5 亀裂


 “ぽきっ……”


 記者の体から嫌な音が鳴った。彼の背中に飛び乗った緑色の影が両腕で首をひねったのである。記者は悲鳴すらあげず、前のめりに倒れた。あっけないものだった。


「リリィ……さん……?」


 わたしは言葉を発した。状況はすぐさま理解できた。緑色の影の正体は、いつもどおり夏の木の葉に似た色のシャツを着たリリィだったのだ。彼女は、この記者を襲ったのである。


「なにを、したのです……?」


 ふるえる声で、わたしは訊いた。リリィは答えず、すぐさま倒れている記者の体を、人目につかぬ茂みの中へと引きずり込んだ。


「なにを、なにをしたの? リリィさん!」


 再度、今度は少し大きな声で訊いた。仰向けにされた記者は口から泡を吹いている。こと切れたのか? 白目を剥いているではないか……!


「この男は、知りすぎました……」


 リリィは言った。彼女の表情は“死体”を目の前にしても、冷静そのものである。


「“知りすぎた”って……?」


「ヌードモデル様の……マリア様のことをです」


「わたしの……?」


「はい」


「だから、手にかけたのですか?」


 その質問に、リリィは答えなかった。


「そんなことのために? そんなことのために人の命を?」


 わたしはリリィの両肩をつかみ、揺さぶった。


「知りすぎたからって、こんなことをするなんて……」


「それだけではありません。この記者は、ヌードモデル様の正体を公表しようとしました。あってはならないことなのです」


 と、答えるリリィに対し憤った。


「自分の手を汚してまで守るような秘密なのですか? 人ひとりを殺めてまで守るような秘密なのですか?」


 わたしは、既に意識もないであろう記者を見て言った。


「この人には、家族があるのです……残された人たちは、これからどうするのですか?」


 それに対するリリィの答えが“亀裂”を決定的なものとした。


「私はマリア様の……ヌードモデル様の騎士なのです。マリア様のお体と秘密を護るための存在……それ以上でも以下でもありません。だから、当然のことをしたまでです」


 彼女の言葉を聞き、わたしは、その場から駆け出した。あとに残されたリリィの表情など、知りようがなかった……











 人間、流そうと思えば、涙などいくらでも流せるものである。家に帰り、ベッドに飛び込んだわたしは、枕に顔をうずめ、泣きに泣いた。体中の水分が、なくなってしまわないことが不思議なくらいに……


(ああ……リリィさんから見たわたしとは、一体なんだったの……? “お友達”だと思っていたのは、わたしだけだったのかしら……?)


 たしかに、彼女にとってわたしは監視の対象にすぎず。そして、職務上のつきあいだったことは否定しない。だが、それでも、“お友達”になれたと思っていたのだ。いっしょにお菓子を食べたり、買い物をしたり。あの日々は、なんだったのかしら……? 思い込みの激しい、わたしの幻想だったとでもいうの……?


 “私は、マリア様の騎士でもあるのです”


 昨年、乱暴されそうになったわたしを助けてくれた彼女の、その言葉。それを都合よく解釈したわたしが愚かだったのだ。さきほど聞いた同じ言葉は友情を否定するものだった。わたしがヌードモデルだから……だから、そばにいてくれたのである。それ以上ではなかったのだ。


(ああ、わたし……わたしは、二度と彼女の前で笑えないのではないか……)


 リリィがわたしの監視役であるかぎり、また会わなければならない。このときは、それが苦痛に感じられそうに思えた。彼女がいるはずだった……楽しい夜になるはずだったクリスマスイヴを、わたしは一晩中泣き明かして過ごすこととなった……











 翌朝早く、わたしは居間にいた。まだ、少し薄暗い時間帯であるが、部屋の中が見えるほどには、外の光が差し込んでいる。クリスマスの飾りつけはされたままで、テーブルの上には、リリィといっしょに食べるはずだったケーキと、彼女に渡すはずだったプレゼントが共に箱の中に入ったままで置かれていた。わたしは椅子に座り、ぼんやりとそのふたつを眺めていた。本来ならば両方とも、昨夜のうちに、ここから消えているはずの物たちだった。


 “はぁ……”


 と、ため息ひとつ。室内は寒い。だから白く立ちのぼる。わたしはカーディガンの前を合わせると、一度、立ち上がり、洗面所へと向かった。


(ひどい顔……)


 洗面所の鏡に映るわたしの目は、泣き明かしたせいで随分と腫れていた。とりあえず冷水で、ばしゃばしゃと顔を洗って再度、見た。わたしの瞳は青いが、その周りは真っ赤に充血している。肌は真っ白いため、みっともないほどに見事なトリコロールが出来上がっていた。まるで、どこかの国の国旗みたいだわ。


 さらに念入りに顔を洗い、少し間を置くと、なんとなく腫れがひき、充血もおさまってきたように思えた。わたしは居間に戻ると、再び着席し、リリィに渡すはずだったプレゼントの箱と向かい合った。中身は白百合のブローチである。


 不思議なもので、ひと晩泣き明かし、顔を洗ったら心が落ち着いた。昨日の出来事を振り返ってみる。ヌードモデルとしてのわたしに取材しようとしたあの記者は、リリィの手にかけられ、そして死んだ。


 わたしは玄関へ向かうと、ドアを開けた。ポストの中に朝刊が入っている。居間で、その朝刊を広げてみたが、昨日の件は、どこにも書かれていない。


(軍が、もみ消したのかしら……?)


 という想像は当然に働いた。ヌードモデルの秘密をあばこうとしたあの記者は知りすぎたため、リリィに殺された。軍部の意向にならったのだとしたら、彼女の行動は、反射的なものであったのかもしれない。だが、人ひとりの命を軽視してはいないか?


 数分ほど……テーブルの上に置かれたプレゼントとケーキを眺めながら、わたしはあれこれと思案した。今後、どうするべきなのか? リリィとのつきあいかたを、どのようにしていくべきなのか? 考えがまとまるまで、さらに数分を必要とした。


(“話”を、しよう……)


 それが結論だった。このとき、あの記者が語ったリリィの過去も考慮の内とした。少女騎士として、諜報員として受けた“訓練”が過酷なものだったことは、わたしにもわかる。その結果、心の何処かが麻痺しているのかもしれない。ならば、命の尊さを彼女に訴えるのだ。リリィを救えるのは、わたしだけ……こんなときに前向きな思考が芽生える自分の脳天気さを心強く思った。











 昼過ぎ。ちょうど今、クリスマスの飾りつけを外し終わったところである。寒風強い日だが、家中の窓を開放し、新鮮な外の空気を取り入れる。こうすると、身も引き締まるものだ。


 リリィと話をする、そう決めたわたし。たとえ軍部の意向であっても、彼女がしたことは、決して許されることではない。少女騎士であり、諜報と隠密をなりわいとする以上、血なまぐさい人生を歩むことは回避できないのだろう。だが、ほんの少しずつでも、リリィの心に近づきたかった。彼女がわたしのことをどう思っているかは知らない。だが、わたしにとっては、かけがえのない“お友達”なのだ。


 “コンコン”


 玄関をノックする音が聞こえた。今日、特に来客の予定はない。誰かしら……?


(まさか、リリィさん……?)


 そう思ったわたしは、まるで弾みのついたゴムまりのように駆け出すと、玄関のドアを開けた。だが、そこにいたのはリリィではなく、眼鏡をかけた長身の女性だった。


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