5 おもいびと


 わたしは、まるで割れてはじけ飛んだガラス細工の破片のようにベッドから勢い良く立ち上がると、リリィの前へと走った。そして、そのまま彼女の両手を、しかと握った。


「もう会えないと思ってたのよ……もう、二度と……会いたかった……会いたかったのよ……」


 と言うわたしは泣いていた。


 “私もです、マリア様……”


 などと返すような少女ではない。リリィは、ただ黙ってもう一度、頷いた。


「でも、どうして?お仕事で、他の国にいらっしゃるはずなのに、なぜここへ……?」


 涙にふるえながらの問いかけ……だが、答えなどはいらなかった。今、ここにリリィがいてくれる。それだけで充分だった。


「元気にしてらっしゃったの?お仕事は上手くいっているの?ご飯はちゃんと食べていたの?病気や怪我などはしなかったのですか?何も言わずに消えたあなたをどれだけ心配したか……どうなのです?」


 矢継ぎ早な質問に対するリリィの表情は優しかった。元気そうなその姿を見て、そして握った手の感触を確かめて、わたしは安心した。いや、彼女がそばにいることが、なによりの心の安定をもたらしてくれそうだ。











 この夜、ベッドでいっしょに寝た。リリィはずっとわたしを抱いてくれていた。歳は彼女のほうが下なのに、わたしはずっと甘えるようにしていた。


「わたしがやらなきゃって思ったのよ……戦争も、一部の悪質な宗教も、怪我をして帰って来る兵士様たちも、全部終わらせなきゃって思ったのです……」


 リリィの胸に顔を埋め、ネグリジェ姿のわたしは言った。それこそが脱ぐと決めた理由……もう一度、伝説のヌードモデルになることの動機だった。


「でも、こわいのよ……また、あんな恥ずかしい思いをしなければならない……だって、何千何万もの大勢の殿方の前で、裸を晒すんですもの……」


 そんなことを言うわたしに対し、リリィがなにかを答えることはなかった。口数が多くない少女である。


「逃げたい逃げたいと何度も思ったわ……このまま飛んでっちゃいたいと思ったわ……あなたが来てくれなければ、わたしはおかしくなっていたかもしれない……」


 わたしは続けた。喋らないが、よく話を聞いてくれるリリィは、優しく頭を撫でてくれた。


「それと、ごめんなさい……わたし、あのときあなたが、あの記者を手にかけたと勘違いしてしまったの……怒ったのでしょう?本当にごめんなさい……」


 リリィは、わたしのそんな言葉に小さく首を振った。


「でも、でも……あなたも悪いのよ。わたし、謝ろうと思っていたのに、何も言わずに、いなくなってしまうんですもの……」


 わたしは涙ぐみながらも、リリィの肩のあたりを、ぽかぽかと叩いた。


「このブローチ、してくださっているのね……」


 リリィのシャツの襟に付いている白百合のブローチを、わたしは指先で軽く摘んだ。昨年、直接渡すことができなかったクリスマスプレゼントである。サーシャは約束を守って、渡してくれたのだ。


「選ぶのに、とっても苦労したのよ。あなたは美人だからなんでも似合いそうだけど、そのせいで選択肢が多くて逆に苦労したのよ……」


 リリィの緑のシャツの胸もとに広がるしみを見ながら言った。それは、わたしの涙のあと……


「いったい、どうしてこんなところに……?異国での“仕事”は終わったのですか?」


 訊いてみた。リリィは首を横に振った。


「そう……ではまた、旅立つのですね?」


 彼女は頷いた。


「残念だわ……また、リリィさんと、お友達に戻れると思っていたのに……ならば、わたしのことを心配して、来てくださったのね?」


 その質問に対しては、リリィは首をどちらにも振らなかった。ただ、ほんの少しだけ笑顔を見せて、わたしを抱いてくれるだけだった。











 もはや眠ることなど忘れていた。彼女の胸の中で、わたしは、リリィがいなくなってからの、ここ数ヶ月におきたことを話した。四月から大学生になったこと。ヌードモデル教の人たちを見たこと。公民館の図書室でアルバイトをしていること。将来、司書になろうかと思っていること。その他いろいろ。サーシャのことも話した。良い人だと伝えた。


 リリィは何も語らずとも、ときに相槌をうち、ときに微笑を見せた。かつて彼女が監視役として家に来ると、いつもこんな感じだった。おしゃべりなわたしの話をずっと聞いてくれる。すぎた日のことを思い出した。


「ああ……こんな場所じゃなければよかったのに……ここがわたしの家なら、お菓子を食べることもできるし、お話に飽きたら、ふたりでお買い物にも行けるのよ、あの頃みたいに……」


 別れてから一年近く……それが、とても昔のことのように思えた。だから、“あの頃”などと回想してしまう。


「楽しかったわね……商店街で買ったクッキーの缶をふたりであけることなんて造作もなかったわ。あなたは痩せぎすのくせに、よく食べるんですもの……」


 そう語りながらわたしは、リリィの二の腕に人差し指を当ててみた。華奢であるが騎士様であり、剣の達人でもある彼女。その身は、シャツごしであっても硬い。


「あなたが殿方だったらよかったのに……わたし、あなたの良いお嫁さんになるため、女を磨いていたに違いないわ……」


 と言うわたしは、次にリリィの胸の中央あたりに指先を当てた。そこから下へなぞるようにする。


「わたしの決断……間違ってはいないわよね?ヌードモデルとして裸を晒すことで戦争が終わるのならば……犠牲になる人が、ほんの少しでも減るならば……」


 リリィの身体を往復する指先は、行き先をなかなか決められず、ふらふらと迷い続けた先日までのわたしの心にも似ていた。やらなければならない……すべてを終わらせなければならない……固い思いは脅迫にも似る。だが、わたしが脱がねば、まだ戦争は続くかもしれない。


「私は、マリア様のご決断を尊く思います……」


 リリィが初めて口を開いた。この夜、彼女が発した唯一の声だった……











 ベッドの上で目を覚ましたとき、わたしはひとりだった。まだまだ暗い時間である。ひとすじの光すらさしてこない。


(夢、だったのかしら……?)


 わたしは半身をおこし、かるく頭を振った。だとしたら、幸せな夢だったと思う。


(そうよね、リリィさんが、こんなところへ来るはずないものね……)


 少しだけ、心が落ち着いていた。現実ではなく夢の中であっても、会いたい人に会えたのだ。


 数分ほど、ぼうっとしていると、何もしていないのに天井のシャンデリアが灯った。眩しさに細めた目を置物の時計に向けると、四時前をさしていた。


「ご起床の時間でございます」


 ドアの外から女性の声がした。“登壇”まで、あと三時間と少し……“準備”があるため、この時間に起こされたのである。


「はい」


 と、わたしは返事をした。立ち上がろうとしたそのとき、ベッドに髪の毛が一本、落ちていた。


(これは……?)


 それを指で摘み、よく見てみた。栗色の髪である。わたしのものではない。ならば……


(まさか、夢ではなかったの……?)


 本当にリリィはここにいたのか?夢などではなく、本当に……


(そんなはずないわね……きっと以前、ここに泊まった方のものだわ……)


 わたしは苦笑した。





 〜第六章(10月23日より連載開始)へ続く〜





 

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