過去
※
「ねえ、リヴェル……あなた、本当にヴァニラのことを覚えていないの?」
「んー……覚えてないっていうか、知らないっていう方が近いかも」
リヴェルが洗った食器を拭きながら、サヤがもう一度問う。意外にもリヴェルは家事に小慣れており、掃除や洗濯、簡単な料理くらいは出来るらしい。
だから、後片付けの手伝いを口実にして。ヴァニラの名前を再度彼に突き付けてみる。だが、反応は変わらなかった。
「……トラちゃんが私とアーサーに囚われた時に、ヴァルツァー大統領が会見を開いたことは憶えてる?」
「あー、ジェズが助けに来てくれた時? 憶えてるよ?」
「その時……その、トラちゃんが隠し持っていた銃で……誰かを撃たなかった?」
サヤ自身、あまり思い出したくない記憶ではある。心を開いてくれたと思っていたテュランに、最悪な形で裏切られて。ズタズタに傷付けられた心が、軋むように痛む。
それでも、聞きたかった。
「えっと……あー、名前がわかんないんだケド。片眼に眼帯したオッサンを撃ったな。あとは大統領さんとか……テュランが殺しちゃったのは、その眼帯のオッサンだけだと思うケド?」
リヴェルが答える。やはり、彼に誤魔化しているような様子は見られない。記憶も正確だ。だが、そこにヴァニラだけが居ない。
彼が言う眼帯の男とは、当時サヤと同じ職場で働いていたアクトン隊長のことであろう。彼は当時、大統領直轄部隊の隊長であった。歴戦の猛者であったが、テュランに撃ち殺されて死亡した。
でも、アクトン隊長はただ撃ち殺されただけではない。彼はヴァニラを捕らえ、彼女を人質にテュランを止めようとした。でも、勝ったのはテュランの方だった。
テュランはアクトン隊長を殺す為に、恋人である筈のヴァニラをも撃ったのだ。
「……そう」
サヤは、確信した。どうやら、リヴェルは本当にヴァニラという少女のことを知らない。彼が持つテュランの記憶からは、ヴァニラだけがすっぽりと居なくなってしまっているのだ。恐らくそれは、リヴェルが悪いわけではない。
でも、それならどうして。サヤは、思わず考えてしまう。
「もしかして……トラちゃんは、ヴァニラのことを……都合の良い道具にしか思っていなかったのかしら」
それは、あり得る。テュランは復讐の為なら何であろうと犠牲にして見せた。簡単に切り捨てた。ならば、ヴァニラもまたテュランにとっては都合の良い道具でしかなかったのだろうか。
ヴァニラと面と向かって話したことは、ほとんどない。でも、死に際に見せた彼女の表情には、紛れもなくテュランへの恋心があった。サヤも同じ女だから、わかる。
でも、テュランはそうではなかったのだとしたら。
「トラちゃんをそこまで歪めてしまったのは……私、ね」
全てを切り捨て、復讐に狂い最後は自ら死を選んだ幼馴染。臆病で泣き虫な、優しい少年。彼を変えてしまったのは、紛れもなく自分。サヤはぐっと唇を噛み締め、苦痛を堪える。
この命で償えるのなら、何でもする覚悟は出来ているというのに――
「おねえちゃん? ……大丈夫?」
「え?」
ハッとして、振り向いた。そこに居る少年を一瞬だけ、都合の良い形で見間違ってしまう。落ち着け、彼は違う。サヤは自らを叱咤しながら、緊張していた肩から力を抜く。
「ええ、大丈夫よ……リヴェル」
「そう? 疲れたんなら、休んでて良いよ。後はオレが片付けておくから」
「ううん、もう少しで終わるから」
言って、改めてリヴェルを見やる。背丈も、体格も顔立ちもテュランとそっくりだ。でも、テュランとはまるで違う。数日間一緒に過ごしただけでも、わかる。リヴェルは、幼い頃のテュランがそのまま大きくなったような子だ。
真っ直ぐで、優しくて。サヤが手放してしまった、護れなかった、温もりそのもの。
「……私、ルシアが妬ましいのかも」
無意識の内に、思いの欠片が唇から零れてしまう。しまった、と思った時にはもう遅くて。
「ね、妬ましい?」
リヴェルが怪訝そうに、サヤを見る。何でもない、では誤魔化せないか。サヤは観念して、一度部屋の中を見回す。
アーサーとシダレは何やら用があるらしく、朝食後すぐにガレージの方へと行ってしまった。
「……そう。ルシアの強さが、ね。私には、無かったから。彼の強さが羨ましくて、妬ましいのよ」
一目見て、わかった。ルシアはとても強い男だ。ダンピールであることもそうだが、彼はとにかく意思が強い。
どんな手を使ってでも、リヴェルを護り抜く。幼い頃のサヤには無かった強さ。それこそが、サヤとルシアの違いだ。
「私にも、ルシアと同じ強さがあれば……トラちゃんを護ることが出来たのに」
「アハハ! それは、仕方ないと思うケド。歳が七つも離れてるからさ、オレが助けて貰った時にはもうルシアは超強かったし」
「助けて、貰った?」
「そ。オレもおねえちゃん達と似たような感じだったんだ。物心ついた頃には既に、テュランとは別の研究所に居てさ。その頃からルシアと……なんていうか、ダンピールとして生まれたのがオレ達二人だけだったから、ルシアがオレの面倒見てくれてたんだ。あの研究所はなんていうか、ジリ貧だったみたいだから」
「ダンピール製造計画……人工的にダンピールを生み出し、世界で唯一にして最強の軍隊を作る計画……か」
その話は、ルシアとジェズアルドから聞いていた。人間離れした身体能力を持つダンピールを人工的に製造し、強大な軍隊を作る。それが、かつてアルジェントが国家予算を注ぎ込んだ計画である。
しかしリヴェルの話によると、彼等がいた研究所はかなり小規模なものだったらしい。ダンピール製造計画は最低でも三十年は続けられていたものの、結果的に成功した個体はルシアとリヴェルの二人だけ。実験規模は徐々に縮小され、最終的には研究員も十人足らずのところまで削られた。
そんな事情からか、せっかく生まれたダンピールの子供を世話する人員すら足りない程で。リヴェルのことは、同じダンピールであり年上のルシアが面倒を見ることになったらしい。
そうしていつの間にかルシアが兄、リヴェルが弟という兄弟のような関係となったらしい。
だが、そんな二人の絆も長くは続かなかった。
「おねえちゃんやテュランと比べれば、オレの待遇は全然マシだったんだよ? まあ……質素で大して美味くはなかったケド、三食の食事とおやつも貰えたし。言われた実験や検査に大人しく協力すれば、部屋の中だったケド自由に遊ぶことも出来たしな。でも……それも、オレにテュランとのシンクロ能力があるとわかった途端に奪われちゃったんだケド」
リヴェルの顔に、暗い影が落ちる。研究者達はリヴェルに、テュランとのシンクロ能力があることを知ってしまった。すると、これ幸いだとリヴェルにあらゆる実験を行い始めた。
しまいには、ルシアを含めたあらゆる『異物』から隔離する措置を取ったのだと言う。
「隔離? どうして、そんなことを」
「ほら。もしもテュランが転んでケガをしたとするだろ? その記憶をオレも持っているかどうかを調べたくても、オレも同じ時期にケガをしたら記憶がごちゃごちゃになっちゃうじゃん? だからオレは、朝から晩までベッドに括り付けられてさ。真っ白な部屋の天井ばっかり見上げて毎日を過ごすようになったワケ」
全てはリヴェルから、『テュラン』以外の邪魔な情報を排除する為に。あらゆる異物から、そして共に育ったルシアとも引き離されてしまい。
リヴェルは何年もの時間を独り、何もない部屋に幽閉されることになった。
もしかすると、彼が精神的に幼いのは隔離された過去が原因となっているのかもしれない。
「そう、だったの」
「それでも、テュランよりマシだったケドな。テュランが暴行されたり、実験で変な薬を飲まされたりしている間、オレはただ大人しくしていれば良かったんだから」
言って、彼は自虐的な笑みを浮かべる。ああ、この表情はテュランとそっくりだ。そう思うだけで、サヤの心はズキンと痛んだ。
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