第3話
「お酒、結構飲んできた? 一応お味噌汁作っておいたけど……もしかして余計だったかな」
香は勝手に人の家に上がりこんだかと思えば、囲炉裏に火を入れて味噌汁まで作っていたらしい。囲炉裏の横でしとやかそうに座っている彼女は、幸太郎が手にしている鍋を見て不安そうに言った。
「あー、いや。ありがとう。これは明日の朝食べるから、今その味噌汁もらっていい?」
しかし幸太郎は彼女を責めること無く、頭をガシガシと掻きながらそう答える。そういうものなのだと無理やりこの状況を飲み込んだ彼は、履いていた草履を脱いで部屋へと上がった。香は幸太郎の言葉を聞くと、すぐに笑顔になって囲炉裏にかけられた鍋から味噌汁を掬う。
すでに手元にお椀が用意されていた辺り、どうせ彼女は帰ってきた幸太郎にすぐに味噌汁を食べさせるつもりだったのだろう。実際、幸太郎はその厚意を無下にするのもすまないと思い、彼女に対してそう言ったのだ。
部屋に上がった幸太郎は持っていた鍋を床の上にそっと置くと、ちょうど香と向かい合うようにして囲炉裏のそばに腰を下ろす。そんな彼に膝立ちになってお椀を渡した香は、おもむろに尋ねた。
「ねえ、なんで帰ってくるの遅かったの?」
「ん? ああ、宴会の後片付けを手伝ってたからだよ」
そう答えた幸太郎は、渡された味噌汁をずずっと啜る。味噌の香りは酔った体に染み入るようだった。ふうと、安堵したように幸太郎は息を吐く。内心、香のことをまるで浮気を疑う女房のようだと思いながら。
「そうなんだ。父さんはもうかなり前に帰ってきてたから、幸太郎も多分帰ってきてるんだろうなと思って来てみたんだけど。でも家の中真っ暗だったから、どうしたのかなと思って」
幸太郎はなるほど、といった体で頷く。香の父親は勘ノ介かのすけという名で、今日の狩りにも参加していた。
それゆえ先ほどの宴会にも顔を出していたし、後片付けを手伝おうか迷っていた幸太郎に「お前も無理しないで早く帰れな」と声をかけてから帰っていったのを彼は覚えている。それは幸太郎が気を遣う癖があるのを踏まえた上での言葉だった。
なんにせよ、ひどく気のいい人柄であるのは間違いない。だからこそ、なぜあの父親でこの娘が、とは思うが。
「じゃあ、勘ノ介さんが帰ってきてからここに来たんだ。……こんな夜更けに娘が外に出るのを勘ノ介さんよく許したね」
チクリと刺す意味で幸太郎はそう言ったのだが、香は一向に気にした様子はない。
「だって、父さん帰ってきたら、すぐにいびきをかいて寝ちゃったもの。それに母さんは、『幸太郎のところに行ってくる』って言ったら、『しっかりね』って送り出してくれたし。心配ないよ」
香の言葉に、「そっか」と言って幸太郎は下を向く。その『しっかりね』とか、『心配ないよ』というのはどういう意味での言葉なのだろうか。答えを出さず、幸太郎はまた一口味噌汁を啜る。今度はいくらか塩気を強く感じた気がした。
「そういえば、今日はあのバカが猪捕まえたんでしょ? どうだった?」
幸太郎が黙ったのを見て、会話の間が空くのを嫌ったのか香が質問してきた。
「あれ、しばらく吊るされてお披露目されてたし、それに解体ばらしてる時にいなかった? かなり人集まってたから、香もいるもんかと思ってたけど」
「私あんまり猪の肉好きじゃないんだよね。風味が独特っていうか。母さんもあんまり好きじゃないみたいだから、お裾分けのところには行かなかったんだ。父さんにも持ち帰って来ないでって言ってあったし」
竜助の捕まえた猪はかなりの大物だったため、狩りに参加した家にはもちろん、お裾分けとして少なくない量が近所の家の人たちにも配られていた。ただ確かにその肉は野性味溢れる味ではあるから、人によって好き嫌いは出てくるのだろう。
「それよりさ、バカが大活躍して捕まえたっていう話は本当? どうせまた逃げられそうになったんじゃないの?」
幸太郎は頭を振った。
「いいや。竜助が頑張って捕まえたよ。勘ノ介さんからは何も話聞いてない?」
「だからすぐに寝ちゃったって言ったじゃん。……ねえ、その時の話、聞かせてよ」
そう言った香は軽く身を乗り出すと、顔をこちらに近寄らせて言った。すると彼女のほんのりと赤く染まった頬や、大きくぱっちりと開いたつぶらな瞳が幸太郎の目に入る。彼女の表情からは、その年齢にそぐわないひどく蠱惑的なものが感じられるようだった。
(多分、酔ってるからだろうな)
味噌汁の件でいくぶん冷静になっていた幸太郎はそう思うことにした。いわゆる、酒飲み症に違いない。そうして幸太郎はふつふつと沸き上がってくる何かを強い精神力で無理やり抑えつけると、いったん面倒だなという素振りを見せてから、今日の狩りについて話し始めた。
□
竜助、幸太郎、香の間柄を説明するには、およそ三年ほど前に遡らねばならない。
その当時、竜助は幸太郎に対する態度をひどく迷っていた。
ある日突然父親が拾ってきた、自分と同じ歳ほどの子供。竜助としては、彼を自分と同等の友人として扱うべきなのか、それとも兄や弟として扱うべきなのかよく分からないでいた。ただこの点、幸太郎もほとんど彼と同様であったから、お互いどちらがどうというわけでもない。
しかし、竜助は彼と一緒に父親からの教育を受けていくうちに、彼との間に埋めがたい差があると気付くことになる。幸太郎は竜助よりも覚えが早かった。それも狩りの作法、身の振り方などの身体を使う面だけでなく、畑の耕し方や気候の読み方など頭を使う面の両方で竜助は負けていたから、彼はぐうの音も出ない。
唯一体力勝負では勝っているだろうと竜助は思っていたが、それだってほんの少しの差でしかないとは分かっていたし、それが単に慰め以上のものにはならないと重々承知していた。もちろん竜助もそれなりに努力はしている。しかし、それだけでは幸太郎には叶わないと子供ながらに分かったのだろう。
そうして彼がその事実にどう折り合いをつけたかといえば、彼は幸太郎とあまり喋らなくなったのだった。つまり、幸太郎から距離を取るようになった。それは竜助が逃避したとも言えるし、ある意味彼は消極的な攻撃を選んだとも言える。
これが積極的な攻撃に至らなかったのは、幸太郎にとっては幸運だった。そうなった場合、彼は竜介だけではなく、村に住む同世代の少年全員を敵に回すことになる。
なぜなら、小さな頃からこの村で育った竜助に比べたら、この村に来て間もない幸太郎は人脈というものがほとんどない。そしてこのような小さな村では、人付き合いの差は暴力的なまでの力の差になるのだった。いつの時代でも、一人で人は生きられない。一度人の輪から浮いてしまえば、一気に幸太郎は村で生活しづらくなるのだ。
この時竜助は気付いていなかったが、この人脈の差こそが彼と幸太郎の一番の差であり、最も彼が優位に立てる点だった。
ちなみに幸太郎自身がこのことに気付いたのは、かなり後になってからのことだ。もし彼がその時点でこのことを理解していたら、すぐに竜助との軋轢をなんとかしようとしていただろう。彼は当時を思い出す度に危なかったと背中をひやりとさせていた。
一方、この時香はどのような子供時代を過ごしていたか。
人より成長が早く、さらに小さな頃からすらっとして背が高かった彼女は、当時からずいぶんとおてんばな娘として有名だった。もちろん周囲のその言葉には、もう少し娘らしく、もっと嫋やかに、という願いが込められていたのだが、彼女はそれを褒め言葉として受け取ったらしい。まるでその言葉に後押しされるかのように、ますます彼女は楽しげに(周囲にとってははた迷惑な)日々を過ごしていた。
とある日、香は道端で泣いている女友達のお涼を見つけた。
すぐに香が駆け寄って彼女に話を聞いてみると、竜助とその取り巻き数人にからかわれたというのが泣いていた理由であるらしい。道のすれ違いざまに、髪に虫が止まっていたとかなんとか、そんなたわいもないことで彼女はからかわれたようであった。
そしてそれを聞いた香はすぐに行動を開始する。涼に竜助たちはどっちに向かったのか聞くと、彼女はすぐにその方向に向かって走っていった。そうして開けたところで遊んでいた竜助たち三人を見つけると、彼女は大きな声を挙げて竜助に走り寄り、彼の頬に思いきり張り手を食らわせる。
それは走り寄りながらの一撃であったから勢いがあったのだろう、竜助はその場に立っていることができず、まるで風に吹かれた木の葉のように軽く吹っ飛んで地面に倒れ込んだ。他の二人は突然のことに状況がわからず、口を半開きにしたまま、ただぽかんと友人を張った香の立ち姿を見つめている。
しかし、香は張り手だけでは気が済まなかったらしい。倒れこんだ竜助に近付いて彼を立ち上がらせると、もう一発彼の頬を張った。竜助は未だに気が動転していて、彼女のされるがままの状態だ。
「謝れ! 涼に謝れ!」
香は竜助の首根っこを掴むと、がくがくと彼の頭を振りながら何度もそう言った。当時は竜介よりも香の方が背が高かったためにできる芸当である。しかし、それでようやく竜介も事態を把握したようだ。
どうにか両手をばたつかせて彼女から離れた彼は、「うるせー、男女!」と声をあげると、体当たりをかましてやるべく彼女にぶつかっていく。
しかし、竜助の体当たりを香はその体格差を活かしてがっしりと受け止めた。そうして彼女は竜助と位置を入れ替えるようにして、彼を後ろに投げ捨てる。竜助は「うわ」と情けない声をあげて地面に転がった。体格の差はどうにもならない。
しかし竜助はすぐに立ち上がると、いまだにぽかんと立ち尽くしている友人二人に大きな声を飛ばした。
「何やってんだよ! お前らも手伝え!」
竜助の声にようやく二人は我に返ったようだ。彼らはすぐに身構えたが、しかしそれでもまだ動けない。お互いに子供とはいえ、さすがに男三人で女一人にかかるというのはどうかと悩んでいるのだ。
一向に手伝おうとしない友人二人を横目に見た竜助は、仕方なくまた一人で香に向かって突っ込んでいった。すると今度はぶつかる寸前に躱され、しかも香に足を引っ掛けられたためにまた彼は地面に体を叩きつける。
二度、竜助の悲惨な姿を見た友人二人は、それでようやく覚悟を決めた。彼らは子供なりに呼吸を合わせ、同時に香へとぶつかっていく。
さすがの彼女も二人同時に相手をするのは無理なようだった。一人はどうにかうまく躱したものの、その隙にもう一人にからみつくように腕を抑えられて、彼女はさきほどまでのように身動きがとれなくなる。
ようやく立ち上がった竜助はそれを確認すると、また香に向かって突っ込んでいった。腕に気を取られていたために、今度ばかりは香も躱せない。そうして彼女は竜助の体当たりをもろに喰らい、竜助の取り巻きもろとも地面へと倒れこんだ。
一方、走り去る香の背中を見つめていたお涼は、自分のせいで大変なことになってしまったとすぐに泣くのを止めていた。そうしてこの先起こるであろう出来事を彼女は想像し、急いで誰か人を呼ばなければと周囲を見回す。すると彼女は道の遠くの方に幸太郎が歩いているのを見つけた。
彼女はあまり幸太郎とは話したことがなかったが、ことは急を要するのだからそんなことを気にする余地はない。彼女は早く知らせねばと、急いで彼がいる方へ向かった。
目を赤くした涼から話を聞いた幸太郎は、彼女にただちに大人を呼びに行くよう言い聞かせると、自身はすぐに香が向かった方向に走りだした。今どのような状況になっているかは分からないが、少なくとも穏当な空気でないのは容易に想像がつく。そうして彼は間もなくその現場に出くわすことになった。
周囲の伸びた草に紛れてよく分からなかったが、開けたその場所で竜助は暴れる何かに馬乗りになろうとしているようだった。取り巻きの二人も抑えつけるのを手伝っている。ならばその下にいるのがおそらく香だろう。
そうして幸太郎は何を考える間もなく、竜助たちが争っているところへ突っ込んでいった。彼は「おお」と一度だけ大きな声をあげると、それに気付いてこちらを見た竜助に体当たりをかます。そのまま幸太郎は竜助を押し倒すようにして地面に抑えつけた。
突然の体当たりに竜助は驚いたようだったが、自分の現状に気付いた彼はすぐに幸太郎の拘束から抜けだそうと暴れる。しかし、幸太郎もかなりの力を込めて抑えているのでそう簡単には抜け出せない。
すると、香を抑えていた二人が、今度は矛先を幸太郎に変えてきた。さすがに二度目であったし、それに彼らも男相手ならば容赦無く本気を出せるようである。
彼らは幸太郎を竜助から離そうとして、思い切り幸太郎の体を突き飛ばした。幸太郎はたまらず地面に倒れ込む。しかし幸太郎はすぐに体勢を立て直すと、今度は彼を突き飛ばした取り巻きたちに向かって体ごとぶつかっていった。それにまた起き上がった竜助が加わったことから、幸太郎たちはもみくちゃになってどたばたと争う。
一方、その横で起き上がった香はいまいち今の状況がわからず、横でドタバタ暴れている幸太郎たちをぼうっとした様子で眺めた。状況がまだうまく飲み込めていないのだった。ただ確かに幸太郎が助けに入ってきてくれたことだけ、きちんと彼女は気付いていた。
涼が大人たちを連れてその現場に着いたのは、それから程なくしてのことだ。集まった大人たちの中には竜助の親である一彦もいた。
そして一彦たちはまだ暴れている男どもを取り押さえると、有無を言わさずその全員に拳骨を食らわせた。特に一彦は自分の息子である竜助に三度、特にきつい拳骨を食らわせたし、なぜか幸太郎も竜助と同じように三度拳骨を食らった。
実はこの時、涼の説明不足のために、幸太郎も竜助の仲間なのだと一彦は思っていたのである。この誤解は後で解けることになるが、この時の幸太郎にとってはひどく不幸な出来事となった。
一方、香の方もまた大人たちにこっぴどく怒られていた。さすがに幸太郎たちのように拳骨を食らうことはなかったが、その分怒鳴られるようにして彼女は怒られている。
香は負けん気の強い子供らしく、何度か自分は悪くないといった意味の言葉を言ったが、危ないことはするなという大人の言葉にそれは簡単に打ち消された。結局、その場にいた子供たちは全員ひどく叱られ、皆で泣きながらそれぞれの家へと帰ったというのが事の顛末である。
しかし結果的にこの出来事は、竜助と幸太郎の仲を一気に近づけるきっかけとなった。というのも、一彦はこの日を境に、彼らへの教育に連帯責任を加え、今までよりもさらに厳しい指導方法に変えたのである。
「女に手をあげるような心を無理やりにでも入れ替えてやる!」
健全な精神は健全な肉体に宿るという、一彦のその一心からの変更であった(完全に幸太郎は巻き込まれた形だが)。そうして幸太郎と竜助は二人で手厳しい指導をともに耐え忍ぶこととなる。
遊ぶ暇もないほどに毎日締め上げられ、家に帰ればすぐに横になるような境遇に置かれた二人は、連帯責任があるゆえにお互いの足りないところを教え合った。そうして最初は嫌々ながらという様子だった二人も、次第にお互いに慣れていったようだ。というより、一彦の拳骨をきっかけにお互いの位置づけが済んだことが大きいのかもしれない。
それから三ヶ月が経つ頃には、二人の間に友情らしきものが芽生えていた。
一方、香はその日を境に外で暴れまわることがなくなった。それどころかそれまで彼女が頑としてやろうとしなかった家での仕事、いわゆる家事というものを自分から積極的にやり始めたのである。彼女にいったいどのような心境の変化がおきたのだろうと周囲の大人達は不思議がっていたが、悪いことではないので特に余計な口を出すこともなかった。
そうして三年の月日が流れたのである。
□
「ふうん。じゃあ、あのバカも一応やることはやったんだ」
「そうだよ。竜助もこれで一人前だ。バカって呼ぶのはそろそろ止めてやったらいいんじゃないか?」
「それはぜったい嫌。あの時のバカが私にしたこと覚えてるでしょう? 体当たりなんかしてきた挙句、私のほっぺに手を当ててぶるぶるぶるって動かしてもみくちゃにして! 女の大事な顔に手を出すなんて信じられないと思わない? 次の日は、ものすごくほっぺが痒くなったし」
女だから竜助もその程度で済ましたんじゃないか、という言葉を飲み込んだ幸太郎はまた手にしているお椀から味噌汁を飲む。その証拠に香に一切後に残る怪我はなかったが、幸太郎と竜助はお互いに遠慮がなかった分青痣がその後しばらく残っていたのだ。
(それに、いきなり張り手をかました香も香で……)
そんな思いとともに椀の底の麹まで飲み込んだ彼は、お椀を置くと改めて香に向かって話しかける。味噌汁とまた時間が経ったこともあってか、すでに酔いは覚めていた。
「味噌汁ごちそうさま。うん、すごく美味しかった。……えーと、じゃあ、そういうことで、そろそろ香は帰ったら? 勘ノ助さんも朝、香がいなかったら多分びっくりするから」
「えー、まだいいじゃん。それに幸太郎には訊きたいこともあるんだ」
「訊きたいこと?」
幸太郎は首を傾げる。
「この前父さんから聞いたんだけどさ。幸太郎、今度分けてもらうんでしょ? 田んぼ」
その言葉にああ、と幸太郎は思わず声を出した。彼自身もその話を聞いたのはつい最近のことだったが、すでに香まで知っているほどにあちらで話が進んでいるらしい。いや、何より勘ノ助の口が軽いのか。いろいろな思いを頭に浮かべながら幸太郎は頷く。
「あ、やっぱりそうなんだ。この前亡くなった留蔵さんのとこのでしょ? 留蔵さん一人身で子供もいなかったし。ホントついてたよね、幸太郎」
香の言い方は悪いが、それは確かに事実だった。予定では、幸太郎が自分の水田を持つのはだいぶ先になるはずだったのだ。
幸太郎には親の水田を引き継ぐということができないので、彼が自分の水田を持つには新たに開墾をして土地を開かねばならない。それまで彼はいわゆる水呑百姓のように、しばらく他人の田畑を耕すのを手伝いつつ、日々を過ごす予定だった(ちなみにこの村は大小差はあれ、全員が自分の水田を持っている。それはこの時代では珍しいことだった)。
ところが、ちょうどよく身寄りのいなかった留蔵が初夏に亡くなり、耕す者のいない水田がぽんと出てきたのである。すぐにそれに目を付けた一彦は村の名士である自分の立場を有効に使い、それら全てを幸太郎が引き継げるよう画策した。
またこの場合、幸太郎は新規に田畑を受け継いだと見なされるので、現在免除されている期間に加えてさらに二年、税の徴収が免除される。村全体の利益を考えてもそれは良いことであり、幸太郎がその水田を引き継いでも他の住民にしこりは残らないはずだと一彦は幸太郎に説明していた。
「そうだよ。それで訊きたいことって何? 田んぼの件は自分もそれ以上説明できないけど」
「ううん。それを確かめたかっただけ。もういいよ」
意外とあっさり引いたことに、幸太郎は訝しげに香の顔を見つめた。しかし、本当に彼女はそれだけを尋ねたかったようである。そしてなぜか嬉しそうな表情を浮かべる彼女を、幸太郎はよく分からず眺めていた。
「んじゃ、私帰るね」
そう言って香は突然立ち上がった。
「ん? うん。それじゃあ家まで送ってくよ」
「大丈夫。一人で帰れるから。幸太郎も疲れてるだろうし、もう寝たほうがいいよ」
「いや、だって夜も遅いし――」
「いいから。本当に大丈夫。それじゃあね」
そう言って軽やかに彼女は身を翻すと、草履を半分履いて玄関から出ていった。その速さは、幸太郎が立ち上がる暇も与えられないほどだった。
そうして家に一人残された幸太郎は、彼女の妙な行動にもう一度首をかしげる。自分が水田を持つことでなぜ彼女が喜ぶというのだろう。……ひとつ思いついたことはあるが、すぐさま彼はそれを頭の中から追い出した。
そして、まあ特に問題があるわけではないだろうと思った彼は、結局彼女のことを棚上げにする。彼女の言う通り、疲れていたということもあった。
土間に降りた彼は鍋を二つ片付けた後、すぐに布団を敷いてごろんと横になる。ひとつ大きく欠伸をすると彼はすぐさま夢の世界へ落ちていった。
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