第1話 ガール・ミーツ・ガール

 春が過ぎ、気象庁が梅雨入りの宣言をするもそれをあざ笑うかのような天気の良い朝だった。日は高く昇り、今日も蒸し暑い一日になりそうな予感をただよわせている。


 周囲を見渡せば、新緑の広がる山々がそびえ立ち、澄んだ空気の中、メガネをかけたセーラー服を着た小柄な少女が、三つ編みを揺らしながら小走りに急いでいた。


 この山間に広大な敷地を持っているのは、私立の女子学校だった。

リンドウ女学院。中学、高校と一貫教育を行っているこの学校は、長い伝統と生徒の個性を伸ばす教育で知られている。


 少女は、寄宿舎の玄関を出て、校舎の方へと真っ直ぐ向かう。辺りに他の学生の姿はなかった。規律に厳しいこの学園では、時間ぎりぎりに走り込んでくる生徒の姿は珍しい。遅刻をした生徒に罰として、大量の宿題と掃除と反省文を書かされることになっている。


 昨日は夜遅くまでアニメを見ているんじゃなかったと、走っている少女、優子は思った。分かってはいるのだが、リアルタイムで見てこそ価値があるのだとそういう信念を持っていた。けれども、そんなことは言い訳にはならない。すでに間に合わなそうな時間なのは分かっていたが、それでも急がずにはいられなかった。


 校舎に入っていき、下駄箱が並ぶ所まで来た時に、人の姿を見つける。

よかった、遅刻したのが自分だけじゃなかったと優子は意味もなく安堵する。靴を履き替えながら、それとなく相手の様子をうかがう。


 見慣れない生徒だった。少年と見間違うようなショートカットで、意志の強さを感じさせるような太い眉を曲げながら、一生懸命にプリントを眺めていた。登校時間を過ぎそうになっているのに、考え込んだままじっと動かずにいた。なんだろう、と思いつつも横を通り過ぎようとすると、突然声をかけられた。


「ねえ、この問題解ける?」少女が持っていたプリントを差し出す。それには線が引かれたマスの上に、白い丸と黒い丸が並んだ、詰碁の図が描かれていた。


 詰碁とは囲碁というゲームのルールを使って、図に描かれている石を、生かすことができるか殺すことができるかを考えるパズルのようなものだ。


「ごめんなさい、私急いでいるから……」優子も囲碁は得意だが、こんなタイミングでやるようなことではなかったので、拒否して教室へ行こうとする。


横を通り抜けようとした時に、制服の裾をつかまれる。


「離してください」優子が抗議する。


「お願い、朝からずっと考えていたけど解けなかったの。この学校なら解ける人がいるかも、って思ってたんだけど……」ショートカットの少女に、真剣な表情で訴えられる。いったいなぜ、こんなにも詰碁に集中しているのだろう。でも時間が、と思ったところで授業開始の合図となるチャイムが鳴り響く。いずれにしても、時間には間に合わなかった。


「どんな問題ですか」優子は時間通りに着くことは出来なかったと、諦めながらプリントを見せてもらう。描かれていた問題は黒先活(くろせんいき)の、黒い石を生かすものだ。


 囲碁は相手の石を囲んで取ることが出来るゲームだ。相手に取られてしまう形の石を死んだ石、逆に相手からは取られない形になった石を活きている石と呼ぶ。


(あれ、この問題は——)どこかで見たことがある形だった。記憶をたどりながら検証し、答えとなる場所を相手に示す。


「2の三に打てば、上から押さえられたときでもこうして……」囲碁には縦横十九の線が引かれており、その線が交差する点の上に石を置くことができる。左上から数えて、何番目の線が交わる場所かを、番号で示す。


 少女は優子から教えられた場所を見ながら、その石が活きることができるのかどうか、自分でも頭の中で検証しているようだ。


「本当だ、活きた! 一目で分かるなんてすごい、本当にすごいよぉ!」


 いきなり、少女が興奮しながら抱きついてくる。優子よりも少しだけ背の高い相手の、柔らかな身体の感触が伝わり甘い匂いがふわりと漂ってくる。


「ふぇ、たまたま同じような問題やっていただけで……、そんな……」優子は女性同士だというのに、ビックリしておもわず顔が赤くなる。


「それより、早く教室に行かないと。すっかり授業が始まっているよ」照れているのを隠すように、早口で少女に告げる。


「それなんだけど、もう一つお願い、いいかな?」少女はイタズラっぽい笑みを浮かべた。

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