第21話 沙也加との接近遭遇
対局室に碁石を並べる音だけが響く。黒瀬沙也加が一人で机に向かい、棋譜を並べていた。
棋譜とは、囲碁の対局で石が打たれた順番を全部記した図で、それを見れば一つの試合の全てを再現することができる。
図を見ながら、自分で黒番と白番、その両方の手順を一つずつ実際に碁盤と碁石を使いながら一人で並べていく。棋譜を並べることによって、正しい手順が自然と身体に入ってくるような気がする。
沙也加が並べていたのは先日行われたプロのタイトル戦の一つ、本因坊戦の対局だった。本因坊とは江戸時代にプロとして囲碁を打っていた家系の名前で、一般からプロの棋士が生まれるようになった時、本因坊の名は棋界で一番強い者が名乗るべきものである、という思いから、本因坊の名をかけて対局が行われるようになった。
そんなタイトル戦の棋譜を見ながら、手順一つ一つの意味を考え、身体に覚え込ませるように丁寧に碁石を置いていく。
プロがどんな考えをしながらこの手を打ったのか、それを推理するのも楽しいと沙也加は思う。
自分だったらどう打つか、予想し比較検討し、プロの手の凄さに嘆声する。思考をトレースすれば、ここでどちらに打つか迷っただろうなとか、ここで焦ってしまったのだろうな、とか図から心の声が聞こえてくるようだ。
今日は調子が良い。笑顔を浮かべながら次々と進めていく。
対局室の扉が開き、沙也加に大きな声がかけられる。
「ああ、沙也加先輩だー! お疲れさまでーす!」
沙也加が声をかけられた方を向く。確かこの前転入してきたばかりの天涯夏実とかいう一年生だと思った。ちらりと一別して、構わないことにした。
が、その一年生はまっすぐにこちらに向かってくる。
「ねえねえ沙也加先輩、今ヒマですか?」こちらの態度に物怖じをせず、ぐいぐいと話しかけてくる。
どうにも調子が崩れた、沙也加はそう思う。普段の碁会所に毎日通うのも気が引けるので、対局室もたまに利用したりはするのだが、こういった手合いに関わるのはどうにも苦手だった。
「今、棋譜並べで忙しいから」拒否のニュアンスを言外に込めながら、沙也加はぼそりとつぶやく。
「そうですか……」夏実はしょんぼりとうなだれるも、沙也加の側に立って様子を伺い続けている。こうして注目されているとやり辛い、と沙也加は苛立つ。
雑誌を閉じ、並べた碁石を片づけ始めると夏実の顔に期待が広がる。が、そのまま碁盤を片づけ始めようとしたところで腕をつかまれて止められる。
「ちょっと待ってください! ここは付き合ってくれるところじゃないんですか?」夏実が必死に訴えてくる。
「はあ?」呆れが思わず口をついて出る。この一年生は何を言っているのだろう。こっちは態度でも言葉でも断っているというのに。
「離して、誰も相手をするとは言ってません」
「やーだー、打とうよ、打とうよー!」まるで子供のような駄々のこねっぷりに、どうしたものかと沙也加は途方に暮れる。
「ああ、夏実ちゃん、また騒いでる……」もう一人が対局室に入ってくる。その顔は何度か見たことがあった。
最近では夏実と一緒に行動していることが多い、こっちも一年の住谷優子とかいう名前だった気がする。
「ほら、先輩が困ってるでしょ」慣れた様子で、沙也加にしがみついている夏実を説得し始める。
「だってぇ……」たしなめられながらも、まだ納得できない様子の夏実をあやして、腕から引き剥がしてくれる。沙也加はほっとした。
「先輩、すいませんでした」
あれだけ騒いだわりには、一転してしょんぼりしながら謝ってくる。その様子が何だか面白くて、思わず気づかれない程度に口の端が上がる。
「次からは気をつけてね」沙也加はそう言い残して対局室出ていく。
まったく、どれだけ子供なのだろうか。周囲と壁を作って、話しかけてくる人もいなくなり、気が楽になっていたというのに突然に騒々しいのが現れた。
こんな気持ちになるのは久しぶりだな、と思う。自分がこうしてかき乱されることを望んでいたとは思わないが、たまにであれば悪くないと感じた。
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