10. 明暗
ベッドがあり、勉強机があり、本棚があり、テレビがあり。
冷蔵庫があり。風呂あり。トイレあり。
乳白色のカーテン越しに、夜道を照らす街灯の光が10畳の1ルーム部屋にぼうっと入る。
いつもの光景。
私の部屋。賃貸マンション。
高校生にしてはじつに贅沢な暮らしをさせてもらっている。
生まれてすぐに両親を事故で亡くしている私は、中学まで父方の祖父母に育てられた。
だけど私が高校生になったばかりの頃、祖母が病気で亡くなり、祖父もかなりの老齢で私を養っていくことが難しくなってきた。
かといって、私の世話を親戚らにバトンタッチをすることが出来ない。伯父達にも子供が居る。
なにより、いまになって私が誰かの養子になるなんて、私自身が嫌だった。他人の家に世話になり、周囲に気を遣って毎日を過ごすなんて耐えられない。
祖父の家は代々の資産持ち。私はその恩恵を受けたのだった。
料理や洗濯、掃除など家事の手伝いを小さな頃からしてきた。なので一人で暮らしていける自信はあった。それに、家賃や光熱費は祖父方が払ってくれる。
そんな祖父に対して恩返しがしたかった。希望する大学に合格して祖父を喜ばせたい。
清佳のような実の親に見放された境遇を考えれば、祖父母に愛されて育った私は恵まれていたはず。
なのに…………。
部屋の鍵を締めて靴を脱ぎ、木目に施された床にあがる。
刹那、体中の筋肉という筋肉が一斉に重力に負けたかのような、もっと言えば、心身ともども、地の底からの引力に完全に屈したかのような。
私は一瞬、意識を失い倒れ込んでしまったのだった。
ただ呼吸するだけの固体と化してしまった。
そのまま何分経ったろう。何も考えることが出来ない。いや考えることが怖い。
私を避ける人達。
どうしてみんな、私を避けるの? 私が怖いの?
昨夜の悪夢。
そして携帯の画像の中で鬼気迫る、女。
怖くて怖くて怯えているのは私の方なのに。
いまになって一人暮らしを後悔する。
携帯電話が鳴った。
ピアノのメロディ音が部屋中に響き渡る。鞄の中で光り輝く携帯電話は、部屋の明かりもつけていないことを私に気づかせた。
次にインターフォンが鳴った。
突然の来客の知らせに私は驚いた。
それから何度も鳴るインターフォンに目が見開き、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
誰? マサシ?
キッチン横に設置されたモニターに向かおうと息を殺して立ち上がる。
マサシじゃなければ留守を装うつもりだった。
いま私が話せる相手はマサシしかいない。他に誰も私の事を信じてくれそうな人はいない。
鳴り止まないインターフォン。
よろめく足取りで流し台に手をついて、モニターの鼻先にまでたどり着く。
次にドアを激しく叩く音が何度も鳴った。
私からの返事がないから、ついに相手は苛ついたのかも。
誰なのよ……やめて。
壊れていく日常にこれ以上耐えられなくなっているのに。
先ほどまでの生易しい呼び出し音とはまるで真逆の雷のような轟音。
その影響でドアが揺れた。さらにその振動で、部屋中の全ての物が恐怖に怯えているかのように小刻みに震えている。
もうやめて!
思わず叫びそうになるのを堪えた。
ここはなんとかやり過ごしたい。
震える指先で点滅するボタンを押そうとした時。
「辺見! 辺見! お前、部屋にいるんだろ!?」
どこか焦りも含んだマサシの怒鳴り声だった。
ほおー、と溜息をつく。よかった。
部屋の明かりをつけて、ガチャリと鍵を開けるとすかさずドアノブがまわった。
「マ……」相手の名前を発しようとした瞬間。
視界がバチリと光った。
私は腰を捻って再び床に倒れ込んでしまった。
「な、なに?」
不意に声が出したと同時に頬に痛みを感じた。じんじんと熱くなってきている。
見上げると、私の真上でマサシが両手を震わせて仁王立ちしていた。手だけじゃない、歯を食いしばった顔全体も震えている。
明らかに彼は怒っていた。私は彼に平手打ちをされたのだとようやく理解した。
「辺見、俺はお前のこと、絶対に許さねえ」
耳を疑った。
「なに、なんのこと?」
「いまになってシラをきるつもりか、ええ?」
マサシはそう言って、私の腹に蹴りを入れた。
「ぐ、ぐふっ」肋骨の下に彼の足先がもろに入る。胃液が込み上げてきた。
「てめーが清佳を殺したんだってなあ!」
「え? あ?」
言葉にならない。
また蹴りが入った。2回、3回。
お昼に食べたものはすでに消化しきっている。酸っぱい胃液が鼻腔をツーンとふさぐ。
喉が痛くなり咳が出る。吐いた唾に痰も混じる。さらに息苦しくなり頭に血がたまる。
髪を引っ掴まれた。ブチブチと何本もの髪が抜けるのを涙がでるほどの激痛で感じる。
マサシの顔が、うーうー唸るだけの私と数ミリ先で対面した。
男の真っ赤な目。まるで獲物に牙を剥いた野獣だ。
「なんで殺したんだ!? ああ!?」
耳元に怒鳴り、私の顔面をフローリングの壁に叩きつけた。白いタイル状の模様に血がべっとりと付着した。
ああ……私の血だ。
痛みすら感じなくなる。倒れる寸前、お腹のど真ん中にマサシの拳が突き刺さった。
「ぐげっ!」カエルの死に際の鳴き声なんて聞いたことがないけど、そんなことが頭に浮かんだ。「も、もう、や、め」
自分の血で狭められた視界の中に、近づいてくるものがあった。
靴の裏。ブーツ。しかも、かかとの部分だった。
マサシの履いたブーツで間違いない。彼は真夏でもバカみたいにブーツにスカジャン姿だ。
バカみたい。猿顔のマサシ。
なんで私が犯人なの?
なんで私がアンタの恋人を殺さなきゃならないの?
微笑しながらそう言いたかった。軽い冗談だと流したかった。
だけどその硬質な部分が私のこめかみに直撃した。
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