第2話

 結局宴が終わったのは、夜もだいぶ更けた後のことだった。


 宴会の会場だった一彦の屋敷の一室では、一彦と竜助が重なるようにしていびきをかきながら眠っている。彼らはある程度の量、酒を飲むと途端に眠ってしまう体質だった。場合によってはそれも迷惑だろうが、酔って暴れる奴よりはよほどいい体質だなと幸太郎は思う。


 そうして宴会の中心人物だった二人が寝てしまうと、先ほどまで彼らと下世話な話をしていた大人たちも、お開きかと自分の家へ帰っていった。それからしばらく経ち、まだ部屋に残っているのは宴会の後片付けを手伝っていた幸太郎だけである。


 とはいえ、別に幸太郎も宴会の後片付けを手伝う必要はなかった。ご馳走様でしたと言い置いて、彼も自分の家へ帰ってしまっても特に問題はなかったのだ。


 ただ、最初はそのつもりだった彼も帰り際になると、男たちが何人も集まって騒いだ場所を一彦の妻であるお初がたった一人で片付けるのは大変だろうと思い直した。その部屋がもはや無残という言葉でしか表現できないほどに汚れていたからだ。


 何しろ、横に倒れた徳利からは半分残った酒がこぼれ落ちているし、中には割れてしまった徳利や椀もある。最初はきちんと盆の上に乗っていたはずの皿もあちこちに飛んでいってしまった。部屋の障子に大きく破れた箇所がないのが不思議なくらいである。


 幸太郎自身は行儀よく手酌で酒を飲んでいただけなので、もちろんこの状況にはまったく関係がない。ただ彼は自分が関係ないからといって、目の前の惨状を見捨てていくこともできなかった。



 そしてようやく、まあ大雑把にではあるが、部屋の片付けが済んだ後で幸太郎はお初に声をかけられる。


「あら~、幸太郎、ありがとうねえ。私一人じゃこんな早くには片付かなかったわあ~」


 顔に笑顔を貼り付けた幸太郎は「いやいや、これくらいなら」と言って、顔の前で手を振った。別にお礼を言ってもらいたくて手伝ったわけではない。お初の掃除する姿を見ていたら、なんとなく手伝わないといけない気になっただけだ。


 お初はなんというか、動作がゆったりとした女性だった。


 もちろん、それはそれで彼女の美点のうちの一つなのだが、それは悪く言えば鈍いということでもある。彼女の掃除の速度は家事に慣れていない幸太郎から見ても明らかに遅かった。これでは掃除もいつまでかかるかわからない。それを見るに見かねたという理由もあるのだ。


 それに個人的に言えば、彼女は幸太郎の苦手な種類の女性だった。どうもそりが合わないというか、引っ掛かるところがあるというか。なるべく彼女と話すのは控えておこうと幸太郎は思っている。この秘めた感情に気付かれても困るからだった。


「そんな謙遜しなくていいのよ~。本当に、ありがとうねえ。ああ、そうそう。せっかくだからお礼も兼ねて、これ持って行ってちょうだい~」


 そう言って彼女が幸太郎に差し出したのは、宴会の料理として出された猪鍋の残りだ。しかも幸太郎が持って帰りやすいように木蓋が乗った小さな鍋に移しかえられている。


「え? いや、それはありがたいですけど。でも明日の朝に食べる分がなくなるんじゃ?」

「いいのよ~。一彦さんはお酒飲んだ次の日、頭が痛いらしくて何も食べないから~。気にしないで~」


 お初は押し付けるようにして、幸太郎に鍋を渡そうとした。息子の方には言及しない辺り、そちらは言うまでもなく問題ないということだろう。数度遠慮をした幸太郎も、彼女が何度も強く勧めてくるのに負けて結局その鍋を受け取った。


「ありがとうござます。助かります」

「お礼を言うのは私の方よ~。今日は竜助の狩り、後ろで手伝ってくれたんでしょう? この子はそそっかしいところがあるから、幸太郎がついていてくれたら安心だわ~」


 誰からか今日の狩りの話を聞いたのかもしれない。「とんでもないです」と幸太郎は答える。するとお初はどこか愚痴を洩らすように幸太郎に向かって言った。


「こんなに真面目な幸太郎に比べて、この子ったら、最近戦に出たいなんて言い出して~。まったく、一度、一彦さんにしっかり言い聞かせてもらわないといけないわ~。大事な一人息子だっていうのに、ねえ? 幸太郎からも、その話が出たらきちんと釘を刺してちょうだいね~」

「ええ。分かりました」


 苦笑するようにして幸太郎が答えると、お初は安心したように表情を緩める。それから幸太郎はその片手に小さな鍋を抱えて、一彦の屋敷を出たのであった。



 およそ四年前、幸太郎はこの村に流れてきた。いや、正確に言えば彼は拾われてきたのである。幸太郎はこの村の近くの山で生き倒れていた。それをちょうど狩りの最中に通りがかった一彦が見つけ、村に担いで連れてきたのだ。


 一彦が幸太郎を拾ってきた理由は単純だった。倒れていた幸太郎の背丈がちょうど彼の息子の竜助と同じくらいだったからだ。同じ年頃の息子を持つ親として、彼をそのまま見捨てるにはどうにも忍びなかったのである。


 そうして拾われてきた幸太郎は、二日間眠り続けてようやく目を覚ました。そうして起き上がった彼から事情を聞くと、一彦は身寄りのないらしい幸太郎の世話をしてやることを決める。


 もちろん、これが普通の家庭だったら彼を養うのは不可能だっただろう。凶作があれば人減らしをする時代なのだ。しかし、幸太郎はなんとも幸運な子供だった。彼を拾った一彦はその村の名士だったのである。すなわち、一彦には家族が一人増えても養えるだけの余力があった。


 そして何より、一彦は義侠心に富んだ性格をしていたのである。彼は一度拾ったものをぽいとそこらに捨てる質ではなかった。さらに年頃の竜助を仕込むついでに、一彦は畑の耕し方や狩りの方法など一人で生きていくための手法を幸太郎にもみっちりと教え込んでやることにした。


 幸太郎が体を動かしても問題ないというほどに回復すると、一彦は様子を見ながら二人に教育を施し始めた。手始めは体を動かすものがいいだろうと彼は二人に弓を渡してみる。彼らの体格に合わせた弓をわざわざ一彦は作っていた。


 そして二人に徐々に訓練を施していった結果、一彦はなんとも驚くことになる。なんと竜介より幸太郎の方が弓の覚えが早かったのだ。


 竜助がいまだ弓を引き絞る辺りで手こずっている間に、幸太郎は早速矢を放って野うさぎを一匹仕留めてみせた。そして竜助がうさぎをようやく射れるようになった頃には、幸太郎は鹿を一人で捕らえてくるようになっていたのだ。


 いや、決して竜助の覚えが悪いわけではない。親の贔屓目を外しても、むしろ竜助は覚えが早い方だと言えた。なにせ周囲の子供たちはいまだ矢をつがえずに弓を引くような時期である。すなわち、幸太郎の成長ぶりが異常と言えるのだった。


 それから注意して一彦が幸太郎を見ていると、年若い彼がひどく真剣に課題に取り組み、少しも日々の努力を緩めていないことが分かった。幼いながらに見ず知らずの土地で頼れる者は自分だけとでも思い定めているのか。そんなことを考えつつ、思いもしないような拾い物をしたのかもしれないと一彦が思い始めたのはこの頃のことだった。



 そうして三年ほどが経つと、一彦は幸太郎をもうほぼ一人前の男だと認めた。何しろ一人で猪を捕まえるくらいなのだから、どこにも反対する要素が無い。


 またその祝いとして、一彦は彼が一人立ちして暮らせるような家を村の外れに建ててやった。村の外れに家を建てたのは、十分な広さのある場所がそこしか空いていなかったからだ。それから一年、幸太郎はその真新しい家で一人暮らした。


 折を見て一彦は彼の様子を見に行ったものの、その生活に特に困った点はなさそうだった。屋敷を出る時に一彦が飯の都合を付けてやった部分も大きいのだろう。裏に作った畑の世話もきちんとなされているようだった。だが何より幸太郎は、一人暮らしを謳歌している感があった。


 ある日、様子を見に行った一彦は幸太郎の家から漏れ聞こえてくる嬌声を聞くことになる。それからというもの、彼は幸太郎の心配をするのを止めていた。もちろん、それは安心したという意味でだ。


 将来的に幸太郎は、この村を引っ張る有能な人材になるだろうと一彦は思っている。竜助とも上手く折り合いが付いているようだし、息子が困ったときは必ずその助けになってくれるに違いない。彼はそれを確信していた。だからこそ、この村の将来は明るいと安心している。


 そして同時に彼は、自分が幸太郎の世話をする決心をしたことを我ながら正しい判断だったと自画自賛していたのであった。



 一彦の屋敷を出た幸太郎は、気持ちの良い夜風に当たりながらゆっくりと我が家へ向かって歩いていた。


 片手に鍋を持ってゆらゆら歩いている彼の姿はどこか滑稽に見えたが、端から見ても彼がどことなく気分の良さそうなのが分かる。というのも、彼はあえて口に出しはしなかったが、竜助が初めて猪を捕らえられたことをまるでわが身のことのように喜んでいたのだ。


 幸太郎は竜助が今までしてきた努力を誰よりも知っていたし、それが結果として現れることを誰よりも願っていた。三年という短い期間ではあったが、同じ家で暮らした兄弟のようなものなのだ。今回の狩りは絶対に成功してほしい、いや成功させてみせると並々ならぬ決意で幸太郎自身も取り組んでいた。


 実は一度、竜助は猪を捕らえるのを失敗している。その時彼は周囲の反対を押し切り、幸太郎と同じように一人で猪を捕まえようとした。


 その結果猪に一撃食らわせることには成功したものの、その当たった場所が悪かったために、彼はその猪に逃げ去られてしまう。すなわち、彼の行為はただいたずらに猪を傷つけただけで終わってしまった。おそらく猪はその傷がもとで、どこか人の目が届かない山の奥地で命を落としたことだろう。


『山の恵みを必要な時に必要な分だけ採る』


 そんな考えを根底として自然と生きる村人たちにとって、竜助のしたその失敗は言うまでもなく非難されるべきものだった。それゆえ、今回の狩りで二度目の失敗は許されなかったのだ。


 しかし今回、竜介はその重圧に負けずに一人で猪と対峙し、急所の目の近くに槍を突き刺した。そしてそれがもとで猪の動きは鈍くなり、幸太郎も槍を刺すことができたのだ。これは立派に竜介が自分の役割を果たしたということだ。周囲に誇っていい仕事を彼は成した。


 ただ竜介本人は、自分一人で止めを刺すことができなかったと悔いているようである。


 別に気にする必要はないのにな、と幸太郎は思う。


 普通、狩りは数人で獲物を囲んで行うものなので、むしろ竜介は真正面から猪と対峙した自分を褒めてやるべきなのだ。それにもし幸太郎のように一人で猪狩りをやるとしたら、それはそれで別の手が必要になってくる。


 それを彼に教えてやるべきかどうか。幸太郎はまだ迷っていたが、いつかは必ず教えてやろうと思っていた。


 そんなことを考えながら歩いているうちに、幸太郎はようやく我が家へと戻ってきた。そして彼は、誰も居ないはずの家の中からなぜか明かりが漏れていることに気付くことになる。


 彼は小さくため息をつくと、ゆっくりと家の扉を開けた。


「あ、おかえりなさい! ずいぶん遅かったのね!」


 そうやってまるで新妻のように幸太郎を迎えたのは、彼の数少ない友人の一人である、香という名の娘であった。

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