おぱんちゅについて

ダイナマイト・キッド

第1話 頭が「アレ」ギウム

女性のパンツだけで興奮するのは日本人ぐらいのもんだ、

と、かつてデーブ・スペクター氏が言ったとか言わないとか。

「布じゃん」

だと。


私に言わせれば、そもそもパンツの向こうを想像しても興奮しないような人の裸なんか見たくもないだろう、と。

その人がどんなパンツを穿いていて、そのパンツがどれぐらい汚れていて、どんな色と匂いが付いているのか。

それが気にならない人とするセックスは味気ないものだろう。


昔見た「マディソン郡の橋」という映画で、ヒロインが主人公の家でシャワーを浴びながら

「普段ここには裸の彼が居て、同じシャワーを浴びている。今、彼の全てがエロティックに感じる」

と一人で物思いにふけるシーンがあった。気がする。


つまりは其処なのだ。

相手のすべてが欲しいなら、全てを知りたいのなら、自分がもっとも汚れていると思う場所を知ることだ。

それは自分自身の穢れに対する意識の裏返しで、自分が絶対知られたくない、相手に感じて欲しくない場所だったりもする。

自分で言うのもナンだけど、やっぱり自分の下着だとか風呂入ってない匂いなんか知られたくない。


でも相手のは知りたい!!!!!!!!!!

何も盗み出して嗅いだり舐めたりだけが変態じゃないし、それだけが

「おぱんちゅ」

の愉しみ方ではない。


自分が一番好きな人の、一番大事な場所を守っているもの。

それこそが「おぱんちゅ」であり、その価値なのだ。


「おぱんちゅ」とは全ての下着を言うのではない。

単なる下着、唯の布切れが「おぱんちゅ」と成る為には、そこに不変の

「愛」

が不可欠なのだ。

不変の愛が、些細な芳香や色づきぐらいで揺らぐのなら、その人の身に着けているものは「おぱんちゅ」ではない!それはただの下着だ。


敢えて問うなら答えもしよう。

望る事は細やかなりし。

この腕に掻き抱けるだけの愛でいい。

この胸に収まるだけの真実でいい。

例えて言うなら、そう「おぱんちゅ」!

「おぱんちゅ」こそ我が命!

「おぱんちゅ」こそ、我がさだめ!

そう、その名の如く「触れ得ざるモノ」

それを包むのが、「おぱんちゅ」なのだ。


ああ、まさにその名の如くに…。


本当にすみませんでした。

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