第22話 夏実の記憶、祖父との思い出
囲碁のルールを覚え始め、囲碁が打てるようになった頃、おじいちゃんにふと尋ねたことがある。
「ねえ、テレビにでているプロの人たちとおじいちゃんって、どっちが強いの?」
夏実の素朴な疑問だった。おじいちゃんは家で囲碁をするだけじゃなく、たまには街に出たりして碁会所で囲碁を打ったりしていたが、とても強くてみんながおじいちゃんに囲碁を教えて欲しいと頼みに来るのを見ていた。
夏実にとっても、おじいちゃんは誇りでありささやかな自慢だった。だからきっと、一番であって欲しかったのだと思う。
「そうだなあ、どっちが強いんだろうなあ」おじいちゃんの言葉には、どこか悲しい響きが混じっていたのを夏実は感じた。
「きっとおじいちゃんの方が強いよ!」夏実は励ますように主張する。その言葉に、おじいちゃんが嬉しそうに笑う。
「おじいちゃんはな、プロにはなれなかったんだよ」夏実の頭を優しくなでながら、自分にも言い聞かせるようにしみじみと語る。
「昔、日本で大きな戦争があったのを知ってるか?」
おじいちゃんの問いかけに、夏実はうん、と答える。毎年夏になるとテレビでその話をしているのを見たことがあったし、学校でも習ったと夏実は答える。
「プロを目指して修行をしていた時期に、戦争が起こってな。とても囲碁どころじゃなくなったんだよ」
おじいちゃんが語ってくれた自分の半生は、夏実にとって意外なものだった。お年寄りというのは夏実が生まれてからずっと、変わらない姿でそこにいるものだと思っていたが、おじいちゃんにも若い頃があり、色んな経験をしてきたのだと、本人の口から聞くことで、自分のルーツに触れたような気がする。
「一緒に修行していた兄弟子さんたちや、プロになって活躍していた人たちまでが戦争に出て行った」
おじいちゃんが語る戦争は、個人の夢ややりたいことを奪っていき、国のために強制的に駆り出される、今からは考えられないような話だった。
そう思えるのは今から過去を振り返っているからで、当時はそうするのが当たり前で、みんな従っていった、と説明される。
夏実は話を聞きながら、テレビや教科書に載っている戦争は、歴史として記された遠い昔の出来事のように思っていたが、こうやって話を聞くと今の自分と繋がっていると実感できた。
「戦争が終わった後も生きることに必死で、そのうちにお前のお父さんが産まれて、気がつけばこんな爺さんになっていたんだ」
おじいちゃんが自分の半生を語るのは不思議な感覚だった。長い時の中で、時間のバトンがおじいちゃんのさらにずっと前から、受け渡され、それがお父さん、そして自分へと巡ってきた。
自分が受け渡されたバトンを、いつかは自分のこうして子供に語るときがくるのだろうか。想像してみようとしたが、全然実感が湧かなかった。
「おじいちゃんはそのことが悲しい?」夏実が心配して尋ねる。
「どうだろうな、選択を出来るほど恵まれた状況じゃなかったし、こうして実家に戻ってなければ夏実だって産まれてこなかったかもしれない」
物事の歯車が何か一つずれていれば、自分はここにいなかったかもしれない、そうした可能性は、自分が今ここにいるということに対して、神秘的なものを感じる。
「それでも、自分がやりたかったことを出来なかったことを、できないなんて可哀想だよ! おじいちゃんは誰よりも強いのに……」夏実は思わず泣きだす。世の中にはどれだけ抗っても、覆すことの出来ない運命というものが存在する。その残酷さに、理不尽さに悔しさが溢れ出した。
「でも、囲碁は続けられた」おじいちゃんが泣いている夏実をあやすようにして、にっこりと笑う。
「こうして平和になって、孫が自分の出来なかったことを思う存分にやっている。嬉しいことだよ。戦争さえなければ、と思ったことがないわけじゃないが、悲しくはないさ。おじいちゃんはちっとも可哀想なんかじゃないよ」色々あったであろう過去を思い返しながら、おじいちゃんは答える。
夏実は満足そうなその姿を見て、悲しさが薄らいでいく。
人生は様々な分岐をたどっていく。おじいちゃんが見れなかったプロの世界からの景色を、もし共に見ることが出来たら、と夢想する。
自分の隣にいるのは、若くて希望にあふれた少年の瞳。若い頃のおじいちゃんはこうだったんだろうな、と思わせる利発で真面目そうな顔をしていた。
見える景色はとても華やかで、沢山の人が集まっておじいちゃんの囲碁を楽しそうに見守っていた。
「あたしがおじいちゃんの代わりにプロになる!」夏実は自然と、そう宣言していた。おじいちゃんのためだけじゃない、自分がその景色を見てみたいと焦がれていた。
子供特有の無邪気さにあふれた口ぶりに、おじいちゃんは感心したように反応しながら、笑顔を絶やさない。
「本気だからね、おじいちゃんもっと囲碁を教えて!」
後に、あたしはそんな宣言をするんじゃなかったと、何度も悔やむことになる。
おじいちゃんが家族のために、運命のために押し殺した思いがどれほど重いものだったのかを、当時のあたしが気づけるはずもなく。
おじいちゃんが見ていた景色は、幼いあたしが描いていた甘い世界とはまるで別の物だった。
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