月のヴァルキュライド
辺名緋兎
Episode 01
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月のヴァルキュライド
Episode 01
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口径60センチメートル、反射式望遠鏡で覗いた宇宙は、想像していたよりもずっと図鑑に載っていた写真に近かった。
考えてみればその写真もどこかの望遠鏡で撮られたものなのだから、当たり前といえば当たり前の話だったが、それでもどこかで図鑑の写真は特徴がはっきりわかるように加工されたものだと思い込んでいた。
土星にはたしかに環があるのだろうが、それはとても地球からは観測できないようなものだと思っていたし、火星は赤い星だといわれても望遠鏡で見てわかるほど赤いはずはないと、なぜだか子どもの頃は信じきっていた。結局現実なんて図鑑のイラストのようにはなっていないとひねた考えを持っていたのかもしれない。
そんなひねくれた子どもの想像を完全に打ち砕いたのが林間学校のときに行った天文台、そこにあった口径60センチメートルの反射式望遠鏡だった。
望遠鏡の向こうには信じられないほど鮮やかで個性的な宇宙が広がっていた。
漆黒に浮かぶ赤い星、青い星。一等星に、肉眼ではわからないほどちいさな星々。銀河に天の川――そのとき子どもながら思ったのだ。自分はこの宇宙に浮かぶひとつの惑星に住んでいるのだ、と。
それ以来、将来の夢といえば天文学者になることになった。現状、夢が叶ったとは言いがたい。しかしこんな未来も悪くはないと思う。かつて自分が宇宙を体感した天文台の学芸員として働いている未来は。
「子どもたち、どんな星を見たがりますかね」
同僚の言葉に、男はコンピュータで星の位置を確認しながら答える。
「ぼくの経験上、男の子ははっきりわかるような星が好きだね。土星はみんな驚くよ」
「じゃあ、女の子は?」
「女の子はどうかなあ――そういうはっきりした星より、きれいな光や物語に惹かれるのかもしれないね。ま、うちはプラネタリウムじゃないから、星座の解説はそれほどうまくはできないかもしれないけど」
「たしかに、星のことは詳しくても、星座やそれにまつわる物語については専門外に近いですからね」
同僚と苦笑いしているあいだにもデータのセッティングが終わる。巨大な望遠鏡がゆっくりと回転をはじめ、まだ閉じている屋根の向こうに存在する土星を追尾しはじめた。普段は土星のような惑星は追わないが、今日は特別な日、近所の小学校から子どもたちが天体観測にやってくる日なのだ。
「屋根、開けますか」
「ちいさなお客さんたちは?」
「いま展示室を見学中です」
「なら、彼らがきてから開けよう。それもひとつのイベントだよ」
実際、展望室に入ってきた子どもたちは、半球状の屋根が左右へ開いていくのを見て歓声を上げる。それから実際に望遠鏡を覗き、星を見て、やはり歓声。子どもは素直だと彼は思う。大人にも同じ気持ちはあるが、成長していく過程でそれを表に出すのが恥ずかしいと思うようになる。どうしてそうなるのかはわからないが――大人になりたい、子どもでいたくない、という憧れと拒絶なのかもしれない。そしてさらに年を取ると、そんな憧れと拒絶も意味のないものに思えてくるわけだ。
しかし大人になるためには背伸びも必要だろうと思う。はじめは背伸びでも、それがいつしか本当の身長になるときがくる。そうなったら背伸びをする努力はいらなくなるが、背伸びが不要だったというわけではない。
あらゆるものは受け継がれ、蓄積していくのだと彼は天文学を通して感じるようになっていた。天文学に限らず、あらゆる学問は蓄積と継承の繰り返しだ。先人が積み上げたものの上に立ち、さらにその上を目指すからこそ、学問は進化と深化を続けていく。
人類そのものがそうやって進化してきたのだ。
ひとはひとの上に立ち、後世のだれかの踏み台になる。踏み台になれる人生は幸せだ。すくなくともその時代でなにかを達成したということだろうから。
「ねえ、この望遠鏡で月は見えないの?」
ひとりの女の子が望遠鏡から顔を離して言った。
「わたし、月が見たい」
「月か。たしかにこれだとすごくよく見えるけど、月は明るすぎるからね。じゃあ、外に出てもっとちいさな望遠鏡で観察しようか。ほかの星も、この望遠鏡よりはちいさいけど、よく見えるよ」
わっと子どもたちが声を上げ、さっそく展望室を出ていく。彼やほかの学芸員は望遠鏡の準備をはじめた。
天文台の外にある芝生に、口径60ミリの望遠鏡を五つ並べる。もちろん自動導入などできないから、最初に手動で合わせるが、対象が月ならそれもさほど手間にはならなかった。
「さあ、どうぞ。月のうさぎまではっきり見えるかな」
暗いなかに子どもたちの明るい声が響いた。彼はその声を聞きながら肉眼で空を見上げる。今日は風が強く、空気も澄んでいる。雲が心配だったが、それもどうやら杞憂で済みそうだった。
天体観測にはもってこいの夜だった。彼はふと、何年後、何十年後かに、この場所にいた子どもたちから天文学を志す少年少女が現れるのだろうかと思い、望遠鏡を覗いて声を上げている子どもたちのなかに自分自身の幼い姿を見た気がした。
「ねえ、先生」
舌足らずな声に、彼は現実に戻る。
「あれ、なあに?」
「ん、どれかな」
「月の横に光ってるやつ」
「月の横?」
肉眼で月を見上げる。今日の月は半月だった。青白く、どんな星よりも強く巨大に輝いている月。しかし肉眼では月の横にはなにも見えなかった。火星かなにかかと思うが、今日のこの時間、火星はもっと低い位置にあるはずだった。
「月の横になにか見えるの?」
「なんかね、きらきらしてるよ」
「きらきら? ちょっと、見せてくれるかな」
望遠鏡を譲ってもらい、目を当てた。眩しい月の輝き。表面の海までよく見えた。望遠鏡をほんのすこしだけ右横へずらすと、たしかになにか、きらきらと輝くものが見えた。
はじめ、レンズの傷かなにかかと思う。望遠鏡を移動させてもその輝きが合わせて位置を変えることはない。かといって星ではないのもたしかだった。そのきらめきは、一等星よりもはるかに鋭い。
「なんだ、あれは……?」
見たことがない天体現象だった。
まるで、月が涙を流しているような――月の右端からきらきらと光る雫がこぼれ落ちているような、そんな光。
月の観測は専門ではなかったが、それにしてもそんな現象は聞いたことがなかった。塵かなにかが光を反射しているのかもしれない。しかし月の右端に光を反射するほどの「塵」が存在するはずがない――。
彼は望遠鏡を外れ、肉眼で月を見た。
肉眼では、そのきらめきは捉えられない。しかし月に近い場所、三十万キロ離れた宇宙でなにかが起こっているのはたしかだった。
彼は子どもたちの声を聞きながら、そのなかに宇宙のざわめきのような、正体不明の音を聞いた気がした。
*
東京は三鷹にある国立天文台の事務所には日本中から様々な連絡が届く。
たとえば国立天文台が管理している各天文台への見学の申し込みや、天体現象に関する問い合わせ、メディアからの取材依頼もあれば、新しい星を見つけたかもしれない、というアマチュア天文学者からの熱のこもった電話やメールが届くこともある。
しかし基本的には、国立天文台は騒がしい場所ではなかった。
その事務所内がいま、日付も変わろうかという時間にも関わらず、ひとの足音やほとんど叫びに近い声で溢れ返っていた。
「より鮮明な写真が必要だ。ファックスで送られてきた写真を集めてください」
「熊本の方からも同じようなファックスが届きました」
「ボードに張り出しておいて。それからJAXAにも連絡を」
電話が鳴り、ファックスが動き、職員たちが対応に追われて狭い事務所内を走り回っている。
一度は帰宅し、職員からの連絡で再び事務所で出てきた国立天文台台長の関本は、その騒がしさに事務所の入り口でしばらく立ち尽くした。しかしそうはしていられないと、事務所のなかに入る。
「遅くなってすみません。いったいなにが起こっているんですか」
「台長、お休みのところすみません――ただ、大変なことになっていて」
「どうしたんです?」
「これです」
職員のひとりがホワイトボードを指さした。そこにはファックスで送られてきたらしい写真が何枚も張り出されていた。
関本はメガネを上げ、裸眼でそれをじっと見つめる。もともと解像度がよくないのか、それともファックスのせいか、写真はすべて荒かったが、どれも月を撮ったものであることはすぐにわかった。そのどこが「大変なこと」なのか、しばらくわからなかったが、ふと月の右端になにかが写っていることに気づいた。
それは、ちいさな光の点だった。
星ではない。それよりも近い位置、何光年という距離ではなく、ほんの何十万キロかの距離にある、光の点。
ちいさかったが、光の点はひとつではなかった。まるで月の破片が宇宙空間に飛び散り、それが太陽光を反射しているようにも見える。
「なんですか、これは?」
「それがわからないんです。でも、日本中から問い合わせがきています。月の横になにかがある、と」
「もっと鮮明な画像はありませんか」
「いまいくつかの観測所に頼んでいます。ただ月が明るすぎて、そのままの状態ではなかなか――時間をかけられるなら画像処理をして見やすくできるんですが」
これは世界中の天文学者にとってまったく未知な天文現象である可能性もある。そうなった場合、だれが最初に見つけたか、というのは重要な問題だった。数分、もっといえば数秒でも発見、報告が遅ければ、発見者という名誉は得られない。
いま月が観測できる地域の研究者はすでにこの現象に気づいているにちがいなかった。あとはだれがその正体を突き止めるか、だ。
「熊本の天文台から写真がきました!」
その声に全員が振り返り、ひとつのパソコンの前に集合する。天文台の職員からのメールでは、信じられない、という言葉がいくつも並んでいた。
問題の画像は添付ファイルとして送信されていた。それを、開く。パソコンのディスプレイが一瞬暗くなる。月の右下、問題の部分を大きく拡大した写真で、画面の左半分は月で隠れていた。しかし月の明度は画像処理で抑えられ、肝心の部分だけが暗い背景に浮かび上がっている。
そこに写っているのは、単なる光点ではなかった。
「……これは」
その場にいた全員が言葉を失い、身じろぎもせずディスプレイに釘付けになる。
だれもが同じように感じ、しかしだれもが言葉に出すことをためらうような、不気味な静寂だった。
やがて関本が、ため息をつくようなちいさな声で呟いた。
「みんなにどう見えているかはわかりませんが――私には、これは、戦闘機のように見えますよ――」
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