第20話 夏実、学んでみる

 夏実は苦悶して、一歩も前に進み出せずにいた。目の前に積み重なっているのは、宿題、宿題、宿題の山であった。


 夕食を食べ終えた後、学習時間より早めに学習室へと入る。すでに勉強熱心な人たちが机に向かっていた。


「多すぎるよぉ・・・・・・」弱音を漏らす。元々、勉強よりも外で遊び回ったり、ゲームをしたりして過ごすことが多かったせいか、これほどまでに勉強漬けの日々というのは初めてだった。


「夏実ちゃん、大丈夫?」優子が、机に倒れ伏す夏実の様子を見て心配する。


「もうダメ、教科書を開いただけで眠くなってくる」


「あはは、気持ちは分かるけれど一度習慣になっってしまえば続けることは難しくないから、大変なのは最初だけだよ」優子はこともなげに言う。


「優子ちゃんは勉強が出来るからそう言えるんだよ。いいもん、私は囲碁のプロになるんだから囲碁だけやっていれば」駄々をこねる夏実に向かって、優子が諭すように話しかける。


「夏実ちゃんは囲碁のプロになるのって、本当に囲碁が強いだけでいいと思うの?」


 優子の問いかけに、夏実は不思議がる。


「だって、プロ試験で勝ち上がるには勝ち続けないといけないし・・・・・・」夏実が不安そうに確認する。


「うん、確かに勝たないと、強くないとプロにはなれないけど、そもそも囲碁のプロって何でお金をもらえているのかな?」


 当たり前のように思っていたことを質問されて、夏実は考え込む。あまり疑問に思うことなく、テレビに出たりしているから、プロだからお金をもらえるのだと思っていた。けれども、そんな単純なものではないということを優子は言いたいのだと思う。


「た、大会で勝てば賞金とかもらえるし、そういうのでお金を稼いでいるんだよね? ほらニュースでも獲得賞金がいくらとか出てくるし」


 記憶を総動員して問題に答える。


「勝てば賞金をもらえるけど、何で賞金がもらえるのかな?」優子は、そんな夏実に対して、質問に質問を重ねていく。


「それは、誰かがお金を出しているからかな。そうだ、スポンサーって人がお金を出しているんだよ!」夏実が自信たっぷりに回答する。


「スポンサーは、どうして囲碁で勝った人にお金をだしているのかな?」優子は夏実の回答には満足していないようだ。さらに質問が重ねられる。


 夏実にとって、お金の流れというのは単純なものだった。両親はどこかからお金を稼いできて、夏実はそれをお小遣いとしてもらい、買い物をする時にお金を支払う。


 プロという資格を手に入れることができれば、どこかからお金をもらうことが出来る。けれども、それがどこからなのかを考えろと言われる。


 学校の授業では、経済の仕組みについて習ったような気がする。教科書に書かれた無味乾燥な言葉の羅列は、必ずしも意味のないことが並んでいるわけではないのだな、と夏実は実感する。


「宣伝だ。色んな企業がCMをやっているみたいに、賞金を出すことで宣伝にしてるんだ」知識と知識をつなぎ合わせる。この答えには優子もうなずく。


「そうだね、皆が囲碁を見てくれるから宣伝になると思って、賞金を出してくれてるんだね。じゃあ、ここでさらに質問です。どうすればもっと多くの人が、囲碁を見てくれると思う?」


 夏実は何ども質問を繰り返され、混乱しながらも考え続ける。自分が目にしたもの、思っていたものは、どれだけ物事の表面部分だけを見ていたのか、ということに気づかされる。


 おじいちゃんがやっていたから、囲碁が楽しかったから自然と興味がわいたし、色々と見るようになった。けれども、前の学校では同級生で囲碁をやっている友達はいなかったし、他でもあまり多いとはいえない。どうすればいいのかなんて、まるで検討もつかなかった。


 どうすればいいのか、回答が思いつかず途方に暮れている夏実を見て、優子が申し訳なさそうに舌を出して謝る。


「なんてね、そんなのが簡単に答えられるようならみんな苦労はしてないよね。でもさ、みんなが囲碁を見てくれるのは決して強いからだけじゃない、って私はそう思うんだ」


 言われてみると、確かに自分の場合もそうだったと思う。タイトルを取ったりする強い人だから、テレビや雑誌などで目にする機会が多くなるがその人のことを好きになるのは決してそれだけが理由ではなかった。


 人柄であったり、物事に取り組む姿勢であったり、人が人を好きになるというのは、複雑で奥が深いものだと思う。


「確かにそう思うけど、それと勉強が何の関係があるのかな・・・・・・」夏実がまだ納得しかねる感じでつぶやく。


「勉強って言うのは、ただ受験のためだけじゃなくて世の中の仕組みとか、今は何の役に立つのか分からないかもしれないけど、学校の授業で行うものは、将来役にたつかもしれない有用な知識や技術を詰め合わせたものだ、って私はお父さんから教わったの」優子が熱く語る。


 文字という概念をそもそも知らない人間は、文字がなんの役に立つのかを理解すること自体が出来ない。それと同じように、世の中には知ってから初めて意義を理解できる物事がたくさんあるらしい。


 学校教育というのは、確かに個人個人に合わせてカスタマイズされたものではないが、義務教育の範囲内にあることを知っておくことは、様々な失敗を避けることが出来る最低ラインのものとして有用であると。


 そう説明されると、そうしたことをやりたくない、もっと囲碁の勉強に専念して早く先へ進みたいと思う自分が、ひどく子供っぽく思えた。


「今の自分に分かることだけをやり続けても、成長は出来ない。囲碁だってそうでしょう?」優子に問いかけられる。


 囲碁でも、自分が普段打っている分かり切った手だけを打つなと言われたことがある。どうしても慣れている方が楽で、勝率も高くなるのだからそうしてしまいがちだが、長い目で見れば色んな手段、色んなルートを知っている方が強くなれる。それは、囲碁以外のことでも同じなのだろうか。


 囲碁の勉強を苦だと思ったことはない。何のためにやるのかが明確で、他人からもあれこれ指示されずに自由にやれた。それに比べると、学校の勉強には苦手意識が強い。どうにも性に合わないのだろう。


「でも、苦手な物は苦手だよー」夏実が情けない声を出すと、優子が軽く笑う。


「向き不向きがあるのはしょうがないけど、それでも後から後悔しないように、やるだけやってダメだったから違う道を選んだんだって、自分が納得できるまでやるのも大事だと思うの」優子が自分にも言い聞かせるように話す。


「自分が納得できるまで・・・・・・」夏実は自問する。嫌だから、苦手だからという理由で逃げ続けた時、未来の自分に胸を張ることが出来るだろうか。そんな情けない自分にはなりたくないと思った。


「やれるだけ頑張ってみる」夏実が決心する。


「頑張って、私も手伝うよ・・・・・・って、寝るの早すぎ・・・・・・」決心をした直後に、机に倒れ伏す夏実に優子がツッコミを入れる。二人で笑い合う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る