ep.6-10 狼煙


 議会に使われる部屋の重い扉を開け放ちブレイが肩を怒らせながら朝議の場に乗り込んだ時、そこにはブレイの席すら用意がなかった。


 声もなく、怒りに髪を逆立てる指揮官の気配に耐え切れなかった気の弱い文官がひとり、そっと立ち上がってブレイへと席を譲る。それを乱暴に奪うと、ブレイは荒々しく腰を下ろした。生ぬるい温度の残る椅子に苛々が増す。

 そんな様子のブレイに、議席の上座に座る肥えた大臣――ケインリヒは、唇の端を歪めたいやらしい笑みを浮かべて勝ち誇ったように口を開いた。


「おやおや、子どもはまだ眠っていても良いのですよ」


 慈愛に満ちた表情をつくったつもりなのだろうが、その様は実に醜悪だった。いや、わざとそういう態度を透けさせているのだろう。ブレイはこめかみを引き攣らせながら怒りを耐えてやり過ごすと、強く息を吐きだして言葉を発する。

「召集の件、私は報告を受けていないのだが?」

 怒りを抑えれば自然、低い声になったブレイの問いに、ケインリヒは分かっているとでも言いたげに緩慢に頷く。

「そう険しいお顔をなさいますな。そんなに怒気を孕まれても困りますゆえ」

「ケインリヒ」

「おお、怖い。いったいどうなされたのですか。報告がないなど、そんな……。最近、とみに忙しくされていたようですし、失礼ながら、思い違いでは?」

「っケインリヒ!」


 机に両手の拳を叩きつけて、もはや怒りを隠さずブレイは立ち上がって、ケインリヒを睨みつける。

 剥き出しの敵意が爛々と灯る目に、たじろぎそうになるケインリヒだったが、ゴホンゴホンと咳払いしてその視線から逃げる。

 その所作に、ブレイは燃えるような怒りを煮えたぎらせる。

「よくもそんなふざけた台詞を吐けたものだな、ケインリヒ。僕が議会の日程を違えたことが今までにあったか。ないだろうが。僕がいない間になにを進めたいか知らんが、僕の承認なしには決議は下りんぞ!」

 権力を笠にするような言い方になったことを恥じる余裕がいまのブレイにはない。

 しかし、この言葉を聞いたケインリヒは恐れる風でもなく、いかることもなかった。分厚い瞼に隠れがちな細い目をまん丸に見開いて、同時にゆっくりと口の端が引き延ばされて歯を剥く笑みが浮かぶ。

 その様に冷や汗をかいたのはブレイの方だった。異様なケインリヒの笑みは不気味で、寒気が襲う。ケインリヒは、もしかして己のこの言葉を待っていたのではないか。

 ブレイが二の句を紡ぐ前に、ケインリヒが滑らかに口を開く。べたついた目が、口元がにちゃりと歪む。


「ブレイトリア様。実はわたくし……本日より東極部総指揮官の命を賜ったのです。ええ、勿論――、我らが帝王・ジュリアス王より」


 ケインリヒの言葉にブレイの視界が歪む。机に置いた右手が震えているのが視界に映る。右手の震えは全身に広がり、ガクガクと震える足では自身の体を支えることが難しい。腹の底からは吐き気がせり上がってくる。

 ショックで立つこともままならぬブレイは、よろけて椅子を引き倒す。床に倒れ込んだ音がやけに大きく響いて、辺りの静寂が際立った。


 ――ついに、このような事態が。


 そう思ったのはブレイ本人だけではない。この事態を喜ぶもの、嘆くもの、すべてが一様に権力の遷移の行方を見守っている。

 ケインリヒは蒼白なブレイに向かい、高らかに宣言する。


「我、帝王より与えられし東極部を統べる者として、ここに宣言す! 王軍のセレノ到着、および準備が整い次第、敵国・イズリエンへの――侵攻戦を開始する!」



 ブレイはかくんと膝を折り「ああ」と項垂れる。

 争いの時代を告げる狼煙は、あげられてしまったのだ。

 




 ep.6 end

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