスポーツの強豪校としても有名なのだが、それはスポーツ推薦で入学できるからで、ふつうに受験をしようと思うならそれなりの学力がなければむずかしい。
だから、スポーツ科ではないふつうの生徒の大半は塾にも通っている。とくに受験を控えた三年生は授業でも塾でも受験対策漬けで、部活に精を出す余裕はまったくない。それがオカルト研究会なるどう考えても怪しい部活ならなおさら、だ。
貴昭はひとり残された部室でオカルト雑誌をめくりつつ、来年の今頃には自分もそうなるわけだ、と想像したが、それはまったく現実味のない絵空事に近かった。
未来のことなんて、人間にはわからない。
去年の今頃自分がこうしていることを想像できていただろうか。去年の今頃はまったくちがう未来を想像していたのだ――サッカー部でなんとかレギュラーを取って、試合に出て、あわよくばスカウトの目に留まったりして、なんて夢物語を。
一年の秋に怪我をするまで、それが夢物語だと思ったことはなかった。強豪のサッカー部でレギュラーを取るのはむずかしいが、しかし努力すれば可能だと思っていたし、まさかたった一度の怪我でサッカーができなくなるなんて、それこそ想像したこともなかった。
いや、無理をすればサッカーを続けることもできたのだ、と貴昭は思う。医者は、もう一度同じ場所を怪我すれば日常生活にも支障が出るような後遺症が残るかもしれない、と言っていた。それで貴昭はサッカーをやめたのだ。まるでいい言い訳ができたとでもいうように。
自分には才能がないのかもしれないと思うことは何度もあった。ただ、小学校でも中学校でもサッカーしかやってこなかったから、たとえ才能がなくてもサッカーを続けるしかないのだとどこかで感じていた。そんな気持ちだったから怪我をしたのかもしれないとも思う。怪我なら、だれに見下されることもなくやめられる――なんとなく、サッカーをやめるというのを決めたときにほっとしたのは、そう思っていたからかもしれない。
二年から普通科に転向するのは大変だったが、それでもなんとかやっていくしかない。来年には受験生になるし、何事もなければ再来年にはどこにでもいる大学生になっているわけで、そんな未来はまだ他人事のようにしか感じられなかった。
――いまも、部室を出て校庭を見下ろせば部活動に勤しむ生徒たちがいる。
野球部にサッカー部、体育館ではバスケ部やバレー部が練習しているだろうし、校庭では陸上部ががんばっていた。それを眺めていると、胸の奥がちくりと痛む。貴昭は首を振り、部室の扉を閉めて廊下を歩き出した。
「受験、かあ……なんか、将来のこととか、考えたくないなあ」
できればこの時間が一生続けばいいのにな、と思う。
大人にはなりたくない。いつまでもこの場に留まったまま、なにも成し遂げず、なにも諦めず、ただ無限の可能性を持っているだけのひとりの子どもでいられればいいのに――。
「――ん?」
廊下の先に、先ほどの貴昭と同じように廊下から校庭を眺めている人影があった。
四階の廊下はあまりひとの行き来もないはずだったが、その人影――女子生徒は、開け放った窓から差し込む夕焼けと風を受けてじっと校庭を見ていた。いや、校庭を見ているわけじゃない、と気づく。その女子生徒は、目を閉じているのだ。
一瞬、飛び降りるつもりかと驚く。しかしそんなこともなく、貴昭の足音に気づくとその女子生徒はぱっと目を開けて振り返った。
夕焼けで赤く染まった彼女の顔に、貴昭は息を呑む。
長い黒髪は炎のような深い赤色に染まり、大きな目には星空のような輝き、白い頬は恥じらうように桜色で、驚いたように貴昭を見つめたまましばらく彼女は動かなかった。貴昭の身体も、その場に縫い止められたかのようにぴくりとも動かない。
先に呪縛が解けたのは女子生徒のほうだった。
「あ――」
くるりと踵を返し、階段を降りていく。膝よりも長い丈のスカートがなびき、階段の向こうに消えて、貴昭は名残惜しげにそれを見つめたあと、ぶんぶんと首を振った。
「どこのだれだか知らないけど、見とれてる場合かっての――こっちは、これから幽霊探しをしなきゃいけないのに」
高橋の言葉が正しければ、その幽霊が現れたのはすっかり暗くなったあと、部活動の生徒もみんな帰って校舎が静まり返る時間帯のはずだった。それまで校舎のどこかに隠れているのは面倒だったから、一度家に帰り、また適当な時間に出てこようと決める。もし正門や校舎が施錠されていれば幽霊探しができなかった立派な理由になることだし。
「……なんかおれ、言い訳ばっかだな」
ま、いいさ、と貴昭は自分を励ましながら階段を降りた。
言い訳は所詮言い訳にすぎない。いつか、言い訳が通じなくなるときがくるだろう。もしかしたらそのときこそ大人になる瞬間なのかもしれない。
永遠に思えた子ども時代の終わりは、すぐそこまで迫っていた。
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