戦に出るまで

おん玉

第1話

 若葉が芽吹いたばかりと思っていた山の桜は、目を凝らしてよく見てみるとほぼ全体が新緑の葉で覆われようとしていた。


 みずみずしく艶のあるその葉は太陽の日差しを浴びて、まるでそれ自体が光を発しているかのようにも思える。季節は順当に春から夏に移り変わっているらしい。


 竜助は遠くに見える桜の木を観賞しながら、二の腕の辺りをぽりぽりと掻いていた。長時間身を低くして地面に伏せていたことで、肌が草に負けてしまった。


 ずいぶん痒い。一度掻く手を止めて見てみると、二の腕から手首にかけて赤く膨れ上がった部分が点々としている。その見た目はあまり気持ちの良いものではない。


(ったく、これだから……)


 思わずぼやきが口をつきそうになるが、竜助は周囲のことを考えて声を出さなかった。そのかわりに彼は額に浮かんでいた汗を手の甲で拭う。


 彼が姿勢を低くして隠れている林の中は、日光が直接当たっているわけでもないのに暑かった昨日雨が降ったせいで湿気が高くなっているのも影響している。


 竜助は現在、五人の仲間とともに林の中に身を隠していた。狩りで獲物を捕らえる、というのがその目的である。彼らは朝からそこで張り込んでいたが、日はすでにゆっくりと落ち始めていた。


 今のところ、一向に獲物が彼らの近くを通る様子はない。そして彼らは獲物が現れるまでならば夜までその場で待機していなければならず、竜助は朝からずっとその精神力を試されているような状態にあった。


 特に足元の水気が憎たらしい。それが発端になっているのだ。ぷーんと羽音を立てて、竜助の周りを蚊が飛んでいる。さきほどから耳障りなことこの上ない。


 最初は我慢していた竜助もついに耐えられなくなり、顔の前を往復する蚊をその度に手を振って追い払う。


 そんな竜助の動きが目に余ったのだろう。

 後ろから小さく刺すような声が飛んできた。


「おい、あんまり動くな」

「いや、分かってるって。でもこの蚊が……」

「慣れるか我慢しろ。人は蚊に刺されたくらいじゃ死なん」


 切って捨てるような言い方にちょっとむっとした竜助だったが、反論はしなかった。仲間のその発言が正論であるのはもちろん、周囲の三人も同意見の顔をしていたからだ。


「分かったのか?」

「分かった、分かった。我慢するって」


 竜助は降参、降参とばかりにぶっきらぼうに答える。


「……しかしいつになったら来るんだろうな? っていうか、本当にちゃんとここを通るのか?」

「何度かここを通るそいつを見た奴がいる。それに獣道があったのをお前も朝、ちゃんと確かめただろう? ……いいから黙って待ってろ。口ばかり動かしてもろくなことはないんだ」


 小声でありながらも叱っていると分かるようなその言い方に、竜助はへいへいと頷いた。


(ったく、同い年のくせにまるで十も歳上のような言い方をしやがって)


 そんなことを考えつつ、竜助は言われた通り周囲の様子に気を配りはじめる。周囲の仲間たちもそんな竜助の様子を見て、また意識の矛先を周囲へと戻した。


 するとその会話からそう間を置かず、林から少し離れた位置で何か草の擦れる音がした。


 その瞬間、竜助は音が聞こえた方向に視線を向ける。しかし、あいにくそちらは背の高い草が生い茂っており、まだ獲物の姿は確認できない。


「来たぞ。長槍持っとけ」


 竜助と同様に気付いた仲間の一人が低く抑えた声を周囲に飛ばした。今聞こえた音から獲物の存在を確信したらしい。その声を聞いた竜助は一気に気を引き締めて、地面に置いていた長槍を掴んだ。


 ずっしりと重さのある長槍はなんともいえない頼もしさを感じさせてくれた。だが、草木の露が移ってしまったのだろう、その柄の部分が少し濡れている。


 ここぞという時に滑らないよう、竜助は脇の下でごしごしと槍を拭った。改めて柄を撫でてみる。違和感はない。これなら大丈夫だろうと竜助は一人頷いた。


 この槍は、先日雷で倒れた木を切り出して作ったぴかぴかの新品だった。よほど下手に扱わない限り折れることはないだろう。またこの日のために竜助はしっかりと手入れも欠かさなかったのだ。総じて問題は、ない。そうやって、安心できる材料を頭の中に積み上げると、竜助は息を抑えて獲物が出て来るのを待った。


 竜助のその様は、先程までの気の緩んだ状態からは程遠いもののようだった。むしろ微かに彼の体は震えており、竜助は体全体に力を込めて無理矢理それを抑えつけようとしている。


 絶対に一人で決着をつけてやる。今の竜助の頭はそれで一杯になっている。


「手はずは決めたとおりだ。頼むぞ」


 後ろからぽんと肩を叩かれ、竜助は黙って右手を挙げ応えた。その間にも耳まで届く音は徐々に大きくなっている。竜助の心臓の鼓動も早くなっていた。彼は長槍を強く握り直した。


 そして、がさりと音がして、向こうの草むらから『それ』は姿を現した。


「今だ! やれ!」


 後ろから乾いた声が飛び、竜助は目の前の開けた場所に一目散に飛び出した。そして彼はその勢いのまま、草むらから出てきた獲物に突っ込んで行く。


 突然目の前に飛び出してきた人の姿に驚いたような鳴き声をあげたその獲物は、しかしすぐに平静を取り戻すと地面を蹴った。勢い良く、竜助に立ち向かってくる。自身の体格を存分に使って、竜介に体当たりをかますつもりのようだ。助走もわずかに、獲物は一気に加速して竜助との距離を詰める。


 獲物から発せられる圧力に少し気圧される竜助だったが、もちろん彼は立ち止まったりしない。それは周囲の視線を感じていたことも理由の一つだが、何より彼は自分の立場をしっかり理解していた。彼はここで一人前の男にならねばならなかった。


 体の奥底から湧き上がってくる恐怖心を押さえつけ、彼は手に持っていた槍を前へと突き出す。知らず知らずのうちに喉から声が上がっていた。


「……!」


 両者は互いに勢いを緩めずぶつかった。「うおお」とか「うああ」とか言葉にならない声とともに竜助が突き出した長槍は、狙いが少し上に外れてしまったようだ。


 首筋を狙ってその穂先は獲物の目元の辺りに刺さっている。浅く刺さったようだが、そこも急所には違いなかった。遮二無二駆けてきた獲物はぶつかった瞬間、体を跳ね上げた。そして足を止め、最後にはぴたりと動かなくなってしまう。


 竜助も勢い、後ろに転げていた。しかし、周囲に隠れていた者たちは獲物の足が止まったのを見て、「おお!」と歓声をあげる。竜助が槍一つで見事に獲物を討ち取ってみせたと思ったのだ。ついに竜助がやったのだと。


 しかし彼らが安心したのも束の間、その獲物は一際大きな鳴き声を上げると素早く体の向きを変えた。その拍子に柄が道端の木に当たり、長槍は獲物の顔の肉を削ぎながら地面に抜け落ちる。そうして顔から血を流すのを構わず、獲物は再度足に力を込めて後方に走り出そうとした。


 竜助はそれを追うことができなかった。ぶつかった時の衝撃で手も足も痺れてしまっていたのだ。さらに周囲の仲間も槍が刺さった瞬間、「仕留めた!」と気を抜いてしまい、すぐさま対応できない。


 このままではまた・・獲物に逃げられてしまう。


 竜助だけでなく周囲の誰もがそう思った瞬間。竜助の脇を縫うようにして槍が一本突き出された。


 しっかりと狙って突き出されたらしいその槍は、向きを変えた獲物の脇腹の辺りを的確に捉える。そして、後方から斜めに突き刺さったその槍はみるみるうちに獲物の体の中へと吸い込まれていった。結果、首の後ろから穂先が突き出たところで、獲物は足を止めて横になって倒れこむ。


 それを見て安心したのか、それとも別の意味で気が抜けたのか、竜助はその場に倒れこむようにして腰を下ろした。彼の後ろにいた男はその肩を叩き、尋ねる。


「大丈夫か?」


 後ろを振り向いた竜助はいまだ我を取り戻していない様子だったが、無理やり喉から声を出して答えた。


「大、丈夫だ、幸太郎。悪かった。いや……助かった」


 その言葉に、幸太郎はにいと笑って応えた。



 その日の晩は宴会だった。久しぶりに大物の『猪』が取れたのである。狩りに参加した男たち(とその他大勢)は猪鍋を囲みながら自家製の酒で乾杯していた。


「ははは! これでやっと竜助も一人前だな! なんてったって、こんな大物を捕らえたんだからな!」


 どぶろくの入った椀を片手に機嫌よく笑っているのは、竜助の父の一彦である。 


「これであとは嫁御をもらうだけだ! いや、もう手懐けた娘っ子もどこかにいるんじゃないのか? どうなんだ、おい?」


 そう言って、ばんばんと息子の肩を叩く彼はよほど気分がいいようだった。そのように感情を表に出さずにはいられないほど、自分の子供が猪を捕まえたことが嬉しいらしい。


 それもそのはず、この村では猪を狩ることに特別な意味があった。すなわち、猪狩りは村の少年を成人として認めるための通過儀礼なのだ。この村の男は猪を捕まえる狩りに参加して、ようやく一人前と認められる。早い遅いはあれ、これは村人の男衆誰もが皆通らねばならない道だった。


 そして、本日めでたく竜助は村の皆から一人前として認められたのだ。親としてこれ程嬉しい日もないだろう。


 一方、彼に肩を叩かれている竜助は微妙な顔をして酒を飲んでいた。見るところ、あまり達成感のあるような顔はしていない。というのも、村に帰ってきてようやく落ち着いた彼は、自分一人の力で猪を捕まえられなかったと今日の狩りの内容を悔やんでいるのだった。


 なによりも猪に止めを刺したのは自分ではない。しかも、その助けてくれた人物が幸太郎だったこともあって、彼は素直に喜ぶことはできなかった。


 しかしそんな彼の様子に気付くこともなく、一彦は機嫌良さそうに息子に話しかける。そうして彼がいささか猥談に近い話を息子に振る度に、彼ら親子の回りにいる大人たちも下卑た笑い声をあげた。それをきっかけに彼らの間では村の女達の話題に花が咲く。


「それなら、喜之助のところの娘っ子はどうだ。確か随分乳もでかかっただろう?」

「馬鹿、おめぇ知らんのか。あそこの娘はかなりの好き者って話だぞ。子ができても誰の子だかわかりゃしねえ。まあ、一晩頼むならいいかもしれんがな」


 それを聞いた者たちは再度笑い声をあげる。


「んだらば、八納のとこの娘がいいんじゃないか? あそこの娘は気立てもいいって話だ」

「あのちょっと鼻が潰れた娘か? いやしかし、気立てがいいったってなあ」


 そうやって竜助本人を置いてけぼりにして、周囲でどんどんと話が進んでいく。この分だと竜助がいなくなっても彼らは話に夢中で気付かないに違いない。


 いい加減うざったくなった竜助はそう考えて席を立つと、端で静かに酒を飲んでいた幸太郎に近寄っていった。そうして彼は幸太郎の隣にどかりと音を立てて座る。幸太郎は手にしていた杯を置いて彼の方に顔を向けた。


「どうした? あっちの話に加わらなくていいのか? お前の将来についての、大事な話みたいだが」


 狩りの時とは違い、幸太郎は竜助をからかうような声色で言った。


「馬鹿野郎。ったく、親父も余計なお世話だっつうんだ。てめえの相手くらいてめえで決める。なんで親にそこまで世話してもらわねえといけねえんだ」


 吐き捨てるように言った竜助に幸太郎は軽く笑ってみせると、目の前に置いてあった酒を彼に勧めた。竜助は差し出されたお椀をひったくるようにして奪うと、ごくごくと喉を鳴らして一気に中身を飲み干す。そして喉につっかえたのか、ごほごほと彼は咳をした。


「ああもう、吐き出すなよ。もったいねえ」

「あん? どうせ俺んちの酒だ。もったいなくねえよ」


 いつもなら口にしないようなことを言うあたり、竜助はずいぶん酔っているらしい。


「なあ? お前も分かるだろう? 今回猪を仕留めたのはお前だ。俺じゃねえ。俺はお前のおこぼれで今こうやって祝ってもらってる。恥ずかしくてたまらねえよ」


 さらにはこの絡み酒である。幸太郎は呆れたようにして、「はあ」とため息をついた。


「お前はまだそんなこと言ってんのか? 今日の一番槍はお前だろう? それで猪の足が鈍ったから俺の槍も刺さったんじゃないか。それにお前が最初に出て行って一撃食らわせたところで、後から皆が一斉に止めを刺す。これは最初に決めた通りだろうが」


 事実、幸太郎の言葉はまったくの正論だった。控えていた三人が少し出遅れてしまったから幸太郎が仕留めることになったが、あの状況ならたとえ幸太郎が何もせずともほかの誰かがきちんと獲物を仕留めただろう。


 しかし、「そうじゃねえ、そうじゃねえ」と竜助はうわ言のようにつぶやいた。


「俺が言いたいのは、この俺がお前の後ろを歩いてばかりだってことだ。だって、お前が一人で猪を捕らえたのはもう一年も前のことだろう? 今回捕まえたのより大きな猪を、それも誰の手も借りずに一人で。……ふざけんじゃねえ! そんなの狩りに慣れた大人だって難しいんだぞ。今日みたいに何人かで囲んで、それでようやく捕まえられるんだ。それをお前……」 


 最後はうまく言葉になっていなかった。ただ、よほど竜助が一人で猪を捕まえたかったことだけは分かる。そんな竜助の様子に面倒臭そうな顔を幸太郎は浮かべた。


「だいぶ酔ってるな。今日はもう休んだらどうだ?」


 そう言って幸太郎が竜介の肩に手を置くと、竜介はそれを荒く払った。 


「違う。酔ってなんかいねえ。幸太郎! お前はなんなんだよ、本当に!」


 すると幸太郎はひどく真面目な表情を浮かべて言った。


「俺は俺以外の誰でもねえ。お前も知っているだろう? 俺はこの村でたまたま拾われた男で、この村の新参者で、それであとは……お前の友達だ」


 その予想外の発言に竜助は一瞬言葉に詰まってしまった。まったく幸太郎の狙い通りであった。それから竜助は一度口の中の何かを飲み込むと、目を逸らして小さな声で言う。


「……悪かった。変に絡んじまった。許してくれ」

「いいさ」


 幸太郎は目の前に置いてあったお椀を掴むと一口酒を飲んだ。その間、竜助は下を向いて一度深くため息をつく。それから頭を上げた彼は強引に話題の転換を計った。


「――なあ。お前、この先どうするんだ? ずっとこの村で一生を過ごすつもりか?」


 竜介のその質問の意図がわからず、幸太郎はすぐに尋ね返す。


「どういう意味だ? それ?」

「いや、この前戦も終わったばかりだけどな。どうせしばらくすればまた始まるだろう? それに参加してみるつもりは――ないのか?」


 その言葉に渋い表情を浮かべた幸太郎はつまらなそうに答えた。


「馬鹿かお前。俺達みたいなのが戦に乗り込んでいったって、どうせそこら辺の小戦で死ぬだけだ。田んぼ耕して静かに生きていったほうがいいに決まってる」

「いや、そうとは限らないだろう? お前も藤吉の話は知ってるはずだ。一介の農民が戦で活躍して出世していくんだぞ。そんな話を聞いて、男として興奮しないのか?」


 酔っ払いらしい熱っぽい話し方をする竜介に、幸太郎は今度はわざとらしく大きなため息をついた。


「お前、その話の結末も知ってて言ってるんだろうな。猿吉だか、エテ吉だかはこの前土地の領主様に攻められて死んだじゃないか。いやそいつだけじゃなく、あの家はほとんどの家臣が討ち死にしたって話だろう? 結局は藤吉だって何だって、自分の血を流して痛い思いをしながら死んだだけだ。今日の猪みたいに」

「それは仕える主君を間違えただけだろ。うちの領主様なら大丈夫だって」

「だから、何を根拠にそう言ってんだよ? 今年来年と税が免除されたからか? だから何事にも間違いを犯さないような良い領主様だと? そんなわけないだろう。お前の言う領主様だって、もっと上の守護様の庇護の下で領地を経営してるんだ。徴税のやり方だって、向こうから口を出されたらすぐに変わる。まあ、領主様だって女房と子供を人質に取られてるんだから仕方ないのかもしれないが」


 すると、竜助は不思議そうな顔をして孝太郎の顔を見た。


「女房と子供? 人質? 初めて聞いたぞ? お前どこでそれを聞いたんだ?」 

「……この前、鹿の毛皮を売りにほかの町に行ってきただろう。その時、噂話を聞いたんだ」


 幸太郎の言葉に、「ん? ああそうか」と竜助はあっさり納得したようだった。深く追求して来なかったことに、内心幸太郎はほっとしながら続ける。


「いいから、兵になるなんて考えはやめとけ。……それよりお前はもっと違うことの心配をしたらどうだ? あっちでお前の相手が決まったみたいだぞ?」


 竜助は幸太郎の言葉を受け、自分の父親がいる方に目を向ける。


「――なら決まりだな! じゃあ、竜助の筆おろしは栄二郎のところの娘っ子に頼むか! 出戻りだがその分長けてるだろうし、安心して竜助の奴を任せられる。ああ、すこしとうはたってるが、そのままうちの嫁御にもらったっていいかもしれん。そしたら栄二郎も喜ぶだろうしな!」


 その発言を聞いた竜助は飛び上がるようにして席を立つと、すぐに父親達の集まりの中へと突っ込んでいった。まさか話がそこまで至るとは彼も思っていなかったのだ。


「この馬鹿やろうども! 俺の相手を勝手に決めるんじゃねえ!」


 当の本人がやってきたとさらに沸き立つその場を、幸太郎はまるっきり他人事として笑いながら眺めているのだった。

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