残される者

 もしもリヴェルを連れ去ったのがカインだったとしたら、全てを投げ捨ててでも助けに行った。でも、彼をさらったのはアーサーだった。

 気がついてしまったのか、自分の家族を奪ったのがルシアだったということに。


「やれやれ、なかなか思うようにはいかないものですねぇ」


 ジェズアルドは思わずため息を吐いた。アーサーは自分の過去を忘れてしまっていた。否、記憶を歪ませてしまっていたのだ。それ自体は何も不自然ではない。そうしなければ、彼の幼い心を護れなかったのだろう。

 しかし、全てを思い出した今、アーサーはルシアに復讐するべくリヴェルを殺そうとしている。最初はすぐに助けに行かなければと思った。

 でも。僕は途中で『彼女』を見つけてしまった。


「本来ならば、貴女に構っている暇は無いのですが……何故、でしょうね」

「うぅ……ジェズ、さん」

「はいはい。此方ですよ、ヴァニラさん」


 先を歩き、ヴァニラが追い付くのを待つ。彼女に構っている余裕は無いのだと、自分の中の何かが叫ぶ。わかっている。わかっているとも。

 別に、ヴァニラが放っておけなかったという理由で構っているわけではない。今、この瞬間もリヴェルが危険に晒されているのだから。

 ……でも。不思議なことに、ジェズアルドはヴァニラを手助けしてやることを選んだ。不自然に折れ曲がった右腕に、今にも腐り落ちてしまいそうな両足。生前の彼女とは、まるで別人のようになってしまった姿は痛々しい。


「ジェズさん……のど、かわいた」

「はい、わかっていますよ」

「血が欲しい……ねえ、いつもみたいにちょうだい」

「それは出来ません。僕は二度と、自分の血を誰かに与えないように決めたんです」


 もう、ヴァニラは長くない。先日負った傷が深すぎる。放っておいても自壊するだろう。否、とっくに力尽きていてもなんら不思議ではなかったのだが。


「う……ゥ、くるしい……くるしい、よ」

「ヴァニラさん、此方ですよ」

「もう……ろ、して……ジェズ、さん」

「ヴァニラさん、もう少しですから頑張ってください。会いたいのでしょう、テュランくんに」

「テュラン……うん、会いたい」


 テュランに会いたい。たったそれだけの思いが、彼女を今まで繋いでいた。信じられない程に純粋で、目を背けたくなる程に健気で。この僕でさえ動揺し、足を止めざるを得なかった。

 今でもまだ、リヴェルの安否が気になって仕方がない。それでも、自分でも何故かわからないが。あの場に、自分が行くべきではないと思ってしまうのだ。

 それに、ジェズアルドは知っている。アーサーは弱い。テュランのように復讐に狂うこともなければ、ルシアやサヤのように他者の為に命を投げ出せる度胸も無い。自分を護る為に、カインの事でさえ歪めて忘却した程だ。

 だからこそ、アーサーは誰よりも正しい道を見つけることが出来る。どんなに茨が張り巡らされていようが、霧が覆っていようが彼は見つけられる。その証拠に、彼はちゃんとカインを思い出した。

 それに、リヴェルも――


「ジェズさん……こ、こは」

「此処ですよ、ヴァニラさん。テュランくんは、この場所で眠っています」


 二人が辿り着いた場所は、街外れにある公園だった。公園とは言っても、子供が遊ぶ遊具も無ければ年寄りが休憩するベンチも無い。どちらかと言うと、自然や地形を保存する為の保護区に近い。

 そんな公園の一角に、テュランの亡骸は葬られていた。このことを知っているのは、国内でも極僅かだ。人間を憎み、世界を恨んだテュランが少しでも安らげるようにとサヤが選んだ場所だから。

 燃やそうが海に捨てようが、死んだ者は殆どが神の元に行くというのに。方法に違いはあれど、世界中の人間は揃って亡骸を大事に葬るのだから不思議だ。


「テュラン……」


 ふらふらと歩み、とうとうヴァニラが芝生の上に座り込んでしまった。ぺたぺたと、感触を確かめるように地面を触る。

 もちろん、返事なんかない。


「ジェズさん……テュラン、ここには居ないよ……」


 座り込んだまま、ヴァニラがこちらを見た。期待していなかったが、やはりテュランが埋葬されているということは理解出来ないか。

 それでも、ジェズアルドが出来るのはここまでだ。あとは無理矢理繋がれた命を断ち切り、ラクにしてやれば――


「あー……でも、ちょっと出掛けてるだけか」

「え?」

「ここで待ってたら……きっと、すぐに帰ってくるよね……。うん、ありがとうジェズさん……あたし、ここでテュランを待つよ」


 にっこりと、生前を思わせる笑顔でヴァニラが言った。壊れかけで、血塗れだったけれども。

 テュランの隣で笑っていた、あの頃と同じ顔だ。


「……ヴァニラさん。あなたはどうして、そんな風に笑えるんですか」

「え?」

「貴女は、テュランくんに殺されたのに。どうして、許せるんですか。何故、死んだ後も彼を愛し続けることが出来るんですか?」


 無意識に、零れた問い掛け。何を、言っているのだろう。今のヴァニラにはもう、何かを考える能力は無い。生前の思いを引き摺っていることだけでも奇跡だと言うのに。

 首を傾げて、彼女が瞬きをする。


「……ジェズさんの言ってること、よくわかんないよ」

「そう、ですよね。すみません、今のは何でも――」

「でも、あたしはテュランのことが好きだから。何があっても、ずっと一緒に居るって決めたから」


 聞き間違えたのかと思った。でも、彼女は確かにはっきりと言った。


「だって、テュランはあんな感じだから。本当は優しいくせに、全部自分から遠ざけて。だからね、上手く言えないけど……あたしだけは、一緒に居たかった。本当は、テュランを助けたかったんだけど……あたし、バカだから。そんな方法思いつかなくて、だから……一緒に居るしか、出来なくて……」

「ヴァニラ、さん」

「なんて、ね。結局、テュランはあたしが居ないとダメダメだから。あたしがちゃんと、手を繋いで。引っ張ってあ、げない……と……」


 ぐらりと傾いて、ヴァニラが倒れ込む。限界だ。彼女の爪先が、ざらざらと砂になって風に崩される。


「えへへ……テュラン、あたしね……テュランに会えて、幸せだったよ」


 それが、ヴァニラの最後の言葉だった。いや、彼女は一年も前に死んだ。だからこれは、彼女にとっては悪夢でしかないのだが。


「何故……幸せだなんて、言えるんですか」


 答えは返って来ない。ただ、目を瞑った彼女の笑みが全てを物語っている。ヴァニラは本当に、幸せだったのだ。

 憎悪が入り込む余地が無いくらいに、彼と過ごした日々を幸せだと肯定してみせたのだ。


「……僕がどうしても出来なかったことを、二十年も生きられなかったあなたがこんなにも簡単にやってのけるなんて」


 羨ましい、と思うことさえおこがましいと言われた気がした。そうだ、ようやくわかった。いや、今まで目を逸らしていただけで、真実はずっと目の前にあったのだ。

 もう、受け入れるしかない。風に攫われていく彼女を見送りながら、ジェズアルドは静かに自嘲した。


「そろそろ、全てを終わりにしましょうか……カイン」

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