ロシアの地にて 第十二話
イザは尻ポケットから携帯を取り出すと、それを三人の間にあるローテーブルの上に置いた。
「今すぐ、母親を呼び出してほしい。1時間前、お前らの父親から連絡があった」
和泉と健吾が、携帯を見つめる。
二人の様子から、圭吾が誘拐されたことはこの二人には知らされていないのだろうことを察して、言っていいものか迷っていたが。知らないことが、良いことであるとはイザには思えなかった。そのため、言葉を続けた。
「俺は、圭吾の古い友人だ。圭吾本人から頼まれた。圭吾は今……武装集団に襲われて、死にかけてる」
二人は、弾かれたようにイザを見上げ、驚愕に顔をこわばらせた。
「圭吾を、死なせたくない。だから一刻も早く、お前たちの母親に頼んで人を現地に派遣してほしい。会社の方でも探してはいるんだろうけど、おそらく場所が特定できていないはずだ。この携帯への発信先を調べれば、1時間前に圭吾がいた場所が特定できる」
もう、既に手遅れかもしれない。
イザは、ぎりと奥歯を噛みしめる。
今から場所を探して、現地に人を送れるまで一体どれくらいの時間がかかるだろう。
果たして、それまで圭吾は生きていられるのだろうか。
イザの冷静な判断力が、その可能性が極めて少ないという事実を冷酷にはじき出す。
それでも、まだ一縷の望みを捨てたくなかった。圭吾の死が確認できるまでは。
和泉はポケットから自分の携帯を出すと、すぐに電話をかけ始めた。
「………あ、母さん! ごめん、忙しいのは分かってる。でも、お願い、緊急なんや話きいてほしい。父さんの場所知ってるっていう人が、うちに来てんねん」
30分後、一人の黒スーツの女性がボブカットの髪を振り乱した様子で室内に飛び込んできた。
タクシーが渋滞に巻き込まれたから、走ってここまで来たらしい。
ストッキングが破れ、片手にヒールの折れたパンプスを持っていた。
彼女は手に持っていたものを床に置くと、乱れた髪を手で適当に撫でつけ肩で荒い息をしながら。
「圭吾の、妻の、
健吾に水の入ったコップを渡されて、ありがとうと一気に飲み干すと、そこでようやく一息深呼吸した。
楓子と初めて会ったイザだったが、ああ、たしかによく似ているなと思った。話には聞いていたが。顔だちもそうだが、なんだろう、雰囲気というか場に作る空気のようなものがよく似ているなというのが第一印象だった。
イザの向かいの椅子に腰を落とした楓子は、イザの話を一言も言葉を挟むことなくじっと話を聞いていた。そして、一通り話が終わった後、おもむろに携帯であちこちに指示を出し始める。
その指示出しも一段落したあと、楓子がイザに言う。
「貴方の携帯、しばらくお貸し願えませんか」
当然それは想定していたことだったが、イザは咄嗟に頭の中でこの携帯を差し出しても大丈夫かどうか記憶を辿る。この携帯は家族など親しい人とのやり取り専用に使っていたものだから、中を調べられても心配はない。
イザは、こくんと頷いて、携帯を楓子に手渡した。
でも。
ふと、考える。
これが、仕事用の携帯だったら……どうしてた?
それは即ち、いままでの取引先からのメールや通話履歴が警察の手に渡る可能性があることを意味する。
そうなると自分は間違いなく捕まるだろう。罪歴は、全部合わせれば最高刑でもってしてもまだ余る。
自分の人生や命と引き換えに、圭吾の命を救う選択をすることが、果たして俺はできるんだろうか。
それは、……正直、わからない。
だから、圭吾から着信のあったこの携帯が仕事用のものでなかったことに、酷く安堵する自分がいた。また、そう思ってしまう自分が酷く汚らしいものにも思えた。
楓子はイザの携帯を手に取ると、遅れて自宅へ着いた部下のものに手渡した。これから、外務省を通じてロシアの通信会社に発信地確定のための解析を依頼するのだという。
既にロシアにも会社の幹部や関係者、それに警察も含めて対策チームがつくられているのだそうだ。
楓子も、このあとすぐにロシアへと発つそうだ。
楓子はイザにも、一緒に来るかと聞いた。イザは、一瞬考えを巡らすが、頭をゆるゆると降る。
本当は、行きたかった。
楓子には、娘の世話があるからと適当な嘘をついた。完全に嘘ではないのだけど。
イザは、強く拳を握りしめた。爪が食い込んで血がにじむほどに。
本当の理由は、自分にはパスポートが作れないからだった。自分は無国籍の不法移民だから、この国から出られない。出たら戻れない。偽造のパスポートなら作れるだろうが、今はそんな時間的余裕もない。
普段は感じないけれど、こういう時、自分の出生の壁にぶつかる。それが、悔しくて堪らなかった。
そんなイザの気持ちを察したのか。楓子はイザの腕を強く掴むと、しっかりとイザの目を見上げて、明瞭な言葉で告げた。
「貴方のことは、圭吾から聞いてます。圭吾をちゃんと連れ帰ってくるから。貴方はここで待っていて。心配いらないわ。貴方がくれた情報があれば、きっと圭吾にたどり着く」
イザは、楓子と視線を交わしたまま一つ大きく頷いた。
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