三章 失われた記憶
飼い犬
アルジェントの夜は常に闇夜である。かつては真夜中であっても、規則的に設置された街灯によって安全を確保されていたのだが。破壊し尽くされた街には、必要最低限の電力しか残されておらず。太陽が沈んでしまえば、国は不気味な闇に覆い尽くされてしまう。
今夜もそう。女は冷え込んだ夜気に白い息を漏らしながら、夜の街を歩く。双眼鏡型の暗視スコープを片手に、道端に転がる瓦礫を避けながら進む。昔からアルジェントは、他国のように華美で品の無い繁華街は存在しない為に、夜は静かだった。
だが、今のアルジェントを包むのは静謐ではなく、底知れぬ恐怖である。
「ねえ……本当にこの辺りに居るの?」
女はたまらず、先を歩く男に問い掛けた。五歩程前に居た男が歩みを止めて、女を振り返る。相手は夜目がきく為に、暗視スコープは持っていない。ゆえに緑色に染まった視界の中でも、男の凄まじい美貌は健在だった。
「はい」
男が答える。その返事は端的で明瞭。不要な部分は完全に削ぎ落とされ、気遣いなど一切無い。女は暗視スコープを降ろして、男を睨み付ける。ただでさえ気味の悪い思いを強いられているというのに、ちょっとは冗談か何かで此方の気を紛らわせようとは思わないのか。
暗闇の中でも、男の滲むような『紅』が見える。
「全く……どうして私がこんな思いをしなければならないの! コッチはただでさえ、国民のご機嫌取りに忙しくて苛々しているっていうのに」
「貴女が同行する必要は無いと、先に申し上げていた筈ですが」
「うるさいわね……大体、あなたがちゃんと躾をしていないからでしょう!? 『飼い犬』に逃げられるだなんて、なんて情けない!」
「……申し訳ありません」
自分でも、相当理不尽なことを言っている自覚はある。だが、それでも男は口答えをしなかった。表情を変えることもせず、ただ大人しく頭を下げるだけ。
細身だが、女よりは遥かに背が高く。闇を見通す目を持ち、どう考えても男の方が優位に立てる筈なのに。男は女に忠実だった。
否、そうではない。
「……あなたは本当につまらない。まるで、操り人形のようね」
彼は、どこまでも虚無な存在なのだ。自分自身で考えることを放棄し、判断を他人に任せ依存する。見えない糸に自ら囚われたがる、哀れで滑稽な人形。
まあ、その糸を操っているのが自分であるのだから、それだけは優越感を感じる。
「まあ、良いわ。さっさと行きましょう」
「はい」
女が言えば、男も再び踵を返した。コツコツと、互いの足音だけが埃っぽい空気に響く。再び、暗視スコープを覗き込んでみる。
さらりと靡く髪が、血のように紅いことを女は知っている。その瞳も。女自身、年齢の割には若々しさと美しさには自信があったりするのだが。男の美貌は嫉妬を通り越して最早美術品を眺めているような気持ちになる。
吸血鬼が総じて美しいのは……美しい者から生まれたから。彼を見ていれば、そう納得せざるを得ない。
「……ディアヌ様」
不意に、男が足を止めて女の名前を呼んだ。どうしたのかと聞く前に、ディアヌは悟った。
闇の静寂の中に蠢く気配。鼓膜に纏わりつくような粘着質な水音に、饐えた臭い。思わず手で口と鼻を覆う。
最悪。そう言葉にすることすらも出来なかった。
「ここでお待ち頂いてくださっていても結構ですが」
「あなた、やっと冗談を言ったわね? でも、全然面白くないわ」
こんな場所で一人残されてたまるものか。ディアヌがそう呻けば、紅い吸血鬼は無表情のまま闇を進んだ。
そして、ようやく見つけた。脂っぽくべたつく刺激臭に、ディアヌは吐き気を堪えるのに精一杯で。見かねたらしい男が、そこに居た『飼い犬』に先に声をかける。
「……ヴァニラさん」
男が名前を呼ぶ。ディアヌが最近飼い始めた犬の名前を。否、狼か。どちらにしろ見た目は十代の少女でしかない為、ディアヌからしてみれば可愛らしく、嗤ってしまう程に可哀想な『飼い犬』である。
ただ、定期的にちゃんと餌は与えているというのに。この『悪食』だけはどうしても治らない、むしろ酷くなっていくばかりだ。
「ウウ……ジェ、ずさ……のど、かわいた」
少女が、男を見上げる。ディアヌは暗視スコープ越しでしか見えていないので色を見分けることは出来ないが、酷い臭いは彼女が元だ。雪のように真っ白な髪をどす黒い紅に濡らして、顔までベタベタにしてしまっている。
埃だらけのコンクリートに座り込んだ、彼女の傍には無数の肉塊。それが何であるかを考える必要は無い。
「……ヴァニラさん。水をお持ちしましたので、どうぞ」
「ウウ……」
唸る姿は、飢えた野良犬のよう。元の容姿は可愛らしかったのに、今は『獣』としか呼びようが無い。男が水筒を差し出しでも、受け取る素振りすら見せない。虚ろな、しかし奥底に確かな狂気を孕んだ双眸で見つめるだけ。
溜め息を一つ吐きながら、男が水筒の蓋を開ける。そのまま口元へと運んで、少しずつ飲ませてやる。浮世離れしているように見えて、意外と世話焼きだと思う。
そんな、場にそぐわない光景を離れた場所から見守る。すると不意に、乾いた音と共に男が持っていた水筒が弧を描いて脇へと飛んだ。車どころか、ドブネズミ一匹通らない道路へと転がる。水はまだ結構残っていたようだが、全部零れてひび割れたコンクリートの染みと化してしまった。
今のご時世、飲める水は貴重だというのに。
「う、うげえぇ……ジェズさ、ん……喉が、かわいたよ。焼けてる、みたいに……いた、いよぉ。ねえ、はやく……ちょーだい?」
自分で水を振り払っておきながら、尚も飢えを訴える少女。薄ら寒い矛盾した言動。血塗れの手で、男の黒衣を掴む。
「喉が……の、どが渇いたよ……ねえ、早く」
「……ヴァニラさん。これ以上は駄目です。このままでは、どんどん『悪食』が進んでしまいます」
「のど、かわいた……くるしい、よ」
「ねえ、一体いつまで待たせるつもり?」
私は忙しいのよ。ままごと同然のやりとりを続ける二人を睨みながら、ディアヌが鋭く告げた。
「喉が渇いたって言っているのだから、お望み通りにあげれば良いじゃない」
「……ですが、これ以上吸血鬼の血を与えれば、ヴァニラさんもその辺りを徘徊する屍と同じになってしまいます」
珍しく、男が反論した。表情は変わらないし、声色もいつもと同じ無感情。それでも、確かに彼の意思を感じた。
へえ、と思わず口角を吊り上げる。
「あなた……もしかして、そういう娘が好みなの? それとも、彼女に何か思い入れがあるのかしら?」
「いいえ、そういうわけではありません」
「別に、壊れたって構わないわ。どうせ、使い捨ての駒でしかないんだし。ターゲットの存在を見つけるまでもてば良いの」
「……ですが」
「ねえ、あなたも私に捨てられたいの?」
びくりと、男の肩が跳ねる。初めて男の無表情が崩れた。怯える子供のように青ざめ、鮮血色の双眸が揺れる。もちろん、自分に忠実な純血の吸血鬼を簡単に捨てたりしない。
だが、恐らく彼はディアヌの言葉が偽りであることを判別出来ていない。それ程までに、男にとって誰かに『捨てられる』ことは恐怖なのだ。トラウマ、だなんて可愛らしいものではない。
言わば、これは『呪い』である。
「神様に捨てられて、星の数程のご主人様に見限られ……ボロボロになっていたあなたを助けてあげたのに、裏切るの……ねえ?」
「それは……それだけは、どうか……不躾な私を、どうかお許しください」
「それなら、私の言うことを聞きなさい」
「……はい、ディアヌ様」
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