15. 核心

「ク・・・・・・ククククク」

玄関通路とワンルームとを分け隔てた、開いたドアの向こう側。

女がカラダを左に傾けた状態で絞り出すような笑い声を上げている。

だらんと垂らせた左腕。何時完全に止まるのか分からない振り子のように、左右に小さく揺れている。

「何が可笑しい?」

矢島の真の相手は辺見真理ではない。

女の顔も左に傾き、口の端からヨダレが滴って糸を引いていた。

その口が開く。

「ワ・・・・・・ワタシハ・・・・・・セカイ・・・・・・ヲ、ヲ、ヲ」

途切れ途切れに声を発する女。

彼は凝視した。

女の異常に見開いた両目。

左右の瞳がゆっくりと上に移動し白目に変わった。

矢島の足許には別の死体。

腹が横に引き裂かれ内臓が飛び出ている。

まるで光を求めた大きなミミズが土から湧いて出てきたかのよう。

髪が赤みがかった彼の容貌は苦悶に満ちていた。

両手両足を縛られて、女からよほど恐怖を覚えたのだろう、表情がこれ以上ないほど限界にまで歪んでいた。

矢島は女の中に辺見真理の気をまったく感じていない。

別の邪悪な欲望だけを感じ取っていた。

女はなにを考えているのか。それだけを念じたのだった。

読み取って分かったこと。

女は、さらなるチカラを身につけるために憎しみを増大させている。

女の選んだ、入り込みやすい辺見真理。

彼女を使って、まず女が憎む相手-初恋の男-を殺した。

そして、邪魔になった男、マサシまで。

マサシは玄関に座り込んでこの世との別れを悔やみつつ亡くなった。

全てはこの女がやったこと。

矢島は女の次の行動に警戒しながら、チラとベッド脇をみた。

血のついたカッターナイフが落ちている。

もう一つ目についたのは携帯電話。

ピンク色のストラップがついている。

亀? 目を細めてみるとそうみえた。

刹那、その携帯からピアノのメロディが鳴り響く。

「ア・・・・・・?」

女の左腕が矢島に向かって伸びた。

同時に右足を引きずるようにゆっくりと歩を進める。

動きが緩慢だ。

それは、女が辺見真理のカラダを自由に操れていない証拠。

わずかに1歩1歩踏み出すごとに、ア、ア、アと喉から擦れるような声を発している。

携帯は止むことなく鳴り続けていた。




***********************************




痛みが徐々に薄れてきた。

同時に、室内が妙に寒く感じる。

人の温もりが急に消えて無機質なモノだけが残ったように思えた。

やはり今はぼんやりと映る視界には、コンクリートの壁やステンレスの流し台しかない。

ただ、ピアノのメロディは鳴り続けている。

「え? マサシ? 先生?」

目を擦った。視界が戻る。

玄関のドアは閉められ、マサシも矢島もいない。

美野里。

彼女も私のなかにいない。何故だかそれが分かる。

ただ、カラダが酷いくらい重い。

床に這いつくばる状態でベッドの部屋に向かう。

突然、足首に違和感を感じた。

美野里。

私は悲鳴を上げた。

彼女が、私を行かせまいと痩せ細った左手で私の足首を掴んでいた。

とても生きているとは思えない、美野里のカラダ。

長い髪は水気が抜けて糸くずの塊のよう。ばさばさに広がっていた。

頬は痩け、目は落ち窪み、まるでゾンビ。

だが彼女の双眸だけは地の底から噴き出たマグマのように赤い。

美野里は、覗いた黄色に濁ったの前歯をみせて口を開く。

「行かないで、アナタのためにも」

意外にまともな口調に私は逆上した。

「なんで!? これ以上私を苦しめないで!」

放して! 私はそう叫んで美野里の左手を外しにかかる。

美野里も抵抗するかのように、はあはあと息を荒くして右手で私の手を振り払う。

「苦しいのは私のほう。だけど、アナタが行けばアナタも苦しむことになる」

美野里は息も絶え絶えにそう言った。

「一体どういうこと! マサシは!? 先生は!?」

その問いに答えはなかった。

そして私の中に が浮かぶ。

「あの人は・・・・・・あの人はどうなった・・・・・・の・・・・・・」

聞くことが怖かったことが不意に口に出てしまった。

その問いにも美野里は反応しない。

確かに、私でない、美野里が殺してしまったはず。

でも、目が覚めればそれが夢なのかなんなのか分からない状態。

真っ赤な血が生々しかった。

見比べたストラップの亀のピンク色が鮮明に脳裏に焼き付いている。

ピアノのメロディは鳴り止まないが、私は焦った。

いま出なきゃ。早く行かなきゃ。




************************************




矢島は携帯に出るか迷った。

女は矢島まであと2歩分まで迫っている。

マサシと呼ばれた、男。

ベッドで死んでいる、この男。

辺見真理のカラダをうまくコントロール出来なくなっても、彼女のカラダで男二人を殺めているのは事実。

少しでも隙をみせれば、一瞬のうちにやられそうだと矢島は思った。

「ナ・・・・・・ナッテ・・・・・・ル・・・・・・ヨ・・・・・・」

女の途切れ口調からしてそんな心配はないか。

だが、女の白目は矢島にむいたまま。

左指が矢島の鼻先に徐々に近くなる。

「デ・・・・・・デ・・・・・・・ン、ワ・・・・・・デ、ナ、ヨ」

にいぃ、と女の口角が上がる。

矢島は後ずさった。

ハンガーポールにかけられたグレーのマフラーが彼の頬を触る。

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