日常

「おはよう、アーサー」

「……おはよう、サヤ」


 軽く身体を解すようにストレッチをしてから、グレーのパーカーを羽織り。一旦洗面所に寄って顔を洗い、跳ねた髪を水で無理矢理に撫で付けてからダイニングへと向かう。

 彼女とは所謂、同棲というものを開始してから一年近くが経ったが、未だに慣れない。長い黒髪を一つに束ね、黄色のエプロン姿で朝からテキパキと朝食を作っているだなんて、以前の彼女からは想像出来ない。

 ただ、知らなかっただけなのだろうが。


「遅いっすよー、旦那! 今日は久しぶりに卵が手に入ったんすから、あったかい内に食わなきゃ祟られますってー!!」


 騒がしい声の方を向けば、何食わぬ顔でシダレが椅子に座っていた。あのフサフサとした尻尾を毟ってやりたくなる。


「ふふっ、アーサーは相変わらず朝が弱いのね。『大統領府』に居た頃は気がつかなかったけど」

「あの頃は……凄まじい威力の目覚まし時計が四台あったんだ」


 アーサーが苦笑しながら、促されるままに席に着く。アーサーとサヤは、一年前までローラン・ヴァルツァー大統領の側近兼ボディーガードとして働いていた。

 当時は、彼女と顔を合わせるのは朝食を済ませた後というのが殆どで。流石に職場から支給された備品である時計を頂くことは出来ず、こうしてアーサーは毎朝強烈な眠気と戦わざるを得なくなったのだ。


「それよりも、すまないなサヤ。今朝は俺が当番だったのに」

「良いのよ、朝は期待していないから。その代わり、夜は期待しても良いでしょう?」


 クスクスと、サヤが笑う。一応、家事は二人で平等に当番制となっているのだが。アーサーはどうしても早起きが出来ない為に、自然と朝食を作るのはサヤの役目となってしまっている。


「うーん……新婚さん、良いっすねー。おれっちも早く可愛いお嫁さん欲しいなー」


 しみじみと、シダレが嘆息する。やはり一発殴らなければ。しかし、鼻腔を擽る香りが気分を落ち着かせる。

 トーストと野菜のコンソメスープ。今日は豪勢にもスクランブルエッグと缶詰のミックスフルーツまであった。


「シダレが缶詰と卵をたくさん分けてくれたから、今朝はちょっと豪華にしてみたの」

「へへっ、昨日は一日中『廃棄区域』に行ってましたから。缶詰は保存期限が大丈夫なやつだけ民家から回収してきました。卵は最近漸く養鶏場が安定してきたみたいで、分けて貰ったんすよ」


 誇らしげに、シダレ。彼は意外にも腕が立つ為に、よく危険な場所に単身で探索に行っては役に立ちそうな備品を持ち帰って来るのだ。

 飄々としているのが玉に傷だが、色々と気が利く奴である。


「あとは肉とか魚が手に入るようになれば良いんすけど」

「でも、シダレのお陰で随分助かっているのよ? いつもありがとう」


 エプロンを外して、サヤがアーサーの隣に座る。とんでもない、とシダレが照れ臭そうに笑う。シダレはいつも居るわけではないが、それでも何も変わらない朝食の風景である。

 漸く手に入れられた、平穏。


『……引き続き、お伝えします。人外による襲撃から、本日で一年となります』


 不意に、奥のリビングで点けっぱなしにされているテレビからそんな声が聞こえた。忙しい毎日でも効率良く情報を入手出来るよう、ダイニングで食事をしながらも見えるような配置となっている。

 そこには最近良く見かける、新人の女性アナウンサーが辛辣な表情でこちらを見ている。


『多くの被害を出し、今も尚続く『終末作戦』による犠牲者が後を絶ちません。その為に各地では慰霊式を行うことも出来ず、国民からは不満と悲しみの声が上がっています。本日午後一時から、カサーラス大統領からの慰霊会見を予定しており……』

「そーいえば、ヴァルツァーさんって結局どうなったんすか?」


 スクランブルエッグを口に運びながら、シダレが首を傾げる。


「……結局、容態は良くならなくてな。今はご実家がある田舎で養生している。政界への復帰は……恐らく不可能だろうが」


 アーサーが答える。ローラン・ヴァルツァー元大統領。一年前まで国の代表として尽力していたが、ある日突然倒れて病院へ運ばれてしまった。診断はくも膜下出血。幸いにも一命は取り留めたが、全身に麻痺が残ってしまいそのまま大統領の座を辞することになった。


「あらら、そうなんすか。それにしても、このカサーラス大統領……美人っすよねぇ。あ、もちろんサヤの姐さんの方が若くて綺麗ですけど」


 シダレの呟きに、サヤは特に何も言わなかった。最初の頃は必死に否定したり、赤面するのを誤魔化そうと躍起になっていたが、近頃はどうも『無視』という技術を身に付けることに成功したらしい。

 ディアヌ・カサーラス。半年前、正式に次代の大統領として着任した、アルジェントでは三代ぶりの女性大統領である。

 三か月前に丁度五十歳になった彼女はシダレが言うとおり、一見すると三十代にも見える程に若々しく美しい。長いブロンドの髪は艶やかで、意思の強そうな海色の瞳は宝石のように輝いている。

 見た目だけではなく、人望にも恵まれて行動力もある。アーサーもローランの下で働いていた頃に面識があるが、豪快で少々男勝りだがとても気持ちの良い人物だ。疲弊したアルジェントを立て直すには、彼女こそが相応しいと支持する者は多い。


『さて、本日は特別放送として被害者の声や復興の様子などをお伝えする予定でしたが……ここからは内容を一部変更させていただきます。数か月前から国内で噂をされている件について、我々は独自の調査を続けて参りました。それは、一年前に死亡した『テュラン』は、実は偽物ではないのか』


 弛緩していた空気が、一瞬にして緊張する。しかし、それは本当に刹那のものであった。


「……またこの話題っすか、この人達も飽きないっすねー」

「同感だ」


 珍しく、シダレと意見が一致する。最近は治安が悪化しているということもあるのか、マスコミまでもが質の悪い報道を面白おかしく繰り返しては注目を集めようとしている。

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