復讐放棄


「……やはり乗り越えましたか。お見事ですよ、リヴェルくん」


 零時三十分。懐中時計で時間を確認すると、ほっと安堵しながらジェズアルドは時計をスーツの内ポケットにしまう。適当な瓦礫に腰を下ろし、ぼんやりと考え事をしていたらいつの間にか時間が過ぎてしまっていた。

 ジェズアルドは立ち上がり、スーツについた埃を軽く払ってから歩き出す。その手には、かつて愛用していたナイフが握られていた。

 夜闇の中、雑草を踏みつけながら歩く。今夜は満月だから、まるで昼間のように明るい。


「ああ、きっと今頃大喜びで跳ね回っていることでしょうね。褒めてあげたい。あの柔らかい髪を撫で回したい。でも……もう、無理ですね」


 リヴェルがパスワードを思い出すことは確信していた。根拠はない。ただ、彼なら大丈夫と最後まで信じたかっただけだ。

 もし失敗して、アルジェントが焼け野原になっても、それはそれで構わなかった。


 自分と『兄』が消滅するなら、それで十分なのだから。


「あなた、一体いつまでここでアーサーくんを待つつもりなんですか――カイン」


 かつては広い庭園であっただろう場所の、大きな木の前に佇む吸血鬼の名前を呼ぶ。

 カインは背中を向けたままだが、ジェズアルドの存在には気づいていたらしい。


「……アベル」


 どくんと、遠い昔に死んだ筈の心臓が跳ねるよう。懐かしい声だ。

 腰に届く長い紅髪も、その手に携える紅い大鎌もあの頃とは全然違うが。その声だけは、どれだけ時を経ようが変わらない。


「どうして、ここに居る。いや、それよりも爆弾は――」

「なんだ、知ってたんですね。爆弾は無力化しましたよ。リヴェルくんがパスワードを思い出しましたから。残念でしたね、死ねなくて」

「リヴェル……あの子にはお前の力は通じない筈だが、一体どうやって」


 こちらに背を向けたまま、カインがたずねる。どうやら、僕の姿なんか見たくもないらしい。

 それとも、反撃のタイミングを窺っているのか。


「もしかして、僕がリヴェルくんに命令して強制的にパスワードを思い出させたとでも? そんなこと、必要ないんですよ」

「……なぜ?」

「あの子には困難に立ち向かい、それを乗り越える力が十分あるからですよ」


 嗚呼、なんて愚かな男だ。今まで生きてきて、多くの血族を生み出しておいて、カインは学ぶことが出来なかったのか。

 子供という存在が持つ、無限の可能性を。


「だから、もう僕がリヴェルくんにしてあげられることは何もありません。あなたがアーサーくんに何もしてあげられないのと一緒です」

「私、は」

「僕達はもう、この世界に居るべきじゃないんですよ、カイン。だから、もう終わりにしましょう」


 ジェズアルドがナイフを握り締める。


「あなた、アーサーくんに殺してくださいっておねだりしたそうですね。そんなに死にたいなら、僕が殺してあげますよ」

「確かに、私は死を望んでいる。だがアベル……私は、お前に殺されるわけにはいかない!」


 右足を軸に、カインが振り向きざまに大鎌を降りかぶる。紅い残光はまるで、闇から噴き出した血のようだ。

 だが、遅い。他の誰かならば、反応すら出来ずに真っ二つにされただろうが。

 ジェズアルドという存在は、カインにとって唯一無二の必殺の刃である。


「――

「ぐッ!?」


 面倒な装飾を全て取り払った命令。遥か昔、神に逆らいし堕天使の気まぐれで与えられたこの力は本来、あまりにも強力で無慈悲なものだ。だから、普段は使い勝手を重視して遠回しな言い方をあえて用いているのだが。

 この男が相手なら、手加減無用。地面に突いた大鎌を支えにして、崩れ落ちそうになるのを辛うじて堪えるカイン。まるで彼の身体が、見えない何かに押し潰されようとしているかのようだ。

 そしてジェズアルド自身も、心臓が締め付けられるような痛みに襲われていた。強力な力を行使した、その代償だ。


「う、ぐぅ……!」

「ふ、ふふふ。真祖ともあろう男が、立っているだけでやっとですか」


 強がってみるが、ジェズアルドは驚いていた。ジェズアルドが本気を出しても、カインを完全に征服することが出来ないなんて。

 それとも、自分にまだ迷いがあるというのか。


 ……あるのだろう、きっと。


「まあいいです。追いかけっこはもう終わりにしましょう。長かった……本当に、永遠のようでした」


 動けないカインの前に立ち、ナイフを突きつける。これで終わりだ。

 何もかも、


「カイン、あなたを許してあげましょう」

「許す、だと」

「そもそも、あの堕天使さんが悪いんですよね。あの人は僕に復讐の力を与える代わりに、とても面倒な条件をつけたんです」


 かつて、ジェズアルドがまだアベルと名乗って居た頃の話だ。カインに殺された後、神の慈悲を拒絶したアベルが辿り着いた先が堕天使の元だった。

 強大な力を持ったばかりに、傲慢にも神に逆らい地獄へと堕ちた美しくも愚かな堕天使。なぜだか彼にやたらと気に入られてしまい、カインへ復讐するための力を与えられて、今に至るわけだが。

 この力を貰うために提示された条件こそが、問題なのだ。

 

「カイン、あなたは自分が死ぬことも、殺されることも恐れていない。むしろ、望んでさえいる。神の寵愛こそ、あなたが渇望するものですからね。よって、あなたが恐れていることは一つだけ。神に拒絶され、一人で消滅していくこと。だから、僕に殺されることだけは絶対に避けなければならない。神の加護を受ける僕が手を下せば、あなたは二度と神の慈悲を受けられないと思った。でも、それは違う。僕が受けているのは、堕天使さんの加護なのだから」


 僕が神の加護を受けていたならば、僕の行為は神の断罪となる。だが、堕天使の加護を受けた僕の行為は、神からすれば自身への反逆だ。

 あの麗しき堕天使は、アベルを神から奪うだけではなく、二度と愛することが出来ないような過ちを犯させたいのだ。

 その過ちこそが、カインの殺害だ。


「このまま僕があなたを殺せば、僕は反逆者として神の裁きを受けるでしょう。つまり、僕という存在の完全な消滅……いや、もしかしたら堕天使さんが何か仕掛けてくるかもしれませんが。どちらにせよ、ロクな目に遭わなそうです。あなたが僕以外の誰かに殺されて、無様に消滅するのを見届けてから、神の寵愛を受ける。それこそがあなたに対して最大の復讐になると思ったのですが。もう、どうでもよくなりました」

「ッ!!」


 試し切りのつもりで、カインの頬を切り付ける。長い紅髪が一束巻き込まれ、地面に散らばって落ちた。

 真っ赤な血が傷口から溢れる。苦痛に歪む顔を見れば、もう少しくらいは高揚するかと思ったが。

 ナイフの刃を自分の口元に近づけ、血の雫を舌で掬ってみる。今まで口にした血の中でも特に甘美だが、それでも何の感慨もなかった。


「この僕が、たった一人の子供のために自分の復讐を諦めることになるとは……まあ、いいです。疲れました。ここで終われるなら、僕はもう十分です」

「ま、て……アベル……」

「あなたが僕を殺した時のように滅多刺しにしてやろうかと思っていましたが、それさえも面倒です」


 さっさと終わらせるために、カインの喉元にナイフを添える。このまま頚動脈を切ってしまえば終わる。

 ナイフで生き物を殺すのは久しぶりだが、かつてはそれを生業にしていたのだ。使い慣れたナイフが手によく馴染む。

 失敗はない。カインを殺して、それで終わりだ。


 終わりになる筈だった。


 ……それなのに、どうしてこうなったのだろう。


「――その復讐、ちょっと待ったあぁ!!」

 

 



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