第6話

 香の母、お登勢は、ずぶ濡れになりながら帰ってきた娘の姿を目にすると、慌てて箪笥から手ぬぐいを出して彼女に渡した。


「ちょっと、なんでそんなに濡れてるのよ? ああもう、水浸しじゃない。風邪引いちゃうでしょ!」


 そんな言葉とともに、お登勢は早く手ぬぐいを使うよう、手を振って娘を急かす。


「ほら、まずは頭拭いて! あとはその濡れた服も脱いじゃいなさい!」 


 それはまるで幼子に向けて指図しているような言い方だったが、香は特に反発することなく、小さく頷いた。それから香は手ぬぐいでごしごしと頭を拭き始める。


 だが彼女の手の動かし方は緩慢で、ほとんど気が入っていないようだった。お登勢はそんな娘の様子を軽く焦れたようにしながら眺めている。


 何しろ、ふんだんに水気を吸い込んだ彼女の衣服は体の線がはっきりと分かるほどにぴったりと彼女の体にひっついていた。それでは見目が悪いのはもちろん、風邪でも引いたらどうするのだとお登勢は心配している。この時代、風邪は容易に肺炎へと変わる。


 とはいえ、この娘が風邪を引くものかとも思うお登勢はまた娘を叱りつけた。


「本当に、年頃の娘がこんな姿で帰ってきて! お父さんがいたら叱ってもらうところよ! まったく、ちっちゃい子供じゃないんだから、幸太郎のところで何か羽織るものでも借りてこればよかったじゃない!」


 そんなお登勢の叱責は至極もっともな言い分だ。しかし香は言われて初めてそのことに気付いたようで、「ああ」とぽつり呟く。


「……ごめんなさい」


 香は小さな声で母親に謝った。やはりどこか気の抜けたような声の調子である。

 このような時、いつも憎まれ口を返すはずの娘が殊勝な態度を示してきたので、お登勢はなんとなく勢いを削がれた気分になった。


「……あんた、幸太郎の家で何かあったの?」


 ようやく少し心配になったお登勢が尋ねると、香は表情を軽く歪めて首を左右に振る。


「別に。何でもない」


 その仕草からも彼女が嘘をついているのは明らかだったが、お登勢は「そう」とだけ口にしてそれ以上彼女を追求しなかった。本当に触れて欲しくなさそうだったからだ。


 お登勢は「早く着替えてらっしゃい」とそれだけ言うと、娘が帰ってくる前まで座っていた囲炉裏の前に戻った。そして、途中だった縫い物を再開する。


 しばらくして体を拭き終わったらしい香は「着替えてくる」と言って、居間の隣の部屋にのそのそと移って行った。一方、ほつれた衣服をちくちくと縫いながら、お登勢は横目でその姿に目をやる。そして部屋のふすまが閉まり、娘の姿が見えなくなったところで、ようやく彼女はふうと小さく息を吐いた。


 さて、いったいどうしたというのだろう。


 お登勢は母親として娘のことを多少心配しながら、彼女に何があったかを想像する。まあ、状況からして幸太郎と喧嘩でもしてきただろうことはお登勢にも察しがついていた。それならばそう心配するほどのことでもないはずだけれど、と彼女は思う。


 おそらくあの娘のことだから、幸太郎に対して何か無茶なことでも言ったのかもしれない。例えば――今年のお祭でのこととか。相手をしてくれるよう幸太郎に迫った挙句、彼に色よい返事を返してもらえなかったのだろうか。


 そこまで考えて、お登勢は少し顔を緩めた。もしそれで娘が落ち込んでいるのだとしたら、とんだ娘の一人相撲だなと思ったのだ。


 香はまだそのような呼吸というか、機微というものを分かっていないらしい。男は、特に幸太郎みたいなのは、不安がらせてちょうどいいくらいだとお登勢は思う。相手にろくに物事を考えさせず、こちらが主導権を握れば良いのだ。


 その辺のことについて一度娘に言い聞かせてやるべきだろうか。


 お時がそんなことを考えながら、黙々と針を動かしているとまたがらがらと音がして玄関の戸が開いた。帰ってきたのは彼女の夫、勘ノ助である。彼はしばらく前に人に連れられ、一彦の家に向かっていたはずだが、随分と早く戻ってきたらしい。


「ずいぶん早かったのね? いったい何の話だったの?」 


 蓑を外した勘ノ助に手ぬぐいを手にしたお登勢が尋ねると、彼は渋い顔を崩さないまま答えた。


「ああ……。少し事情が変わったみたいでな」


 そこで一度言葉を区切った勘ノ助は、妻から手ぬぐいを受け取る。


「今年の税は徴収されることになったそうだ」


 何の前触れ無く出てきたその話に、途端にお登勢は表情を変えた。


「それは一彦さんがそう言っていたの? だってそれだと、だいぶ話が違うじゃない」

「詳しい話は分からん。どうやら徴税の役人がさっきまで屋敷に来ていたようでな。そいつが一彦に伝えていったそうだ。しかし、これほど突然とは向こうで何か事情が変わったのか……」


 頭を拭きながら、勘ノ助が思案顔でつぶやく。彼は今川家の台所事情について頭を巡らしているようだった。一方、お登勢はより現実的な部分を考えている。


「じゃあ、もう税を取られるのは確かなのね? それなら――、もう一度ちゃんと測り直さないと。多分、今年の収穫なら大丈夫だとは思うけど……」


 すでに勘ノ助の水田の収穫は終わっている。お登勢はその中から頭の中で生活に必要な分の食料を計算した。そして彼女は、税として取られる分が『考えられる限り最もひどい割合』であるとしても、おそらく来年まで食べていけるほどには残るだろうという答えを出す。


 今年は他の作物も十分採れていたから随分余裕が出るはずだったのに、とお登勢は呟いた。


「ああ、いや。今年に関しては納める税もまだ少なくていいらしい。だから食料の方はそこまで心配しなくても大丈夫だとは思う。ただ……」


 頭を拭くのを止めて言いよどむ勘ノ助の様子に、お登勢は敏感に反応した。


「まさか、人も出さないといけないの?」

「……そうだ。この村からは五人出すことになったらしくてな。それもなるべく若くなくてはならぬのだそうだ」 

「そんな……」


 お登勢は夫の言葉を聞いて下を向いてしまう。


 なにしろ兵に取られた者はいつ村に戻されるか分からない。そして少なくとも、その半分は村に帰ってこれないのを彼女は今までの経験で知っていた。小さな頃、彼女も実の兄を一人失っている。


 さらに小さな村である以上、お登勢は村の若者たち全員と少なからず知り合いなのだ。彼らのうちの誰がいなくなったとしても、やはりお登勢は落ち込むだろう。さらにその家族のことを考えるとどうしようもなく不憫であった。


 時間をかけてようやく体を拭き終わった勘ノ助は、「よっこいしょ」と声を出して土間から部屋に上がる。そうして彼は妻の肩を軽く叩いてから囲炉裏の前に座ると、手に手ぬぐいを握りしめたまま話し始めた。


「今も息子のいる親たちは一彦の屋敷で話し合っている。誰を出すかをだ。今頃は、おそらく何人か決まっているだろう。次男坊はおそらく優先的に出されるだろうからな」


 勘ノ助は兵として出されるだろう者に、いくらか目星が付いているようだ。


「誰が出されそうなの?」


 お登勢は夫に尋ねた。


「清次郎、平助、茂字の三人はまず決まりだろう。皆次男坊で、またそれほど余裕がある家でもない。さすがに親の方から言い出すことはないだろうが、かと言って請われればそう強く断りもしないと思う」 


 その言葉にお登勢はやはり悲しげな表情を浮かべた。平助の母とお登勢は日頃から仲良くしている間柄だ。彼女はどれほど悲しむだろうか。それだけでお登勢は胸が締め付けられるようだった。


「あと二人は難しいな。他にも次男坊や三男坊は何人かいるが、皆まだ兵として出すには幼すぎる。おそらくは、どこかの家に泣いてもらうことになるんだろうな」


 そう言った勘ノ助の顔色は優れなかった。何かひどく思い悩んでいるような表情である。そんな夫に、お登勢は少しの逡巡の後、隣の部屋に聞こえないよう囁くようにして質問した。


「幸太郎はどうなのかしら?」


 勘ノ助は妻の言葉に表情を歪めた。それで、やはり幸太郎も候補の中に入っているらしいとお登勢は悟る。


 事実、彼には血で繋がった家族がない上に、この村に住み始めてからまだ日が浅かった。それゆえ彼がいなくなっても悲しむ者は少ないと言える。


「まだ分からん。ことさら一彦が目をかけている奴でもあるからな。ここでいなくなられるのはあいつも困るだろう」


 やはり声を小さくして、勘ノ助は言った。しかし彼の言うそれは本当に薄い可能性でしかない。お登勢もそのことは十分過ぎるほどに分かっていた。たとえ一彦が一人反対したとしても、周囲の反応はわからないのだ。


 彼女は隣の部屋のふすまの方を一度見てから、また勘ノ助の顔を無言で見つめた。それで彼女の言いたいことは夫に伝わったようだ。彼もお登勢に向かって、ただ頷いてみせる。彼らは二人とも、幸太郎がいなくなった時に最も嘆き悲しむだろう人物をその頭の中に思い浮かべていた。


 □


 あれから竜助は何度も幸太郎に食い下がったが、どうにか幸太郎は口を割らずに彼らが帰るまで楽しく時間を潰すことができた。唯一竜助が羽交い締めしてきた時はどうしようかと思ったが、さすがにその時は宗介が止めに入って、事なきを得た。


 そうしてようやく二人が帰った後で幸太郎が外を見てみると、すでに辺りは暗くなり始めている。雨はほとんど止んでいた。


 幸太郎は三人に出した椀を片付けて、夕飯の準備をし始める。今日は簡単に雑炊にして食べるつもりだ。卵があるから、上に落として食べてもいいかもしれない。気分良さげに幸太郎が鼻歌を歌いながら土間で火をおこしていると、突然どんどんと玄関の戸が叩かれた。


「はいはい?」


 幸太郎は忘れ物でもしたのだろうかと、すぐに戸をがらりと開ける。しかし玄関の前にいたのは、彼が予想した人物の中の誰でもなかった。


「こんばんは。突然だけど、ちょっといいかしら~?」


 そう幸太郎に向かって言ったのは竜助の母親である、お初であった。



「珍しいですね。お初さんがここに来るなんて」


 とりあえずお初を家の中にあげた幸太郎は、囲炉裏の前に座った彼女に白湯さゆの入った椀をさし出す。


「あら、そうだったかしら~? でも、ごめんなさいね。わざわざ気を使わせて」


 そう言って、お初は出された碗に口を付けた。すでに雨の強さはそれほどでもないとはいえ、ここまで来るうちに体は冷えてしまったのかもしれない。彼女は茶碗の半分ほどの量を一気に飲み込むと、ほうと大きく息を吐いた。


「ありがとう。おかげでひと心地ついたわ~。……それでね。今日はちょっと幸太郎に話があって来たのよ」


 改まって言うお初に何か変だなと思いながらも幸太郎は頷いて彼女の向かい側に座る。そしてお初は大きく息を吸い込むと、いつもとは違う真面目な口調で語り出した。


「あのね。今日、実はお役人さんが来て――」


 それからお初は幸太郎に今日の出来事を説明し始めた。その内容に幸太郎は何も口を挟まず、ただ黙って彼女の話を聞いていた。

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