ep.5 Slip off the eccentric stars

ep.5-1 割れたカップ

 空は明るい青にどこまでも均一に染まっている。

 白く薄い雲が途切れ途切れにその青を隠しながら広るその様子は、まるで天上の海。

 雲のうねりがさざめく波のようにも見えるその雲海の上、一羽の鳥が真っ直ぐ西へと翔ける。かもめにしては大きく、鷲と比べれば細い。純白の翼は汚れを知らないかのように眩しく優雅に羽ばたく。

 鳥は迷うことなく一直線に飛んでいた。彼女の目指す先はアーセンの土地、その最東端、城下港街セレノである。



 純アーセン人の貴族が中枢に名を連ねるアーセン人国家「フィッテッツオ帝国」領土内でも、敵国「イズリエン」の地に一番近いセレノは、陽気で気さくな気質の民に漁業の栄える生命力溢れる土地柄だが、その裏で火薬と謀略の張り巡らされた戦場の匂いが混在する街である。

 浜辺に近く、小高い丘陵にそびえる要塞ようさいの雰囲気をまとった堅城は、東極部総指揮官の居城。城の名は『逆さの壷』の意を冠するリヴァント・ペントーラ城という。

 幾度となくアーセンとイズリエンの占有を経験し、破壊と建設を繰り返した結果、どちらの文化も折衷した造りとなった堅城だが、白塗りの壁は変わらず、またそれと同じく白塗りの壁を持つ街並みも変わらず、幾世紀を経てきたのであった。


 鳥はアーセンとイズリエンを隔てる碧海を越え、その対岸に見える堅城の開かれたバルコニーを目指す。

 ――そう、彼女はそこへ着けば、食い扶持に困らないことをよく理解していた。






 落ち着いた深厚の紅で纏められた立派な書斎の、幾年の間に深みを増した上質のアンティークデスクの上、ほんの何日か前の惨状よりはマシになった机上で、城主の少年は猛烈な勢いでなにかを書き込んでいる。


 ペンを走らせては止め、何かを考え込むように口元に手を持っていき、また書き込む。――が、ぐしゃぐしゃとペン先を動かしてそれを掻き消してしまう。まるで頭の中の状態を表すかのように。

 彼の思索を散らせるメモと化した、先のトランジニア事件に関して寄せられた意見書は、日の目を見る間もなく丸められ、苛々をぶつけるように部屋の隅に投げつけられた。

 部屋の隅には同じように丸められた紙が散乱しており、幾分前より同じような行為が繰り返されていることが分かる。


 ブレイは新たに手元の山から、もう何枚目になるか数えることを放棄した糾弾きゅうだんの書状を引き抜くと、また同じように裏を向け、乾き始めたペン先にインクを浸した。


「……まったく」

 ――どうしたものか。


 続く言葉は頭の中で呟いて、ブレイはインク瓶から引き抜いたペン先を見る。ぽたん、と余分な黒いインクが瓶の中に落ちるのを見ながらブレイは頭を悩ませる。

 先日、ソカロとの会話で心が軽くなったことを彼は自覚していた。こうして目の前にある問題と向き合うことができるようになったのは、そのお陰だとも思っている。

 むしろ、ソカロと会話する以前の自分の行動や言葉を考えると、あまりの態度に恥ずかしさを、否、情けなくて自分を消し去りたいまでの欲求に駆られるのであった。

 しかし、向き合う気概が沸いたのはいいが、如何せん問題が問題だった。


 数え切れないほど糾弾の声は毎日ブレイの元へ届けられている。

 トランジニアの被害は甚大で、住を追われ、職を追われ、死を悼む怨嗟えんさの声は無論、国へと向けられた。

 トランジニアでの出来事は帝国による一方的暴力に他ならない。国の守るべき民と国土への一切の容赦のない攻撃に、一時的に混乱していた民も今は徐々に怒りをあらわに動き出す。

 その標的は救援を施すブレイたちであっても例外ではない。彼らもまた帝国側の人間であるのだ。当然、怒りの矛先は彼らにも向けられる。

 それに、とブレイは考える。

 この帝国の行動を擁護ようごしようがないのだ。

 理不尽な仕打ちに詰め寄る民に納得のいく説明などできるものか。――帝国の、王の考えなど想像もつかない民衆達に。


 ――王は国を殺す。


 あの時、炎の中で見た王の眼には虚無しか映っていなかった。

 国を治める王、とは到底思えない言葉と、なんの感情も匂わせない失興の影の眼。

 本当にこのまま王はなんの痛みも感じずに、なんの疑問も迷いも感じず、ただ興が失せるがままになにもかも壊し捨ててしまうのだろうか。


 ブレイは浮かせていたペンを再びインク瓶へ落とす。

 抵抗なく、ペン先はまっ黒な瓶の中に飲み込まれた。


「……」


 国民はそれをまだ知らない。

 意図の分からぬまま、大きな力に押し潰され引き摺られ、そしてその引き摺る重さに王もいずれ殺されるのだ。

 ただ荒廃し疲弊し、怨嗟と悲哀で埋まるだけの。……あとにはなにも残さず。

 ――それがこの国の終焉だ。


 ブレイが暗鬱とした思索にふけっていると、カチャンというカップとソーサのぶつかる音に現実に引き戻される。


「あ、す、すみません…! あの、お、お茶を」

 いつの間にか部屋の中へとティーセットを運んできていたメイドはそう言って、ブレイの邪魔になったのではと慌てて頭を下げた。

 ブレイは構わないといった風に目を遣ると、頬に掛かる長い前髪を掻きあげて大きく伸びをする。

 凝り固まった背筋を伸ばし、首をゆっくり左右に倒して関節をほぐせば、それにつられる様にして萌黄の柔らかな髪が流れた。

 その様子をお盆を持ったまま、ぽけーっと見つめるメイドに気付いたブレイは閉じていた眼を開き、もう一度不審さを滲ませて視線をそのメイドに向けた。

 流れる髪よりも一段濃い色の睫毛に縁取られた、深い藍色と視線がかち合ったメイドは真っ赤になって慌てて俯いてしまう。そのまま視線を上げられないままギクシャクと茶器を置こうと、それ専用の小さな円テーブルへと移動する。

 その様子に多少たじろぎながら、奇怪なものを見るような眼でメイドを見ていたブレイだが、その顔にどこか面影を感じて眉を顰める。

 ――確かに何処かで見た覚えがある。


 ガチャガチャと茶器を鳴らしながら、震える手で茶を淹れようとする緊張で真っ赤になった顔の眉が泣きそうに八の字を作って、ブレイは「あっ」と思い至った。

 あの薄幸そうな顔はヂニェイロ邸で自分達を客間に通し、ソーマの手刀を食らいルミナに身包み引っぺがされた、あの――。

「おい、お前、ヂニェイロの!」

「ひぎゃあっ!」

 ブレイが声を掛ければメイドの口から情けない悲鳴が漏れ、次いで「ガッチャーーーン!」とカップや茶器の倒れる音が連鎖的に続いてブレイは一時閉口するしかなかった。


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