16. 空白
「行ってはダメ! ダメなの!」
「なんで!? 私から離れて!」
鳴り続ける私の携帯。
この電話に出なければ、私はなにもかも分からないままに全てを失ってしまうと直感していたのだった。
だが、美野里は私の足首を掴んで引っ張り続ける。その握力に衰えを感じない。それどころか、徐々に強くなっている。
私は決心した。
自分の血をみることさえ震え上がるほどなのに。
他人に手を上げたことなんて一度もないのに。
歯を食いしばって、私は、自由の利くほうの足を振りかぶるように上げた。
「ぐふっ!」美野里は私のかかとが脳天に突き刺さると鈍い声を発していた。
ハッとした。
思わず、ごめん、と小さく口にした。
だが。
美野里はなおも私の足首を放さない。
眉間の縦皺が寄った美野里の表情はまさに命がけに近い。
そこで携帯音が止まった。
止まってしまった。
それでも美野里は放さない。
その時、私の胸の奥に小さな火が灯り、すぐに大きな炎と化したのだった。
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矢島は、女の得体や動向がはっきりと分からないでいた。
下手に動かないことにしている。
マフラーをそっと掴んだ。
ハンガーポールは先ほど一瞬だけ目にした。
ステンレス製で高さは160cmほどある。
マフラーの他に何が入っているのか分からない、金魚の腹のように膨らんだバックが吊り下げてあった。
(それほど重みはないが、勢いづければ)彼はそう思った。
「ギ、ギ、ギ」白目の女は髪を揺らして笑う。
女の嬌声とはほど遠い、おぞましい濁声。この世の生き物とは思えない。
女の指先が矢島の首に届く。
いまだ! 矢島は心の中でそう叫んだ。
彼は手に取ったマフラーを肩越しに引っ張り、勢いよく倒れたハンガーポールを素早く避けた。
「ギャ!」不意を突かれた女の上に、矢島の背後から倒れたハンガーポールがのし掛かる。
矢島は素早く、鳴り続けている携帯電話を手に取った。
ディスプレイには『非通知』の表示。
「も、もしもし!」電話口に叫んだ。
だが彼は、ツー、ツー、ツー、と通信の途絶えた音を耳にして肩を落とした。
「遅かった、か・・・・・・」
ギリッ
ギリッ
ギリッ
ギリリリリリリリッッ!......
その音に矢島は反応した。
クククククッ!
気味悪く笑う女の右手にはカッターナイフ。
異常に出し切った刃が蛍光灯に照らされて鈍く光っている。
白目の女の両眼がこの凶器に乗り移ってしまったかのように、女のカッターナイフは矢島を睨み続けている。
獲物を狙った刃の先はぴくりとも動かない。
女の背後では、ハンガーポールが空しく寝そべっていた。
「くっそ!」矢島が悪態をついたその瞬間。
彼の喉元に刃の先が飛び込んだ。
*************************************
どうしてくれるのよ!
アンタのせいで大事な電話が切れちゃったじゃない!
私はそう叫んだ、そして、美野里の額、鼻っぱし、こめかみ、耳、顎を何度蹴りまくったか、もう、憶えがない。
相手はついに力尽きた。
縄をほどくように、しどろもどろになって美野里の手から逃れた。
私は床を蹴った。ベッドのある奥部屋のドアを勢いよく開ける。
驚きを通り越して固まってしまった。
ウソ・・・・・・・・・・・・
これって。
清佳が・・・・・・
バス停の彼と・・・・・・
「私の部屋にどうやって入ったの?」
私は肩までシーツを上げた清佳に聞いた。
清佳は顔を赤くして言い放った。「マサシにかかれば鍵なんてお手の物やし」
「マサシは清佳の彼氏じゃないの?」
先に告白したのは清佳だったはず。
「アイツはボディガードになるし」笑ってそう言った。
バス停の彼は、なんだよお前、というような目つきで裸の上半身をみせている。
そう。二人は横に寝そべったまま。
「私のこと、知ってるよね?」恐る恐る初恋の彼に聞く。
「ああ、毎朝会うよな」ぶっきらぼうにそう応えて起き上がり、
「俺、帰る」と、一言つぶやき制服を着始めた。何故かすぐに羽織れるように彼の衣服や清佳の衣服はハンガーポールに掛かっている。
代わりに、掛かっていたはずのグレーのマフラーが床に捨てられていた。
・・・・・・捨てられていた。
私は呆然とした。
頭のなかが真っ白だ。
気づくと、知らない間に私は携帯電話を手にしていた。ピンクの亀がぶら下がっている。
清佳はにやけ顔で口を開いた。
「最近ホテル代がもったいなくてさあ、マサシのバカも仕事辞めて小遣いも滞っちゃうし」
清佳がマサシに貢がせていた? ・・・・・・ショックの反動なのか私の頭の回転は速くなり、いきなり饒舌になった。
「そっか。私の居場所や状況を知るために何度も私の携帯に電話したんだ、だよね、塾の時間帯は私は電話出られないから、電話に出られない間は安心して勝手に私の部屋でヤレるからね」
「そ。ある程度コールが続くと切れるから何度も電話するのが超メンドウだったけど」悪びれずに清佳は言う。
「じゃ」彼は乾いた声を残して足早に出て行った。
落ちていたマフラー。彼が踏んだ瞬間が目に焼き付いた。
初恋の彼。
トシカズ。
捨てられたマフラー。
私は、カッターナイフを手にしていた。
刃を伸ばし、清佳に詰め寄る。
清佳は目を剥いて首を左右に振った。
「マ、マジで!? 何でこんなことで! 私ら、友達ジャン!」
叫ぶ清佳の右手には携帯電話。
彼女のストラップもピンクの亀だった。
そうだ。私達はトモダチ同士。
私は、一体何してるの?
なにを
なにを
なにを......?
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
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