屍の少女
「……な、何を」
意味が、わからなかった。わかりたくなかった。リヴェルはテュランではない。たとえ双子で、血を分けた兄弟で、記憶を持っていようとも。リヴェルは、テュランのような悲しい復讐者にならないと思っていた。
なっては、いけない。
「リヴェル、それはどういう……お前は――」
「ヒーロー、あれ……」
真意を問い質そうとするも、リヴェルが困惑しながらアーサーの背後を指し示す。反射的にそちらを振り向いた瞬間、アーサーの心臓は驚きの余りに激しく動悸した。
「あれ、は……」
夢を見ているのかと思った。そうであって欲しかった。でも、吐き気を催す程の臭気が現実を痛い程に訴えてくる。今にも倒れ込むのではないかと思う程に、覚束ない足取り。ふらふらと危うい、それでもその『少女』は確実にこちらへ向かってきた。
血と脂が混じった、べたつく腐臭。それは汚れた服から香るものか、それとも『彼女自身』から漂うものなのか。恐らく、否、確実に後者だ。
彼女が死人であると、アーサーは知っているのだから。
「……テュラン。やっと、やっと会えたね? やっと、やっと会えた……」
抑揚の無い声で、少女が言った。どす黒い紅に濡れた頭髪の所々に、かろうじて元々の髪色だった白が見える。露出した腕や膝に乱雑な縫い目、肩や首には汚れた包帯が目を引く。
虚ろでありながらも、狂気じみた歓喜の表情。その声も、見た目も、アーサーの記憶にあるものと重なる。
認めたくはない。だが、認めるしかない。
「くそっ、ただの噂話かと思っていたのに……まさか、ヴァニラが本当にグール化していたなんて」
シダレや他の皆が話していたのを、確かに聞いていた。ヴァニラがグールと化して、人が寄り付かない廃墟区域に出没していると。
「えっと、ヒーロー……あれ、誰?」
「は……? お前、何を」
言っているんだ、という言葉を飲み込む。そういえば、彼が持つテュランの記憶にはヴァニラの情報だけが欠落していたのだった。姿は大分変わってしまったが、本人を前にしてもこの様子ということは、本当に知らないのだろう。
それでも、ヴァニラはリヴェルを……彼の面影に色濃く残るテュランを見つめ続けた。
「……テュラン? どうしたの、アタシだよ? ヴァニラだよ、ねえ……テュラン……約束、したじゃん……」
「ヴァニラ? 約束……う、ぐッ!?」
「リヴェル!」
ふらりと、頭を抱えるようにしながら蹲るリヴェル。咄嗟に膝をつき、リヴェルの肩に触れる。小刻みに震えて、顔面は蒼白。彼を連れて逃げようにも、今のリヴェルをバイクに乗せるのは難しい。
グールは生者の血肉を欲する。そして、深い絆がある者を狙うことが多い。獲物が弱っているのなら尚更だ。
ヴァニラはまだ知能が残っているようだが、リヴェルをテュランだと思い込んでいるらしい。このままでは、リヴェルに襲いかかるだろう。
「……リヴェル、立てるか? ヴァニラは俺が何とかするから、近くの建物の中に隠れていろ」
アーサーは立ち上がり、リヴェルをその場に残して歩みを進めた。一年前の、あの時の情景が思い出される。考えるな、彼女はもう死者なのだ。
止めなくては、ヴァニラを。過去に縛られた、哀れな人外の少女を。
「……何、アンタ……」
「ヴァニラ、テュランは死んだ。あそこに居るのは、テュランの兄弟であってテュラン本人ではない」
ぴたりと、ヴァニラが足を止める。この言葉を、テュランは死んだという事実を理解してくれるだろうか。グールになった彼女を救う手立ては無い。
せめて、アーサーが持つナイフで苦しまぬように逝かせてやるしか――
「……なに、言ってんの? テュランは、テュランだよ。アンタ……また、ジャマするの? テュランにまた、ヒドイことしようとしてるんでしょ」
「頼む、ヴァニラ。止まってくれ」
「ウルサイ!!」
血走った目が、アーサーを捕らえた。息も吸えない程の殺気を振りかざし、ヴァニラが地面を蹴って前へ飛んだ。今にも倒れてしまいそうだった歩みとは一変し、生前と変わらない動きに反応が完全に遅れた。
少女が繰り出した拳を、咄嗟に右腕で受ける。ヴァニラと対峙するのはこれで二度目だが、あの時とは比べ物にならない。
比べ物にならないくらいに、彼女の動きは化け物じみていた。
「ぐッ!?」
受け止めきれず、数歩下がって何とか体勢を保つ。おかしい。確かにグール化した者は理性を失っている為に、生者では有り得ない程の力を発揮することがある。だが、その反動で肉体が崩壊したり行動不能になることがほとんどの筈。
でも、ヴァニラはそうではなかった。
「人間なんかに……! 人間なんかに、テュランは渡さない!! もう二度と、人間なんかに好き勝手させないんだから!! 返せ……テュランを返してよぉ!!」
喉が裂けるのではと思う程の、悲痛な叫び。次々と放たれる打撃に、アーサーは防戦一方だった。取り押さえようにも、ヴァニラの攻撃を防ぐので精一杯なのだ。足に仕込んだナイフを抜くことすら出来ない。
なぜ、いくら以前のヴァニラは身体能力に優れていたとはいえ、一年前に死んだ彼女がここまで動けるのはいくら何でも不自然だ。
「ッ!!」
強烈な一撃がアーサーの右肘を直撃した瞬間、みしりと鈍く軋む。まずい、隙を作らないよう一旦距離を取ると、右手を軽く握り締める。
辛うじて動くものの、指先はもう使い物にならない。ヴァニラの攻撃を受け続ければ、すぐに腕が上がらなくなるだろう。
「あはっ、あはは! どうしたのぉ? アタシのことが怖くなっちゃった? 命乞いするなら、一撃で顔面ぶっ潰してあげるよぉ!?」
「……それは勘弁して欲しいな」
仕方無い。このままでは、左手も使えなくなるかもしれない。そうなれば、ナイフを使うことすら難しくなる。アーサーは更に距離を取って、ナイフを取り出そうとした。その時だった。
――乾いた銃声が一つ、辺りに何度も響き渡る。
「え……」
銃弾は、ヴァニラの左肩を掠めた。ほとんどダメージを与えられていないだろう。それでも、彼女を怯ませることが出来た。
絶好のチャンス。わかっていた、理解はしていたが。アーサーは頭が真っ白になったまま駆け出し、ヴァニラではなく、背後で銃を構えるリヴェルを押さえ込んだ。
「やめろ、リヴェル!!」
「ヒーロー!? 何してんだ! あのグール、今仕留めないとヤバいって!」
彼の手から銃を叩き落とし、遠くへ蹴り飛ばす。顔色はまだ悪いが、銃を撃てるくらいには回復したらしい。隠れていろと言ったのに、リヴェルはアーサーを援護してくれたのだ。相手が兄の手で殺された恋人であることも知らないままに。
どこまでも優しくて、泣きそうになるくらいに残酷な行為。それをリヴェルが理解する術が、今は無い。
「わかっている……でも、お前がヴァニラを撃つなんて……それだけは、やめてくれ」
「ヒーロー?」
「頼む。もう、二度と……あんな、悲しいことはやめてくれ……」
あの日、テュランは自らの手でヴァニラを撃ち殺した。恋人関係であったにも関わらず、一切の慈悲も、躊躇も無く。テュランの名を何度も呼び、泣いていた少女に何発もの弾丸を浴びせた。
全ては、人間への復讐の為に。見せ付けられた憎悪と、透き通るくらいの純粋さはアーサーの記憶へ痛みを付随させるのに十分過ぎたのだ。
「テュラン……なん、で」
ハッとして振り返り、リヴェルを庇うようにして立つアーサー。しかし、再びヴァニラが仕掛けてくることはなかった。
ただ、悲しそうに。両腕をだらりと下げて、項垂れる。
「テュラン……どうして、アタシを撃つの……? アタシは、ただ……約束、を……」
「えっと、オレは……その……」
声を震わせるヴァニラに、リヴェルは何かを察したのだろう。銃を再び手にしようとはしなかった。
今だ。戦意喪失した今を狙うしかない。アーサーはナイフを手にしようと、僅かに屈んだ。
同時に、ヴァニラが嗤った。
「あは、アハハハ! そっか、そっかぁ。テュラン、また人間に実験されちゃったんだねぇ? かわいそう、カワイソウに。そのせいで、アタシのことを忘れちゃったんだ。ジェズさんの言う通りだったよ」
「何!?」
馬鹿な、どうしてここでジェズアルドの名前が出てくるのか。思わず目配せするが、リヴェルも困り顔で首を横に振るだけ。
まさか、あいつ!! 沸々と苛立ちが込み上げてきて、ヴァニラを問い詰めようとさえ考えた。
「えへへ。今は、ムリだけど……アタシが絶対に助けてあげるからね。もう少しだけ待っててね、テュラン」
「ま、待て――」
ヴァニラが背を向けて、その場を立ち去ろうと駆け出す。逃がすものか!! アーサーもすぐに彼女を追いかけようとした。でも、止められてしまった。
リヴェルが、アーサーの左手首を掴み、頑なに離そうとしなかったから。
「リヴェル!? お前、何を――」
「…………」
「……リヴェ、ル?」
「うん? ……わっ、ごめんヒーロー! ジャマするつもりじゃなかったんだケド……あー、あの女の子、居なくなっちゃったな」
パッとアーサーの手を離し、リヴェルが申し訳なさそうに頬を指で掻きながら。逃げられちゃったかー、と。無人の街に姿を消したヴァニラを探す彼に、アーサーの心臓は痛いくらいに大きく跳ねていた。気のせいかもしれない。でも、アーサーには確かに見てしまったのだ。
――リヴェルの瞳が、ほんの一瞬だけ『金色』に輝いていたのを。
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