第7話
つい先日、村全体での田の収穫が終わった。天候が良かったので今年は総じて豊作である。もちろん幸太郎の田の稲も問題なく収穫され、稲掛け(天日乾燥)にされた。もうしばらく干したら、扱箸こきばしでの脱穀作業に移るのだが、とりあえず村では一段落ついたとひと安心した空気が流れている。
また少し前に、収穫祭を前倒しで開催することが決まった。
例年なら、時間のかかる脱穀作業に終りが見え始めてから祭りの準備を行うのだが、しかし事情が事情であったため、年長の者たちが気を使ったのである。村を出なければならない者の中には、今年大人として初めて祭りを体験する者が二人いた。
その話を聞いた時、それが何の慰めになるだろうかと幸太郎は思った。それで楽になるのは送り出す方だけではないのかと。しかし、彼はやはり口に出しはしなかった。何にしろ意味のないことだと分かっていたのだ。
祭りの当日まで、幸太郎はいつもと変わらず働いていた。稲の収穫を終えた後は、裏の畑の草をむしり、ついでに家の周りの草もむしり、家の中の掃除をする。これまでと変わらない日常を彼は過ごしていた。
ちなみに香とは、二週間ほど前、彼女が怒って帰っていった時から一度も会ってはいない。あれからぱったりと彼女は幸太郎の家に遊びに来なくなったのだ。そして幸太郎の方からも会いに行ってはいない。
謝らないとな、と思いながらも幸太郎はなかなか行動に移せなかったのだ。そして、そうこうしているうちに祭りの当日が来てしまった。それはまったくもって彼の悪い癖だった。
家の掃除を終えた幸太郎はふうと息を吐くと、手の甲で額の汗を拭った。段々と肌寒くなってきてはいるが、掃除をしているうちによくよく汗をかいてしまったのである。しかし、その甲斐あってか、家の中は途端に綺麗になっていた。日々の無精がどれほどだったのかと幸太郎は小さく笑う。
それから幸太郎が掃除に使ったハタキなどを片付けていると、彼の家の戸をこんこんと叩く音がした。誰かが訪ねてきたようだ。
幸太郎は「はいよー」と返事をし、土間に降りて玄関の戸を開けた。家の前には、宗介が一人立っている。
「よう」
手を上げ挨拶する彼に、幸太郎は同じく手を上げて答えた。それから幸太郎は、体を引いて彼を家の中に招き入れる。
「掃除してたのか?」
中に入った宗介は綺麗になった家の様子を見ると、何気ない様子で口にした。
「ああ。一応な」
幸太郎は深く考えずに答えただけだったが、宗介はその言葉に余計なものを読み取ったらしい。彼は一瞬表情を暗くした。
しかしどうにか気を取りなおした彼はさらに言葉を続ける。
「なあ――。今日の祭には来るんだよな。ってか、絶対来いよ」
土間から部屋に上がろうとしていた幸太郎に、重い口調で宗介は言った。幸太郎は振り返らずに言葉を返す。
「まあ、強制だしな。端っこのほうで振る舞い酒でも飲んでるさ」
その反応に、宗介は「そうか」と呟いた。その声色からは安心したような雰囲気が感じられる。おそらく彼はここで幸太郎が断れば、首に縄かけてでも連れて行くつもりだったのだろう。
そして宗介は、一呼吸おいてから幸太郎にまた声をかけた。
「それで、一彦さんとはどうなったんだ。その後話したのか?」
振り向いた幸太郎は「いいや」と小さく頭を振った。
「あれからは一度も会ってない。お互いに顔合わせづらいからさ。って、さっきからどうした? 質問ばっかで」
そう言って幸太郎は軽く笑ってみせた。一方、宗介の表情は暗い。
「……香とは?」
「同じだ。会ってない」
「なんでだ?」
「なんでだろうな」
そこで宗介は一度顔を歪めると、何かまた言おうとして口を開け、そのまま口を閉じた。幸太郎はその様子を見て、抑えた声で言う。
「いや、別にさ。家族のことだからって、宗介が責任を感じる必要はないよ。なんていうか、こういう時代だしな。遅かれ早かれこうなってたんだ、多分」
言葉以上の意味はないと伝わるよう、今度は強く意識して幸太郎は告げたが、しかし宗介はぎゅっと目をつぶり、下を向いた。それからしばらく彼は黙ったままだったが、ふいに彼は口を開いた。
「全部放り捨ててさ、逃げてもいいんじゃないか?」
幸太郎はその言葉を聞いて、思わず眉をひそめた。
「まさか。冗談だよな?」
「冗談だと思うか?」
真剣な顔で幸太郎の顔を見返す宗介に、幸太郎はまた頭を振った。表情はもう元に戻っている。
「いや、まあ、無理だろ。義理堅いから、俺」
冗談めかした言葉だったが、宗介はそれで幸太郎にその気がないことが分かったようだった。そうしてまた下を向いた彼に幸太郎は声をかけた。
「あんまりろくなもん残ってないんだが、良ければなんか食うか? 茶も出すぞ」
ひどく明るい声で聞かれ、宗介はただ「ああ」とだけ答えた。
□
成ノ介が来た日の夜遅く、一彦の屋敷を珍しく幸太郎が訪ねてきた。それも竜助に会いに来たのではなく、一彦に会いに来たのだという。
一彦はついさっきまで続いていた話し合いでひどく疲れていたが、幸太郎が何の理由もなく訪ねてくることはないだろうと、彼は疲れた体に鞭打ち、幸太郎に会うことを決めた。また状況が状況であるため、彼には幸太郎に言っておかねばならないことがあった。
「すいません。こんな夜分遅くに」
一彦の部屋に通された幸太郎は開口一番、謝罪を口にした。すでに一彦が眠ってしまうような時間だったから無理をさせていると思ったのだろう。
「いやなに、気にするな。そう俺を年寄り扱いするんじゃない。多少の夜更かしは問題ないさ」
座布団に座りながら休んでいた一彦は、そう冗談を言って幸太郎に笑いかける。それに同じく微笑んでみせた幸太郎は、ゆっくりとした動きで一彦の向かいに座った。
しかし彼が座った次の瞬間、幸太郎の表情は引き締まったものに変化する。途端に、場の空気は堅くなったのを一彦は感じた。
「それで? いったいどうした、こんな時間に。まさか、所帯を持つことにしたから結納金を出してくれと言いに来たんじゃないだろうな?」
一彦は努めて明るく尋ねた。しかし、幸太郎は表情を変えないまま左右に首を振る。それから何も言葉を飾ることなく、幸太郎は言った。ひどく真剣な口調でそこに一切冗談はない。
「村から人を出す話を聞きました。それで、その五人の内の一人に自分を入れて欲しいんです」
その言葉を聞いてすぐに一彦は目の色を変えた。そして間髪入れず、彼は語気を強くして幸太郎を問いただす。
「そのことを誰から聞いた? 勘ノ助……、いや宇之助か? まさかあれがお前の家に押しかけていったのか?」
幸太郎は再度首を振って「違います」と言った。しかし、一彦はそう思い込んでしまったのか、その勢いは止まらない。
「あれに何を言われたかは知らんが、一切気にするな! あれはただ俺を恨んで喚わめいてるだけなんだ! お前は戦になんぞ出なくていい! いや、俺がそんなことはさせん!」
そうやって大きな声を出す一彦を、幸太郎はどうにか落ち着かせようと声を出す。
「いや違います! 自分がここに来たのとそれは関係ありません!」
ほとんど見たことがないような幸太郎の強い口調に、一彦は驚いたようにして口を閉じた。そして、それを確認した幸太郎は割り込まれないうちにまた話しだす。
「その話を受けたいと思ったのは――自分がこの村で新参者だからです。人より自分はこの村に貢献していなくて、だからその分村での立場も弱い。例えば宇之助さんとのことも、自分がこの村の出身だったらいくらか話が変わったはずです」
実際は変わらず問題になっただろうが、幸太郎は強く言い切った。一彦もそれには気付いていたが、幸太郎が話し続けているのでにわかに口を挟めない。
「このままこの村で暮らして行けば、確かに自分の立場も少しずつ良くなっていくとは思います。ただそれでも、何かにつけて自分を新参とする見方は消えないはずです。どこまでいっても自分は余所者で、皆と同じではないから。でもそれは、そんな状況は
幸太郎の言葉に一彦は発すべき言葉を失った。一彦は気にかけて幸太郎の暮らしぶりを見ていたつもりだったし、生活には何も問題ないようだと気楽に考えていたのだ。しかし、自分の目の届かないところで幸太郎はひどく悩んでいたというのか。
「だから、自分を清洲に行かせてください。清洲に行って帰ってこれれば、それなりに村に対して務めを果たしたことになるはずです。皆からも認められます。絶対に五体満足で帰ってきてみせます。……お願いします。この村に貢献したいんです」
思いの丈を言うだけ言った幸太郎は、それから真一文字に口を閉じると一彦の反応を待った。
一方、思いもよらぬ形の提案に一彦は腕を組み、何を言うべきか考えている。一彦の頭の中では今どうすることが最善なのか、様々なものがぐるぐると回っていた。
しばらく部屋の中には静寂の時間が続く。そうしてやっと一彦が口を開こうとした時、部屋の障子が勢い良く開けられた。
「ふざけるなよ幸太郎! 前に言ってた話は嘘だったのかよ!」
そう怒鳴りこんで部屋の中に入ってきたのは竜助だった。
「戦なんか行きたくねえって言ってただろ!」
その声に幸太郎が苦い顔をして後ろを振り向くと、どかどかと歩いて彼に近寄った竜助はその胸ぐらを掴んで立ち上がらせる。
「お前がこんな風に家に来るなんて珍しいからな。変だとは思ったんだ。それにさっき帰ってきたお袋の様子もおかしい。それでお袋を問いただしてみたら……」
竜助は掴む手にさらに力を入れる。
「頼まれたんだろ! 『二年間税が取られない話は嘘だったのか』って親父が宇之助に責められてると聞いて! その責任を取る形で俺かお前か、どっちか一人兵に出せって迫られたと聞いて!」
幸太郎の体をがくがくと竜助は揺すった。
「冗談じゃねえぞ! 俺が何か言い出す前に全部終わらせるつもりだったんだろう? お前のそういうところがな、そういうところがな、俺は大嫌いなんだよ!」
ついに竜助は一発、幸太郎を殴った。その衝撃で幸太郎は後ろに倒れこむ。そこで初めて状況に頭が追いついた一彦は竜助を止めに入った。
「やめろ!」
さらに幸太郎に向かって行こうとする竜助を力づくで一彦は止める。そうしてしばらくもみ合い、ようやく竜助は一彦の手を振り払うと、また障子の前まで戻った。はあはあと荒く息をつきながら彼は、幸太郎を見据えて言う。
「お前の気遣いなんか糞だ! それで満足してるのはおまえだけなんだよ! ……もう勝手にしろ! お前なんか領主んとこなりどこなり行っちまえ! それでいつかの猪みたいに、血ぃ流して死ねばいいんだ!」
そう言い捨てて、竜助は部屋から去っていく。一彦はその背中に向かって「おい!」と声をかけたが、彼は立ち止まりすらしない。すぐに彼の姿は見えなくなった。
一彦は視線を外すと、とにかく倒れている幸太郎を助け起こす。唇が切れて血が流れていたが、他は特に異常ないらしい。「ありがとうございます」と一彦に一言お礼を言った幸太郎は、痛そうにしながら唇を手の甲で拭った。
「さっきの話は本当か?」
ようや落ち着いたところで、一彦は幸太郎の顔を見つめて尋ねた。意識して感情を抑えた声だった。しかし幸太郎はすぐに首を振る。
「自分が一人で決めたことです。それに関しては、一切誰も関係ありません」
幸太郎は一彦の目を見返しながら言った。そして、その硬い声に込められた意図を一彦は過不足なく汲み取る。幸太郎は全てを飲み込んだ上で話しているのだった。それに、いま誰かを責めたところで物事は解決しない。
帰ります、と幸太郎は言った。そして彼はその場で立ち上がると、何も言わないでいる一彦に頭を下げ、部屋から出て行く。
彼が部屋を出ると、少し離れたところにはお初が立っていた。その目元はひどく赤い。よほど竜助がきつく問い詰めたのか。ふと幸太郎は三年前、彼女の作った食事を皆で食べていた頃のことを思い出した。それはひどく快い思い出のはずだった。
しかし幸太郎は彼女には一言も声をかけず、ただ頭を下げて一彦の屋敷から出ていった。彼女が竜助をどれだけ大切に思っているか幸太郎は知っていたし、それは決して非難されるべきたぐいのものではないのだった。
こうして、幸太郎は戦に向かうことが決まった。
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