第四話「愛の味」

4、

 司会を命じられた男――王国劇場の総支配人は、プロとしてあるまじきことだと自認しながらも、マリアを連れてどこかに去ろうとする、その場違いな男の背中につい問いを投げかけた。

「どうして、彼女を買うために、あんな大金を」

 その「どうして」には手段や理由のみならず、無数の意味と疑問が込められていたのだろうが、問われたジェスは首をかしげ、隣で静かに佇み、己の主人となった男の邪魔にならぬよう控える、かつて見た姿より少しだけ成長した美少女を眺めて、はにかみながら一言だけこう答えた。

「一目惚れです。……だから、どんなことをしてでも、手に入れたかった」

 そしてジェスは劇場の外で待ち構えた、唖然とする観客達を尻目に、どこかへと歩いて行った。その得体の知れぬ空気に、物見高い野次馬は無数にいたくせに、誰も追い掛けることはできなかった。マリアは与えられた白いドレスをひらめかせ、どこへ行くかも分からぬまま、前を行くジェスに付き従った。

 日はすでに傾いていて、黄昏の赤光があたりを照らしている。マリアの身につけた白いドレスは血のように赤々と燃え盛る空を映し出し、その明るさと暗さの狭間をすり抜けるように、二人は貴族街から平民通りへと差し掛かった。

 慣れぬ道に戸惑うマリアの手を引いて、ジェスは足早に先に進んだ。

 余所者が紛れ込んだ貧民街の子供達は息を潜めている。夕闇に包まれた狭い路地を通り過ぎるとき、マリアは空いた手で、首筋をなぞるように触れた。ジェスが一度も振り返らなかったから、マリアもそれにならった。

 やがて汚らしい安宿に辿り着いたとき、マリアはジェスの背中を見つめた。冒険者の格好をした、自分を落札した男。あれほどの大金で自分を買い上げて、主人になった相手なのに、マリアは彼のことを何も知らない。

 自分は全てを失った。持っていたはずのもの、あったはずの未来は、何ひとつ残らなかった。あの日々は二度と戻らない。すべては手の届かぬ場所へと遠ざかってしまったと、マリアは知っていた。いつの間にか手は離れていたが、逃げることは思いつかなかった。ただ部屋に案内されたジェスの後ろを、当然のように追い掛けた。

 窓から刺す月明かりに浮かび上がる、細身に見えるジェスの鍛え抜かれた身体からは、汗と鉄の入り交じった匂いがした。血の匂いもあったし、換気の悪い安い部屋には元からの饐えた臭いも混じっていた。そうした臭いを間近で嗅いでむせ返ったマリアは咳き込みそうになるのをこらえながら、目の前で何かを待つ主人に頭を下げた。マリアの潤んだ青い瞳には男の姿が映り込んでいる。己の奴隷の不出来さを何も言わずにじっと見つめたまま、寝台に投げ出すように力なく置かれていたその手を取った。あんなことになるまでは、ただの箱入り娘でしかなかったマリアが生涯見たこともないほど、ひどく傷付いていて、あまりにも痛々しい手だった。指先は潰され、爪の形が歪んだ不気味な手だった。手のひらの皮は厚く、ところどころ黒ずんでいて、火傷の跡が目立っていた。

 その手を己の首筋に触れさせて、頸動脈から所有を示す首輪へと動かしてから、マリアは男の名前を呼ぼうとして、未だにその名前すら聞いてないことに初めて気がついた。かつて華やかな未来を約束されていた美しき少女は、今や誰とも知れぬ男に心から傅いて、地べたを舐めるように額ずいて、彼の情けをいただくために必死に懇願することを運命づけられている。傍目には悲運以外に呼びようのない己の現在を、当然のように受け入れて、マリアはいつかのようにたおやかに笑みを浮かべる。

「わたしはあなたのものです。どうぞお好きにお使いくださいませ……ご主人様」

 奴隷の答えはお気に召したのかどうか、それは不慣れなマリアには分からない。ただ、せめてもの想いを込めて、できるかぎりの笑顔を向けるに留めた。上手く笑えただろうか。マリアは、鏡すらないこの部屋を見回して、埃だらけの天井を見やると、ゆっくりと己の過去を振り返り、静かに吐息を漏らした。

 そして再び、男のあの傷だらけの手が伸びてきて、マリアの頬に触れた。マリアは涙をこぼしていた。その涙を指先で拭うと、男はマリアの方に手を置いて、そっと寝台へと押し倒した。

 マリアは逆らわなかった。ただひたすら、男の望むままにした。

 一休みして、布で身体を拭かれるあいだ、マリアはされるがままだった。長年使っているせいか染みのある黄ばんだハンカチで丹念に顔や首筋など、あちこちを拭われたのは、ひどく恥ずかしい感じがした。男の手によって己の肌を拭いてもらった経験などない。ただ、男の手つきも不慣れで、それが少しだけ微笑ましかった。 

 再び触れた首筋には、硬い感触があった。ただ嵌められた首輪だけが己の全てであるように思われた。それから空っぽになったマリアには、耐え難い痛みと、それを忘れさせるほどの熱が注ぎ込まれた。

 ぼろいベッドが軋む音に、くぐもった声が重なる。何度も何度も。やがて全身を巡る強い脈動を感じながら、無言で己の身体を抱きしめるジェスの腕の堅さと、刻みつけるように突き立てられた爪痕、己の身体から溢れ、流れた血の味を教えられたマリアは、これが、これこそが愛だと思った。

 

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何をしてでも手に入れる、と彼は誓った 三澤いづみ @idumisawa

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