第41話 一手の重み

(どういう、つもりかしら)


 沙也加は訝しげに思う。夏実が先手だが、打つべき一手目を先ほどからじっと考えている。


 前回の大差での負けを気に病んで、囲碁を打つこと自体を恐れているのだろうか。さっきからへらへらと笑っていて、そんなタイプにも見えなかったが、思った以上に繊細なのかもしれない。


 隣では通常通りに対局が進んでいるが、なかなか始まらないために、妙な空気が流れている。


 立ち会いの教師の他に、囲碁専攻の生徒たちも観戦に来ている。みんなが夏実の様子を気にしている。


 私は、負けるわけにはいかない。ここに並んでいる人たち全てを蹴落としてでも、勝ち上がってプロになる。


 目の前の相手に敵意を向ける。


 夏実が一手目を打つ。置かれた場所は碁盤の中央、天元だった。


 静かに観戦しているようにと注意されているはずの、周りの人もこの一手にざわつく。この準決勝の場面において、普通では滅多に打たれない、思い切った一手を選んだその度胸に驚いていた。


 夏実が打ったその手に、どんな意図があるのだろうかと、沙也加は勘ぐる。


 前回の対局で実力の差が明白になった以上、普通にやっていたのでは勝ち目がないと判断したのだろう。けれども、予め天元に打つと決めて、序盤の展開を研究してきたのなら、最初の一手に時間をかけすぎている。


 いざ打つ場面になって覚悟が鈍って打てずにいたのか、それともそんな研究などしておらず、その場の考えでやぶれかぶれに無策で突っ込んできたのか。いずれにしても恐れることはない。


 動揺して変なミスをしなければ、確実に勝てる対局だ。堅実に戦えばいい。


 沙也加は相手の初手を気にせず、右上スミの星へと打つ。定石通りの手堅い進行。自分の方が格上であると、確信をしているがゆえの迷いのない一手。


 また同じことを繰り返してみせる。何度挑まれようが、相手を寄せ付けはしない。絶対的な格差を思い知らせよう、と沙也加は思う。





 初手をどうするかは決めていなかった。相手と自分と、場の空気を見れば手が自ら出てくると夏実は思った。


 けれども、いざ碁盤の前に向かうと、どこに打ったとしても相手に勝てる道筋が見えなかった。一度打ってしまえば取り返しがつかなくなる。そのことが、夏実の手を動かなくさせた。


 最初の一手を考えるのがこんなに苦しいのは、初めてだった。


 まるで負けるために打ち始めるような、そんな気さえする。戦う前から気持ちで負けているようでは、話にもならない、と麗奈に言われたことを思い出す。


 とにかく打ち始めなければいけない、そう思って碁笥から石を掴もうとする。指先が震えているのが分かる。対局時計を見て、自分の持ち時間がどんどんと減っていくのが気持ちを焦らせる。


 これ以上時間を無為に使ってしまえば、必ず勝てなくなる。


 自分の感覚はどうあれ、無難な打ち慣れた手を打ってしまえ。そんな声が甘い誘惑として、夏実に誘いをかける。


 誘惑に乗って、無難な手を打ってしまいたい気持ちを、必死にこらえる。何も考えずに、ただ周りが打っているからと流されていくのは、間違った道だ。それは楽なのかもしれないけれど、苦しくても自分の頭で身体で、考えて感じて打っていかなければいけないと思う。


 たぶん苦しさの中にこそ、今の自分が進むべき道がある。そう思うと、さすべき手が見えた。


 天元。それは、今まで打った中で最も苦しかった対局の、その始まりの一手。思い出の、おじいちゃんがあたしに持たせてくれた荷物の中からそれを取り出す。


 辛い思い出だとしても、見ないふりをして、忘れてしまい、それまでの楽しかった思い出も含めて、全部なかったことになんてしたくない。


 痛みと共に進んでいく、その覚悟をのせて最初の石を置く。


 沙也加先輩も、こちらが打った手に驚いたようだが、自分のペースを崩さない。声を届けるのは難しい。特に先輩のような相手だとなおさらだ。


 一手では足りない。それなら、もっと相手に向かって踏み込む。


 二手目を5の四に置く。星と比べても、碁盤の隅からだいぶ離れた一手。


 この手に、またしても周囲がざわつく。ただでさえ変わった始まりだったのに、続く二手目も定石外れの型破りなものだった。


 沙也加も続けざまに打たれる手に、苦い顔をする。


 対局は互いに体験したことのない、未知の領域へと入っていった。

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