第4話

 竜助が初めて猪狩りに成功してから、およそ数カ月が経っていた。季節は移ろい、すでに秋。村では稲の収穫真っ最中の時期に入っている。


 幸太郎は留蔵の水田を半分引き継いでからというもの、丹精を込めてそれを耕していた。その甲斐あってか、彼はたわわに実った稲穂が風に揺れるさまを一年目から見ることができたのである。


 もちろんそれは、留蔵が自身の体が動くその際までしっかりと水田の世話をしていたから、という理由や周囲の助言や手助けもあってのことなのだが、それらも含めて彼の新生活はまずまずの出だしとなった。


 そして幸太郎の稲もようやく収穫の時期を迎えている。ただし、実際の収穫まではまだ少し時間が掛かる予定だ。というのも、この村では複数の家々が協力して田を一枚ずつ刈っていくのが通常の収穫の方法であり、まだ日の浅いことがあって彼の水田は一番最後に回された。


 それは村の慣例なので仕方がないことではあったが、それでもやはり幸太郎は日々やきもきしながら周囲の田の収穫を手伝っている。なにしろずっとお預けをされている気分なのだ。彼は自分の水田の前を通る度に、黄金色に光る穂を眺めてはほうとため息をつくのだった。



 その日はあいにく、朝から小雨が降っていた。


「これは……微妙だなー」


 戸を開けて外に出た幸太郎は、空を見上げてぽつりと独り言をつぶやく。その言葉通り、雨の降る勢いは今日の作業が中止になるかどうかの微妙なところに位置していた。


 稲穂の収穫作業はこれからもまだしばらく続くため、雨が降った時は風邪など引かないよう作業を中止するのがこの村では普通だ。ただ、だからといって特に持ち回りで連絡を回すわけでもなく、その日は自然に誰もが水田へと向かわなくなる。その辺り、経験の少ない幸太郎にはまだ見極めがつかなかった。いや、正確には皆がどう判断するのかが分からない。


「連絡回したらいいのに」


 再度、幸太郎はつぶやいてみる。そちらの方が間違いもないだろう。むしろどうして今までやっていないのかとも思うが、これまでそれで上手く回ってきた以上、一年目の幸太郎が提案したところで皆に聞き入れられるはずもなかった。余計な口出しをしている暇があったらと諭されるのがせいぜいのところか。


(まあ、そのうち。おいおいに、と)


 とりあえずそうやって自分を納得させた幸太郎は一応確認を取ろうと、今日作業するはずだった水田の持ち主に会いに行くことにした。


 さすがに当事者に訊けば今日作業があるかどうか分かるだろう。彼は昨晩の残りで簡単に朝食を摂ると、すぐに家から出発した。



「なんだ、わざわざ確認しにきたのか?」


 ぼりぼりと頭を掻きながら玄関まで対応に出てきた宗介は、幸太郎の顔を見るなりそう言った。幸太郎が来た理由は彼にも想像がついているようだ。


「まあ、一応。自分だけ行かなかったらまずいからさ。んで、今日の作業はどうするか聞いてる?」


 幸太郎はかなり砕けた態度で宗介に尋ねた。彼は幸太郎とほとんど歳が変わらないのだ。さらに竜助を通しての遊び友達でもある。


「いやあ、中止だろ。この雲の感じだと、多分昼前にはもっと雨脚が強くなる。親父もそう考えるはずだな」


 宗介はかなり確信を持って言っているようだった。本当なら彼の父親の宇之介に確認を取らねばならないのだが、この分なら彼の言葉通りに信じても大丈夫だろう。


「あー、そっか。分かった。ありがと」


 幸太郎がお礼を言うと、宗介は「別にいいって」と軽く手を振った。実際たいしたことを教えたつもりはないようだ。

 それから彼は幸太郎の顔を見て一度表情を硬くすると、少し迷ったような素振りを見せてから言う。


「確かにこういう天気だと分かんないよな、作業があるかないかなんて。今日はうちの田んぼだったから、こう俺にも気楽に判断できるけどさ。他の家のだったら不安になるな」


 最初、幸太郎はその言葉を自分への慰めの言葉だと受け取った。しかし彼の表情を見ると、意外と本気で言っているようでもある。


「だよな」


 控えめに幸太郎は彼の意見に同調した。すると宗介は少し表情を緩める。


「だろ。だからさー、今日みたいな日は作業やるかどうか連絡する決まりがあったって――」

「宗介! お前はまだそんなことを言ってるのか!」


 調子づいた宗介の話を途中で遮るようにして、家の中から声が聞こえた。その声に宗介はびくりと背を震わせ、後ろを振り向く。土間を越えた部屋の障子を開けて姿を見せたのは、宗介の父の宇之介だった。さっきまでの二人の会話は彼にも聞こえていたようだ。


「余計なことを考えてないで、いいからちゃんと天気の読み方を覚えろ! そしたらそんな面倒なことしなくてもいいんだからな!」


 高圧的な父の言い方に宗介は即座に嫌な顔になったが、すぐに不承不承といった体で頷いた。この様子だと、前にも色々あったらしい。

 しかし親子でさえ、この調子なのだ。やはり自分が口に出すのも控えておいたほうが良いだろうと幸太郎は思った。


 幸太郎はとりあえず場の雰囲気をやわらげようと、「おはようございます」と宇之介に向かって頭を下げる。すると「ああ、おはようさん」と手を挙げて宇之介も挨拶を返した。それから何かのついでのように彼は幸太郎に向かって声をかける。


「いいか。聞く気があれば、お前もちゃんと覚えとけ。『亀の甲より年の功』って言葉はな、それなりに有用なんだ」


 それから宇之助は幸太郎の反応を見ることなく、開けた障子をぴしゃりと閉めた。それを確認した宗介は幸太郎に対して向き直り、歯ぎしりをするようにいーと顔を歪めてみせる。  


「ったく、あのクソ親父が。何が年の功だ。頭が硬いだけじゃないか」


 小声で言う彼に幸太郎は苦笑いを返した。


「あんまりそう言ってやるなよ。親なんだから。……んじゃあ、俺帰るわ。朝早くから悪かったよ」

「いんや。むしろこっちが親父の小言に付き合わせて悪かった」


 また明日、と言って幸太郎は宗介の家を離れた。



 帰り道、幸太郎はさっきのことを頭に思い浮かべながらとぼとぼと歩いていた。

 幸太郎は自分が宇之助に好かれていないことを重々承知している。仕方のないことだとも頭では分かっていた。ただ彼自身にもいろいろ反論したいことはある。


 だが、幸太郎はその感情を心の奥底に仕舞い込んだ。そして『亀の甲より年の功』という言葉はいつの時代からあるんだろうなどと考えながら、彼は小雨が降る中を歩き続けた。



 宇之助の妻志乃は朝食を食べながら、夫に尋ねた。


「さっき誰か来てなかった? 声が厠まで聞こえてきてたけど」

「ん? ああ、幸太郎だ。この天気だから今日作業するかどうか聞きに来たんだな。宗介が教えてやっていた」

「あら。わざわざ聞きに来たのね。ずいぶん律儀だこと。まあ、初めてだものね」


 そう言うと、志乃は味噌汁をずずっと啜った。もちろん彼女にその言葉以上の感情はない。一方、宇之助は渋い表情で沢庵を噛み砕いた。


「少し大きい声出してたみたいだけど、何かあったの?」

「……別になんでもない。お前は気にしなくていい」

「あ、そう。……じゃあ、宗介はその時に何か幸太郎と約束でもしたのかしら。急いでご飯かき込んだと思ったら、すぐに家から出て行っちゃうんだもの。こんな雨の日にいったい何をするんだか」

「どうせ二人して竜助のところにでもいったんだろう。あそこの家は子供によっぽど甘いからな」


 宇之助の皮肉げな言い方に、志乃は少し嫌な顔をした。


「……ちょっと。あんまり外でそういうこと言わないでよ。ただでさえ、ごたごたしてるんだから」

「俺はただ事実を言ったまでだ。それに、あれはあっちが悪いって何度も言っただろう? お前も留蔵じいさんの言葉を聞いてたじゃないか。『俺が死んだら田んぼはお前たちの好きにしろ』ってな。なのに、それを突然横から出てきた幸太郎が持って行くのはおかしいだろう?」

「それこそ皆で何度も話したでしょう? あなたがその話を皆にして、それで認められたからこそウチも半分田んぼを分けてもらったんじゃない」

「いいや、爺さんの話では全部もらえるはずだったんだ。それが一彦のせいで半分だぞ。半分。しかも幸太郎のに比べて日当たりの悪い方を寄越されたんだ。これで怒らないのはどうかしてる」

「……ねえ、止めましょう? もう何言ったって、どうしようもないんだから」

「この話を振ってきたのはお前じゃないか」


 その言葉についに志乃はいい加減にしてという表情をすると、半分ご飯を残したまま立ち上がった。


 食器を持って土間の方に降りていく妻を横目に、宇之助はまた沢庵をかじる。すでに彼も食欲は失せていたが、だからといって席を立つ気にもならなかった。ただぽりぽりと沢庵をかじる音が食卓に響いていた。



 自分の家へと戻ってきた幸太郎は、突然降って湧いた休みに今日はどうしようかと頭を悩ませていた。ただ寝て過ごすのも芸がない。だからといって雨の中裏の畑の草むしりをするわけにもいかないだろう。


(前の家でお世話になってた頃は暇になっても家の中に誰かはいたからなー)


 そんなことを考えながら、しょうがなく幸太郎は朝から敷きっぱなしの寝床の上でごろりと横になっている。


 こんこんと家の扉が叩かれたのは、ちょうど幸太郎がうつらうつらし始めた頃のことだった。彼はその音に反応して、ぱちりと目を開けた。そして体を起こすと「いま出るから」と扉の向こうに声を掛けて、土間に降りる。


 彼が比較的軽い雰囲気で対応しているのは、自分の家を訪ねてくる人物がほぼ決まりきっているからだった。竜助を代表とした数少ない男友達か、もしくは香。そしてこの扉の叩く感じからすると、おそらく香だろう。また何か料理でも作りにきてくれたのかもしれない。幸太郎はそう思いながら玄関の扉を開けた。


「あ、ごめんね。寝てた?」


 幸太郎の予想通り、扉の前にいたのは確かに香であった。少しだけ勢いの強くなった雨を気にせずに歩いて来たらしく、細くまとまった前髪がおでこにぺとりとへばりついている。


「いや、大丈夫だけど……。皆で連れ立って来るって珍しいね」


 幸太郎の言葉を聞いた香は不思議そうな顔を浮かべ、それから彼の目線を追って後ろを振り返った。それから彼女はあっ、と小さく声をあげる。


 彼女の後ろ、少し離れた位置に竜助と宗介が並んで立っていた。香の様子からして連れ立った歩いてきたわけではないようだ。どうやら彼らは香に気付かれないようにしながら、その跡を付けてきたらしい。いや、付けてきたというか、もとより目的地が一緒だったのかもしれない。


「よう」


 竜助は手を軽く挙げて、幸太郎と香の二人に挨拶した。なぜか彼と宗介の二人はひどくにやにやとした表情を浮かべていた。



 幸太郎はとりあえず家の中に三人を入れると、土間のところで彼らに手ぬぐいを渡した。濡れた服はどうしようもないが、せめて髪くらいは拭いた方がいいだろうと思ったのだ。


「悪いな。こうして二人の仲睦まじい関係を邪魔してさ。いや、別に俺らを気にしなくていいから。お前らだけで話してて大丈夫だぞ。ほら」


 頭を拭き終わった竜助があからさまな言い方で二人をからかうと、頭を拭いていた香はもちろんそれに噛み付いた。以前よりはましになったとはいえ、あの事件以降、未だ二人は犬猿の仲である。


「そう思うんだったら出てってよ。ここじゃなくて、あんたの家で遊んでたらいいでしょ」


 その言葉に、竜助は顔の前で手を振って答えた。


「それがそうもいかないんだ。今日はウチにお偉いさんが来るらしくてな。騒がしいとマズいからって俺たち、お袋に追い出されたんだよ」 


 すると、香はまるっきり馬鹿にした表情で竜助の顔を見返す。


「そんな小っちゃな子供みたいなこと! そしたら、宗介の家に行けばいいじゃない!」


 次に話を振られた宗介は、いやいやと首を振った。


「俺の家は駄目だ。狭いし、何より今日はしかめっ面の親父がいるんだ。騒げないし、楽しくない」


 香はそんな宗介の言葉に今度は鼻で笑ってみせた。


「ああ、そう。だったら二人してそこら辺の鶏小屋にでも行けばいいのよ。そこなら騒がしくしても大丈夫だから!」


 どうやら香は本気で言っているらしい。思わず幸太郎は笑ってしまった。


「ちょっと。幸太郎も笑ってないで何か言ってやってよ」

「いや別に、俺は二人がいても――」

「そんなことないでしょ!」


 そのやり取りに、今度は竜助と宗介が笑った。


「まあまあ、家主もこう言ってることだしな」


 得意げに香に向かってそう言った竜助は、さらに幸太郎の方に向き直って言う。


「しかし、もう尻に敷かれてるのか? 幸太郎も大変だな」


 竜助のからかいに幸太郎は、ははと小さく笑って答える。傍目から見れば、あながち外れてはいない。


「まあ、その、上がれって。いま湯を沸かすから」


 幸太郎はそう言って、頭を拭き終わった三人に部屋に上がるよう手を振った。どうやら今日の休みはこれで上手く潰すことができそうだと幸太郎は思ったのだった。

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