ロシアの地にて 第十四話

 とりあえず、助けてもらった恩もあるし。

 やれと言われればやらないわけにはいかなかった。

 元より圭吾は、料理は好きな性質だった。元々味覚が鋭敏すぎるところがあるので、添加物や化学調味料が入ったものを食べるくらいなら、自分で作った方がいいという考えから若い頃より料理はよくしていたのだ。


 パンも何度も作ったことがあったが、老婆が持ってきたパンの材料は自分が見慣れたものとは少し違っていた。

 テーブルの上に老婆がぼんぼんと置いて行く材料を圭吾は興味深そうに手に取って眺める。


 粉は、小麦粉ではない。粗さの残る土色のそれは、おそらく全粒粉のライ麦粉だと思われた。瓶に入ったドロッとしたものは、天然酵母だろうか。

 圭吾は老婆に言われるままに分量を量って粉や水を混ぜ、袖をまくって粉をこねた。

 生地ができれば、それを数時間置いておいて発酵させる。


 待っている間手持ちぶたさに部屋をぶらぶら眺めていた圭吾だったが、老婆に呼ばれて傍に行くとテーブルに座るように言われる。

 粉っぽくなったままのテーブルだったが、圭吾が席に着くと老婆は圭吾の前にスープを一杯置いた。

 スープの温かい香りが鼻腔をかすめて、そこで初めて圭吾は自分が酷い空腹状態にあったことを思い出した。その赤みのあるスープは香しくて、とても美味そうに見えた。

 しかし、先ほど老婆は『男を食べた』と言っていたことを思い出す。


「……もしかして、このスープ。人間の肉が入ってたりするん?」


 恐る恐る尋ねてみる。いや、入ってても食べる気ではいたが。


「いいや。入ってはおらん。人間なんて、そうそう手に入るものじゃない。それは、キャベツのスープじゃ。ヴォルフに持ってこさせたウサギの肉も入っとるがな」


 人間は入っていないのか……。

 かつて若かった頃、食人癖に傾いたときは、人以外の食材は頭が食べ物と認識しなくなったように体が受け付けなくなっていた。

 意識を失う前のことを思い出す。あの時は、確実に食人癖に傾きつつあった。今までの傾向からすると、人間以外の食材を体が受け付けなくなっていてもおかしくはなかった。

 でも、今、目の前にあるスープは酷く自分の食欲をそそった。ちゃんと、食べられるような気がした。


 圭吾はスプーンを手に取ると、いただきますと手を合わせて。

 スープを一匙すくうと、口に入れた。

 よく煮込まれ様々な食材が溶け込んだスープは、思いのほかあっさりとした味をしていて体に染みわたるようだった。

 圭吾は貪るようにスープをたいらげ、何度もおかわりまでした。

 ちゃんと食事をとれたことに、内心安堵していた。


 食事が終わると圭吾は使った食器や鍋を洗いたいと思って、どこで洗えばいいのかと老婆に聞いた。老婆は、鍋や食器を圭吾に全て持たせると、「おすわり!」とどこへともなく大声で告げる。

 老婆に腕一杯に洗い物を持たされてきょとんとしていた圭吾だったが、その足元が突然揺れた。地面が抜けたような落ちる感覚。


「うわっ、と…」


 思わず手に持った皿を落としそうになりながらも、なんとか踏ん張ってこらえた。

 ほら、もう出れるだろう。と老婆に促されて部屋の隅にあるドアから外に出た。家の外は深い針葉樹林の森に囲まれている。


 と、そのとき。背後でガサガサという大きな物音がして、圭吾は今出てきた家の方を振り返った。

 しかし、そこに家はなかった。

 いや、無くなったのではない。それは圭吾の頭上に見えた。一瞬、浮かび上がったのか?と思ったが、そうではなかった。

 家の下に二本の太い足が生えていた。それは巨大な鶏の足のように黄色く鱗のようなもので覆われていて、大きな爪で大地をしっかりと踏みしめている。二階建ての一階部分が二本の鳥の足になっている様子を想像してほしい。


「え、……なんや、これ」


 家に、鳥の足が生えていた。どうやら通常はその足は立っていて、家人が家に出入りするときだけ屈んで出入りがしやすくしてくれるようだった。


「……けったいな家やなぁ」


 不思議なことばかり続いて感覚がマヒしているんだろうか。もう何が起こってもさほど驚かないような気分だった。圭吾はそれだけ呟くと、近くに置かれていた水がめから桶で水を汲んで、鍋を洗うのだった。

 洗っていると上から自分を呼ぶ声に気付いて顔を上げた。

 窓から老婆が顔を出して、こちらに向かって「薪を持って来い」と叫んでいた。


「はーい。戻るとき、持っていきまーす」


 と言葉を返して辺りを見回すと、近くに薪がつまれた小山が見えた。

 そういえば、さっきから普通に老婆と会話を交わしているが、老婆が話している言葉は圭吾にはさっぱり理解できない言語だった。しかし、耳に言葉が入ると同時に、脳裏に相手の言いたいことが像や日本語になって浮かぶ。そのため相手の言いたいことが分かるので会話が成り立っていた。圭吾の方も、口に出しているのは日本語だ。それでも相手には通じているようだった。


 洗い終わった鍋や食器を左腕に抱え、右腕に薪を何本か抱えて、どうやったらしゃがんでくれるんやろうと圭吾は鳥の足をもつ家を見上げた。


「あのー。家に入りたいんやけど。しゃがんでもらえへんやろうか」


 圭吾が家に言うと、家は圭吾の言葉に反応したようで、どしどしと何度かその場で足踏みをしたあと、膝を折った。ドアの部分が圭吾の手に届く位置にまで降りてきた。


「ありがとう、な」


 圭吾はにこっと礼を言うと、家の中へと戻る。

 パン生地は発酵を終えて、倍以上に膨れていた。指で押すと、ぷにゅっと柔らかく凹む。

 それを手に取って丸め鉄板に置くと、圭吾は老婆に指示されたように薪を足して温度をあげた窯に入れた。あの、はじめ圭吾が入れられていた、あの窯だ。ペーチカというらしい。


 パン生地を窯に入れてしばらくすると、窯から何とも言えず香ばしく美味しそうな香りが漂ってきて室内を満たした。

 先程あれほどスープを食べたというのに、その良い香りに食欲がむくむくと沸いてくる。


 できあがったパンは一つ一つが両手で抱えるほどの半球形をしている。黒パンだ。

 圭吾が普段食べいる日本のパンと比べて黒味が強く、手に取って湯気をあげるパンを半分に割ると中はぎっしりと生地が詰まっており、口に含むとわずかな酸味とともにライ麦全粒粉の香ばしさで口の中が満たされた。


「これ、めっちゃ美味い!」


 弾けたような笑顔で驚きと興奮で目を輝かせる圭吾に、老婆はわずかに口端を歪める。笑ったのかもしれない。

 いくつでも食べていいと老婆が言うので、圭吾はパンを5つも食べてしまった。でも沢山作ったので残りはまだいくつもある。


 その一つを老婆は手に取ると、ぼろぼろの布でできた肩掛け鞄に詰めた。

 老婆は老齢とは思えない機敏な身のこなしで窓枠に飛び上がると、観音開きの窓をあけた。

 そして、その窓からひょいっと身を外に投げ出す。

 ここは鳥足に持ち上げられているので二階と同じ高さがある。圭吾が驚いて窓まで行くと、下の地面に老婆の姿見えた。

 老婆は、斜めに起き上がった長い石の臼のようなものに乗っており、右手に持った長い杵で臼を叩くと、臼はズルズルと前へ移動するのだった。

 その臼のつけた地面のあとを、左手にもった箒で消しながら、臼に乗った老婆はどこへともなく森の中へと消えて行った。


「……ゆ、ユニークすぎるやろ……」


 そんな力ない言葉が圭吾の口から洩れるのだった。なんというか。色々なものが常識から外れていて。自分が今いるのが果たして現世なのか、それともあの世とか別のどこかなのか、それすら分からなくなる。

 窓から入ってくる爽やかな風に髪を躍らせながら、圭吾は窓口に寄りかかって自分の左手に目をやった。

 左手の親指の爪は、黒く変色したままだった。


(消えては、いないんか……)


 ということは、生け贄の順番はまだ自分にあるということだ。それならば、自分はまだ生きていることには違いない。

 やることもないので思案に耽っていた圭吾だったが、階下から誰かに呼ばれた気がして窓から身を乗り出し階下を見下ろした。

 一瞬、老婆が帰ってきたのかとも思ったが。

 地面の上でこちらを見上げているのは、一人の体格のいい男だった。

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