第34話 沙也加の自問自答
一人、部屋で夕食を食べる。母親は今日も帰ってこない。沙也加は、買ってきたパンを機械的に口に放り込む。
あと幾日をこの部屋で過ごさなければいけないのだろうか。前に進むために必要な時間に、気が遠くなる。今の自分にあるものと、ないものを数え上げて、どれだけのものを持っていないかに気づいて嫌になる。
幸せな家族、恵まれた環境、仲の良い友達。望んでも自らの力だけではどうにもならず、ただ遠くから眺めるだけのものだった。
私が望んで、手にすることができたのは囲碁だけだった。だからこそ周りに負けたくない、脅かされたくないという切迫した思いがあった。
いつしか思いは祈るような信仰心へと変貌していたのかもしれない。
自分でもうすうす間違っていることには気づいていたが、認めたくはなかった。それを正面からあの少女、夏実に否定される。私のやっていることは囲碁じゃない、ただの自己保身のための手段だと。
周囲のせいにして、自分が囲碁以外にやるべきことをしてこなかったことを責められているみたいで、辛かった。真っ直ぐに、何の屈託もなく幸せを手に入れて、道を歩いてきたような相手に言われることが耐えられなかった。
生まれ落ちた時から、与えられたカードには大きな差がある。そうした不公平さをいくら嘆いたところで現実は変わらない。
他人にとやかく言われてもだからどうした、と告げる。自分が正しかろうが間違っていようが、そんなのは関係ない。強ければ手段は正当化される。成功さえすれば、それまでの過程はどうあれ、間違いなく一人前のプロ棋士になれる。
負けられない、負けてたまるかと覚悟を新たにする。
食事を終えた沙也加は、テスト勉強のために広げていた教科書とノートを冷たく見下す。テストに向けて勉強した、授業料を免除してもらうためにも、成績を落とすわけにはいかず勉強を頑張ってはいるが、好きではなかった。
勉強をする意義とは進学のため、ないしは未知なる可能性へと手を伸ばすための手段だ。けれども囲碁しか選べる道が残されていない自分のような人間には不要なものだ、と常々感じている。
(どうして、私なの?)
あの時、相手に問うた言葉が頭の中に繰り返される。それは自分の抗うことの出来ない不幸な運命に向けて、何度も自問した問いだった。けれども、何度繰り返しても納得のいく答えは出ない。
理由なんかきっとないのだろう。運、不運は意味もなく人に訪れる。
神はサイコロ遊びをしない、と言ったのはアインシュタインだっただろうか。後の量子力学の発達により、その発言は否定された。神はサイコロを振るのだと。サイコロの出た目が一であるか二であるかに、何の意味もない。
そう分かった後でも、しかし人はその意味のなさに耐えられずに合理性を見いだしたがる。自分の苦しみには意味があるのだとすがるように思い込みたがる。そこに意味さえあれば、意外なほどに人は耐えられる。無意味でないということは、人が孤独ではないということに繋がる。
意味というものは、自分と何かの関係性の中に生じる。例えば鉛筆は誰かによって書くことに使われることで、筆記用具としての意味を見出す。
人が無意味であることを恐れるのは、自分が本当は他者と分かり合えず、孤独であるのだというその事実を恐れるからに他ならない。
もやもやとした思考に耐えられず、沙也加は街へと繰り出す。
自宅を離れ、夜の街へ繰り出す時はいつも不安だ。何処へ行けばよいのか分からないし、子供が独りで出歩いているのを見つかれば補導されて面倒なことになる。
自然と人目を避けるような動きになる。
二十四時間営業をしているファミレスの明かりが目に入る。成長してよかったと思うことの一つに、こうしたお店に夜遅くまで独りでいても咎められづらくなったことだ。客と店員、客と客同士の関係の距離感は適度な相互無関心で、居心地がよい。
今夜はここで過ごそうか、そう思って近づいていくと店の中から出てきた家族連れに声をかけられる。
「沙也加ちゃんじゃないか、どうしたんだいこんな時間に?」
声をかけてきたのは、普段通っている碁会所の席亭だった。奥さんと息子夫婦、それと孫だろうか、まだ小さい女の子と手を繋いでファミレスから出てきた。
沙也加は挨拶をする。
「いえ、ちょっと忘れていたものがあったので買い物に……」咄嗟に適当な嘘をつく。普段お世話になっている人に、心配をかけたくなかった。
「最近は物騒だから気をつけるんだよ」
沙也加は去っていく、幸せな家族像そのままの姿を眺める。他人を羨んだところで何かが手に入るわけでもないのに、やりきれない思いだけが残る。
ああいう眩しい世界に憧れていたのだと、気づいた。
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