ロシアの地にて 第十五話

「よぉ。生きかえったみたいだな」


 男は、低くざらついた声で、気軽に片手をあげて圭吾に人懐こそうな笑みを向けた。

 背丈は2メートルちかくはあるだろう30代くらいの男。シルバーブロンドのミディアムヘアをたてがみのように風になびくままに遊ばせているその顔は、にこやかな笑みに溢れていた。


「お? 誰だお前って、顔してるな。私のことは、ヴォルフとでも呼べばいい。死にそうになってたお前をここに運んだのは私だ。ペーチカは熱かったか?」


 圭吾は驚いて窓から身を乗り出す。


「え。あんたが俺を運んでくれたんか。ペーチカって……あの、カマドみたいなやつ?」


 ヴォルフと名乗った男は、大きく頷いた。


「ああ。ペーチカは聖なる火だ。病も傷も癒しちまう。もっとも、9割がたの人間はペーチカで焼くと焼け死んでしまうがな。治るか死ぬかは火の精の気持ちひとつだ」


 お前は運がいいな、と豪快に笑うヴォルフを、圭吾は引きつった笑みで見返した。


「……俺、知らん間にそんなデンジャラスな賭けやらされとったんか」


 とはいえ、ヴォルフが運んでこれなければ、間違いなく自分はあの場で死んでいただろう。そのことについて礼を言うと、ヴォルフはゆるゆると首を横に振った。


「いや。お前たちはあの森で血を流しすぎていた。森の精たちも、騒ぎ立てていたよ。それに、あんなところにお前の死体を転がされたんじゃ、眠りたいやつらも眠れんだろうよ」


 ヴォルフにも、圭吾は日本語で話しかけていた。相手は何やらロシア語とも少し響きの違う言葉で返す。それでもお互いに言いたいことが分かるのは、老婆の時と同じだ。

 ふと、圭吾が思い出す。自分が銃口を後頭部に当てられた時、あのタトゥー男が叫んでいた言葉だ。


「なぁ。プリーズラク、ってどういう意味なん?」


 ん?とヴォルフは疑問符を顔に浮かべたあと、ああ、と声をあげた。


「призракか。ロシアの言葉で、幽霊を意味する」


「幽霊?」


 全く予想していなかった意味に、きょとんと圭吾はヴォルフを見下ろす。

 その様子を、ヴォルフは僅かに口端を歪めて眺め、やれやれとでも言うように軽く頭を振る。


「……見に行けばわかる。一緒に来るか?」


 圭吾は頷く。断る理由はなかった。






 ヴォルフの足は速かった。森の中を大股で早歩きに歩いているように見えて、圭吾は小走りにならないとついて行けない速度だった。

 しかし、身体を動かしてみて気付いたのだが、身体がとても軽い。怪我をする前よりも体調はいいくらいだ。


(ペーチカ、すげぇ)


 なんて思うものの、焼かれるのは二度とごめんだった。

 森の中を行くヴォルフが隣を走る圭吾を横目で見ながら、そういえば、と声を漏らす。


「お前、もしかして日本人か?」


「ああ。そうやけど。なんで、そう思ったん?」


 圭吾が尋ねるものの、ヴォルフは「そうか。だから、あいつらが出てきたのか」と独り言のように呟くだけだった。


 森の中を30分ほど行ったところで、突然視界が開けた。森をぽっかりと切り抜いたような広い空間に出たのだ。奥には建物も数棟見える。

 そう、ここはヴォルフが圭吾を見つけた場所だった。

 圭吾は自分が倒れていたところに、歩み寄る。片膝をついて、そっと地面に触れた。指に乾いて粉状になった血がこびりつく。

 石畳にはまだべったりと黒くなった血のりが残っている。本当に、よく死ななかったものだと自分でも不思議に思う。


 顔をあげて、その奥の森に目を向ける。あそこから自分はタトゥー男に追われて出てきたはずだ。しかし、タトゥー男はここで何かを見て、「призрак」と叫び怯えたように去って行った。

 何を見たのだろうか。思案に耽っていたところで、ついついとヴォルフに服の裾を引っ張られた。


「何?」


「しっ」


 ヴォルフは、顔の前に指を立てて圭吾に静かにするように伝えたあと、頭をくいっと降ってあっちを見てみろというように示した。

 ヴォルフの巨体の向こうに目をやると、遠くに人影が見える。

 あの老婆だった。


「……ばーちゃん?」


 ヴォルフが足音を消してそちらに足を向けるので、圭吾もついて行くことにする。

 老婆の斜め後ろから、そっと近づく。

 よく見ると、老婆は手に持った何かを小さくちぎっては地面に撒いているようだった。


 それは圭吾が焼いたパンだった。

 パンをパンくずにして、ぱっと地面に撒く。

 始めは鳥にでも、パンをやっているのかと思った。

 老婆の前には何羽もの鳩がパンくずを食べに来ていたから。

 しかし、よくよく見てみると鳩は飛んできたわけではないことに気付く。

 地面から、ぽこ。ぽこ。と鳩が沸くように出てきては、パンくずを食べ。ひとしきり食べ終わると、どこへともなく飛んでいくのだ。


(地面から、鳩が沸いとる……)


 老婆は手に持ったパンを半分に割ると、こちらを振り向いて、ふんと鼻を鳴らした。

 こっそり近づいたつもりが、気付かれていたらしい。

 のぞき見してしまったことにバツが悪そうに圭吾は頬を指で掻いた。

 老婆にパンを手渡されたヴォルフも同じように、パンくずをぱっと撒いた。


「おお。さすがに、いつもより多いな」


 嬉しそうな声でヴォルフは言う。


「……なんなん? その鳩みたいなん…」


 圭吾の率直な質問に、老婆はじろっと黄色味がかった目を上げてこちらを見ただけで、質問とは違うことを口にする。


「同胞の焼いたパンの方が、いいようだわい。また、明日もパンを焼け。わかったな」


 圭吾がパンを焼かせられていたのは、このためだったようだ。

 強い風がびゅうと森の梢を鳴らした。その音を合図にしたかのように、地面でパンくずをついばんでいた鳩たちが一斉に飛び上がった。

 鳩たちは大きく舞い上がり、広場を大きく旋回したあと、遠く西の空へと飛んで行く。赤い夕焼けの中、鳩たちは次第に黒い点となり、消えて行った。

 額に手を当てて、目を細め鳩たちを見送っていたヴォルフがぽつりと言う。


「ロシアでは、人間の霊魂は通常40日で彼岸に旅立つと言われていてな。それを超えてこちらに残る魂は、悪霊になるといわれている」


 鳩がすっかり見えなくなり。赤くホオズキのような太陽が西の森に溶け込もうとするかのように沈みつつあった。

 ヴォルフを額に当てた手を下ろすと、まっすぐな目で圭吾を見下ろす。


「この場には多くの魂が埋められている。心残りがあるのだろうな。穏やかな奴らが多いらしいが、それでもいずれは悪霊ともなろう。そうなる前に、少しでも多くあちらに導いてやりたいのだ」


 そのためにパンを撒くのだと。パンを糧にして、鳥の形をして飛び立った魂は西にあるというあちらの世界へと飛んでいくのだと、ヴォルフは教えてくれた。


「説得しても。なかなか強情でな。こうやって、少しずつパンを与えると、あちらに行く気になった奴が受け取っていく。行く気にならない奴は今も沈んだままだ。でも、今日はいつもより多い。やはり同胞が焼いたパンは美味いのだろう」


「同胞?」


 先程から、何度も口にされている言葉を圭吾は不思議そうに尋ねた。

 ヴォルフは、静かな瞳で圭吾をじっと見ると、腕を上げて広場に立つ建物を指さした。

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