ロシアの地にて 第十話
引き金を引かれたら、それで全てが終わるはずだった。
しかし、来るべき衝撃が来ない。
それとも、死ぬ時の痛みって感じないものやったっけ? もう死んでるんやろか。
不思議に思ったその時。後頭部に押さえつけられていた銃口の圧迫が消える。
タトゥー男が銃口を離したのだ。そればかりか圭吾の背中を踏んでいた足も外す。
圭吾は薄っすらと目を開けて、タトゥー男を見上げた。
ぼやけてあまりよくは見えなかったが、男は圭吾から数歩後ずさっていた。
顔にはひきつったような恐怖を浮かべて。
「призрак!!!(プリーズラク)」
と男は一言叫ぶと、そのまま森の中へと走って消えていった。
その後ろ姿をぼんやりと眺める記憶を最後に。今度こそ本当に圭吾の意識は真っ白に塗り尽くされて意識を失った。
誰にも知られず、一人ロシアの森奥深くに取り残された圭吾。
撃ち殺される危険は去ったとはいえ、死の危険が去ったわけではなかった。
未だ圭吾の身体からは血の流れが止まることを知らず、血だまりはまだ大きくなり続けている。
もうショック状態に陥るラインをとっくに超えたおびただしい出血。
死は、ひたひたと忍び寄り、今にも死神の鎌を振り下ろさんとしていた。
圭吾から電話を受けたイザは、携帯を切るとすぐに家を出る。
圭吾からの電話は、酷く緊急性の高いものだった。
仕事でロシアに行るというのは聞いていたが。そこで誘拐され、襲われたらしい。
イザは考えつく限りのアドバイスを圭吾に送ったが、それでも心の中の強い不安は消えない。
いくら身体能力に長け数々の修羅場をくぐってきた圭吾といえども、一人で武装した大勢を相手にして無事でいれるはずがない。
電話口で話した時点で、既にアサルトライフルと拳銃で撃たれたと言っていた。
イザは自分で火器類の商売をしていることもあって、火器で受けた傷についての知見も広い。
アサルトライフルの傷は、拳銃で受けた傷と違ってずっと多くの組織を傷つける。出血も痛みも相当なもののはずだ。
緊迫した状況にあるため火事場のくそ力的なものでまだ圭吾の身体は動いているようだが、普通に考えると既に瀕死だと言っても過言ではない。
(くそっ……)
圭吾が死に瀕しているのに、手をこまねいているしかできない自分が不甲斐なくて堪らない。しかし、今自分にできることは少ない。今できることは、圭吾に頼まれた『家族へ知らせてほしい』という伝言を実行することだけだ。
おそらく圭吾の会社側も身内も既に誘拐には気付いて何かしら動きを起こしているはずだ。
イザは、以前圭吾に教えてもらった彼の別宅へと急いだ。
会社の場所も分かってはいるが。一応ネットを確認したが、圭吾が誘拐されたという報道は一切流れていなかった。
あれほど大きな会社の代表者だ。誘拐が公けになっていたら、すぐに緊急速報が流れただろう。
しかし一切報道が見られないということは、誘拐された事実を秘匿しているのだろう。
そうなると会社に直接出向いて事情を話したとしても、圭吾の身内や誘拐を実際処理している会社の上部に繋がるには時間がかかるだろう。
それならば、自宅を直接当たって身内に直に話した方がいい。
圭吾の話では、最近は京都大原の本宅よりも、東京にある別宅のマンションの方に家族はいることが多いようだった。
イザは電車で、圭吾の別宅がある港区へと向かった。そこは数年前に高級マンションとして売りに出されていたもので、ファミリータイプの部屋だと3億はくだらないらしい。その最上階に近いフロアに、圭吾の別宅がある。
1階ホールの天井はぶち抜きで高く、シャンパンゴールドのような色をした大理石が一面に敷かれている。その奥に24時間有人管理のコンシェルジュという名の管理人が詰めていた。コンシェルジュの女性に、イザは以前圭吾からもらった名刺を差し出す。名刺の裏には、これを持った人物がここに来た場合部屋に通すようにというコメントがサイン付きで添えられていた。そのコメントを確認した女性は、にこりと一つ笑むと、ロックされた奥のガラス張りの自動ドアを開けた。
エレベーターで目的の階にあがり、圭吾に教えられていた部屋番号の前で立ち止まる。
インターホンを押す。
ほどなく、インターホン越しに年配の女性の声が帰ってきた。
『はい』
「突然、すみません。私は、御堂圭吾さんの知り合いのイザと申します」
『申し訳ございません。ただいま旦那様はまだこちらにはお戻りになられておりません』
おっとりとした女性の声は、決まり文句でも言うように無碍なく会話を切ろうとしたが、その突然の訪問者の名前が脳裏に引っかかるものがあったため、もう一度確認する。
『すみません。もう一度お名前を伺ってもよろしいですか』
「イザです」
『イザ様ですね。旦那様より、貴方様が来られた場合は通すように言われております。ただ、生憎今は本当に旦那様はこちらにいらっしゃらないんです』
イザはインターホンの横に手をついて、じれったそうにしていた。
「いないのは、分かっています。その外出先から、言付けを頼まれました。家族はだれか今、いますか?」
『奥様も、ここしばらく戻られていなくて。今は、お坊ちゃまがお二人だけ』
「もう中学生でよね、息子さんたち。彼らで構いません。会わせてもらえませんか?」
少しの間のあと、部屋のドアが開けられ、中からエプロン姿の年配の女性が出て来てイザを中へと通してくれた。
彼女に軽く頭を下げて礼をしたあと、イザは靴を脱いで室内に上がる。
家政婦のその女性に案内されてリビングに行くと、二人の少年が思い思いの格好でソファに寛いでいた。
一人は、若い頃の圭吾とよく似た顔だちの少年。中肉中背の圭吾に比べて、武道か何かをやっているような良い体躯の少年だった。
もう一人は、髪質と瞳の色は父親のそれとよく似ていたが、父親よりもずっと白くきめ細やかな肌質をしている少年だった。彼のその顔だちは、日本人以外の血が混じっていると思われる少し堀の深い整った様相をしていた。
圭吾の若い頃によく似た方が、健吾。整った顔立ちの方が、和泉。だろうと、イザはすぐに見当をつける。
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