第三話「夢の味」
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「ジェス、ジェスじゃないか。……今までどうしてたんだ?」
時は流れて、数年後。かつて天使のようだった少女も、体つきが女らしくなるには十分な時間が過ぎた頃に、ジェスは戻ってきた。薄汚れた街の片隅の、薄汚れた冒険者ギルドの受付で、いつか見た顔に話しかけられたのだ。
「ったく、生きてるなら顔くらい見せろよ、童貞――っと、もうそんな呼び方を出来る相手じゃない、みたいだな」
受付の男はジェスの全身を見て、気安く語りかけた口調を改めた。十把一絡げの最下層から、それなりの取引相手として認めてくれたらしい。
いつかは
「その様子じゃ、どこか他の街で上級冒険者として活動してたな? はは、みなまで言うな。お前さんがこの街に居づらかったのは知ってるよ。カタンのことは残念だったな。……ああ、最初の頃は羽振りも良かったんだが……最後には、これさ。どうしたんだ、そんな顔して。……まさか、知らなかったのか? ああ、お前さんの姿を見なくなったのは、それより前だったのか。すっかりカタンが調子に乗って、やらかすのに巻き込まれる前に逃げたんだとばかり……」
「それより」
ジェスは男の言葉を遮って、強い口調で尋ねた。口調こそ丁寧さを意識したものだったが、そこに込められた強さに、遠くから様子を窺っていた同業者たちがはっとして視線を向ける。
「奴隷落ちした貴族が競りに掛けられるって話は、本当ですか?」
「その話題で今、街中が盛り上がってるよ。いけ好かない貴族のご令嬢、いや、元貴族の憐れな嬢ちゃんがどんな相手に買われるのかって皆興味津々さ。さて、買い上げるのはかつての父の政敵、おぞましきかな豚侯爵か。それとも優しき奴隷ハーレムの主、我らが冒険者の憧れ、勇者サブローの救いの手が届くのか。あるいは元婚約者が借金してまで必死にかき集めた金貨の山で足りるのか、ってな」
「注目の的だと」
「そうさ。まったく、誰も彼も趣味が悪いぜ。あんな年頃の嬢ちゃん、いや、でももう十八くらいになるのか……あの可憐な貴族令嬢がどんな好き者の手に落ちるのか、それを知りたくて今か今かと待ってるんだからな。なんだ、もしかしてわざわざそれを見物するために帰ってきたのか? 昔は純情童貞野郎って評判だったジェスも、随分と世の中にこなれたもんだ」
「場所は、奴隷市場ですか?」
「うんにゃ。今回は事情と商品がちょっと目立ちすぎるからな、官営オークションとして劇場を借り切ってやるそうだ。おかげで見物しようと思ってた連中はみんな締め出しくらったよ。競売だってのに、入場料だけで金貨一枚じゃあ、話の種にするにも、ちょっと割に合わん。会場入りするのはほとんど貴族か大富豪、一握りの冒険者だけさ」
「ちなみに、いつから」
「あと小一時間もしたら開始の鐘が鳴るんじゃねえかな。そういうわけで、せっかく街に帰ってきたのに残念だったな」
「劇場は、貴族街の中心でしたよね」
確かめるように呟いて、ジェスは踵を返した。その慌てた様子を見て、男は制止した。
「……おい、ジェス。もしかして見に行くのか? 本気かよ。金貨一枚だぞ、金貨一枚。最高位の冒険者でもなきゃ、見物料としては高すぎる。どこぞで上手いこと稼いで来たんだろ? 無駄金使うのは辞めて、その金で遊んでこいよ。高級娼婦だって抱ける金だぞ、おい!」
ジェスは冒険者ギルドを足早に出ていった。外に出た途端に地を蹴り、駆け出していったその力強い足取りは、ささやかな獰猛さの片鱗と、ひどく狡猾な猟犬の慎重な歩みを同時に思わせるものだった。
劇場は押し寄せる人波に囲まれていたが、入り口に並んだ屈強な警備兵たちによって、見物人たちは視線ひとつで押しとどめられていた。
その混乱を尻目に、フォーマルな格好をした貴族達が馬車から降りて、優雅な足取りで中へと足を踏み入れる姿が窺えた。
「あいつら、金を払ってないじゃねえか」
「貴族の方々はすべてお名前とお顔を確認しておりますし、後ほど請求が行きますので、どうぞ無関係な市民の方々はご安心くださいませ」
護衛付きの脂ぎった中年男性が警備兵に二言三言語りかける。案内された先には劇場の受付があり、そこで中年男性は懐から一枚の金貨を取り出し、野次馬達に見せつけるように陽の光に翳して、それから職員に手渡した。恭しく受け取った職員が中年男性の名前を尋ね、手元の名簿に記帳する。単なる見物料、入場料ではなく、これから開催されるオークションの参加費用でもあるらしい。
今の男は商人だったのだろう。護衛に挟まれたまま、奥の方へと進んで行く。見るからに貴族然とした男や、身なりの良い商人が次々に会場入りするなかに、ひとり異色の男が混じる。二人の奴隷娘を引き連れて颯爽と現れたのは、かの奴隷ハーレムの主である。市民達の期待と軽蔑のほどよく混じった視線を一心に浴びながら、この街の有名人、勇者サブローが悠々と歩いて行った。
貴族と富豪ばかりの会場に、たったひとりの冒険者。だが、誰の目にも驚きは無い。サブローは一枚の金貨を受付に置いて、その後ろを二人の美少女がしずしずと付き従って、奥へと消えていった。
見物だけか参加者なのかは傍目には分からないが、誰の目にも裕福な連中がこぞって奴隷オークション会場たる劇場へと足を運ぶさなか、周囲の野次馬達は未来の買い主を、あるいは売られる目玉、かの元子爵令嬢マリアの憐れな姿を一目見ようと、会場前にひしめくように詰め寄せている。その物見高い市民達から一際大きな歓声が上がった。
待望の人物、アレフ=ウィル=ドーゲンビートル男爵閣下のご登場である。
アレフ男爵。彼こそは、罪科によって爵位を剥奪された父親はすでに死に、そこから家も身分も財産も跡形もなく失い、そしてまた多額の負債を抱え、国家への反逆を企てた罪という――何一つとして同情の余地無き事情によって、一夜にして奴隷の身分へと転落した優しく美しくも愚かだったマリアの婚約者様である。
鈍感で、愚かで、悲劇的な若い男爵。
父の罪の発覚から、その死の日を境として、まるで泡沫のように何もかも消え去り、すべてを失ったマリア。そんなマリアが死罪になる代わりに、奴隷になること知ったアレフは、その日から必死になって金策のためかけずり回った。
奴隷となったマリアにつけられた値段。そこには抱えた負債の精算分も含まれるし、剥奪されたとはいえ元貴族としての利用価値もある。単純に容姿の良さが評価された分も、あるいは教育を受けた人材としての価値もある。
それは一般的な奴隷なら、ゆうに十人は買えてしまう金額だった。
当然のように、アレフが自由に出来る金額を大幅に上回った。
そして、その提示された金額は、あくまでオークションの開始価格に過ぎないのだ。競り合いそうな相手はすでに分かっている。
もしマリアが買われたら悲惨な目に遭うことが確定している豚侯爵に、いつか顔を合わせたときから目をつけていたであろう冒険者サブロー。どちらもマリアを落札するためなら、目の飛び出るような大金を支払うことを躊躇わないに違いない。
アレフは敵対していた貴族の派閥にも頭を下げることを厭わなかった。隠居した父の伝手を辿って上位貴族の家々に日参し頼み込み、祖父の許しを得て家宝すら急いで売り払って、今日のために方々からなんとかかき集めた数千枚の金貨。それだけあれば侯爵位だって夢ではないほどの金額。
すべては元婚約者たるマリアの身柄を引き取る――買い上げるために用意したのだ。
今日こそ運命の日。
マリアの命運は、彼の手に掛かっている。
と、いった悲劇的な話が、数日前から市民たちのあいだで飛び交っていた。巷間の話題をさらったのは、それがいかにも御涙頂戴のストーリーだったからである。豚侯爵の魔の手に堕ちれば、長年敵対していた父の代わりに娘にいかなる仕打ちを望むかは容易に知れる。一方の、多淫で知られる好色勇者サブローが落札せしめれば、少なくとも命の危険はないだろう。あるいは悪くない日々が待つかも知れない。それでもマリアは元婚約者だ。
避け得ぬ運命が二人の進むべき道を隔てた。子爵家の引き起こした醜聞と罪業の数々は、すでに此の世にいない両親の代わりに、一人娘のマリアがすべて背負うことになった。そんな彼女と一度は愛を誓った事実が、将来を嘱望されていた青年男爵アレフの前方に暗い影を落とした。
だから、あれよあれよという間に破滅の一途を辿った、悲運に見舞われた彼女にアレフが背を向けても、誰もそれを咎めなかっただろう。
それでも、マリアのことを、アレフは人任せには出来なかった。
アレフは今や街中の注目の的だった。卑劣にして残酷で有名な豚侯爵と、奴隷達に盲信される好色勇者。ふたつのライバルを蹴落として、己の全財産と誇りを掛けて、平民や貧民にすら優しかったマリア、慈愛を振りまいて、それゆえに身を滅ぼした憐れな女を――己の腕の中に取り戻すのだ。
わあっと大歓声に包まれた劇場前で、アレフは堂々と進んでゆく。彼の姿が現れて、そしてオークション会場として用意された劇場の扉に飲み込まれていくさまを、最初こそ大声を上げた観衆はだんだんと静まりかえって、最後には息を呑んで見守った。
大貴族と、偉大な冒険者と、弱小貴族の三つ巴の闘いである。
どいつもこいつも平民たる自分たちより金持ちであることには違いない。単なる資産家ではない。貧民はおろか平民ですら想像も付かない大金持ちで、雲の上の人物で、鼻持ちならない遠い世界、別世界の話のように思われた。しかし、漏れ聞こえてきたマリアの身の上、そしてアレフの至誠に満ちた愛と挺身、持たざる者が、持てる強者に挑むその美しい物語は、普段は貴族という響きだけで気にくわないと感じる彼らにとってすら、応援したくなるいじましさがあった。強大で傲慢な連中の鼻を明かして欲しいのだ。真実の愛に勝利して欲しいのだ。
元より勝ち目の薄い闘いなのは、誰の目にも明らかだった。最終的な落札者として目された二人とは、所詮は若くて未熟な男爵に過ぎないアレフでは基本的な財力、資本力が違いすぎる。だが、あの二人は人生を賭しているわけではない。そこが狙い目だと、事情通の誰かは語る。
さらに誰がマリアを競り落とすのか、それが賭けの対象になっていた。敵の娘に苦痛を与えるために金を惜しまない豚侯爵か。あるいは美しい娘が奴隷となれば一も二も無く手を伸ばす好色勇者か。他の候補は二人の名前が挙がった段階で、早々に手を引いたと言われている。競り勝つまで価格をつり上げる二人に挟まれては、運良く安値で手に入れられることはない。ならば同時に出品される、他の奴隷に注力しようと思うのが当然である。
大貴族にして領地に金鉱山すら抱えた豚侯爵が二倍、冒険者としての活動や奴隷娘を買うためと誰もが知っている好色勇者が三倍、そこに飛び込むアレフは十倍のオッズである。さあさあ、賭けの締め切りはあとわずか。オークション開始の十分前には打ち切るよ。熱気も冷めやらぬまま運命の一瞬を待つのは、平民街の連中も、貴族のサロンにおいても同じだった。
そうした諸々の群衆の好奇と期待との入り交じった、幾ばくかの暗い喜びも手伝って、外部の盛り上がりは絶頂を迎えていた。
中も外も、表も裏も、かつてない熱を帯びている劇場の敷地内に、そう悪くはないが好色勇者サブローと比べれば数段落ちる装備品を身に纏った、うだつの上がらない青年が一人、足を踏み入れた。警備兵がすぐさま駆け寄って追い出しに掛かったが、彼はポケットから一枚の金貨を取り出した。
「参加費だ。文句ないだろ?」
「……こちらへどうぞ」
すでに主役三人は会場入りしたあとで、その男に大した注目は集まらない。ただ、目ざとい野次馬の一人が呟いた。
「誰だあいつは」
「冒険者だな。わざわざ他人が奴隷を買う場面を見るために、金貨一枚支払っていい物好きがいるとはな」
「待て待て、あいつは参加費って口にしてたぞ」
「とすると他の出品目当てじゃないか」
一人が口火を切って、口々に勝手な推測を語り出す。そんな雑多なざわめきを背中に、街に帰ってきたばかりのジェスは、案内の男の先導に従って、豪華で絢爛な劇場に生まれて初めて足を踏み入れた。
薄暗い入り口から奥へ、精緻な意匠を施された壁面を鑑賞しつつ、長い通路をぐるりと進み、やがてシャンデリアの煌びやかな灯りの下、その立派な舞台と、前からぽつぽつと空いた座席が目に入る。舞台上には十数人の奴隷たちが、それぞれ手枷足枷を付けられたまま、大人しく鎮座ましましている。
収容人数は膨大なのだろうが、今日は奴隷の競売だ。
舞台の目の前こそ誰も座っていないが、少し離れた場所に数人ずつ固まって、参加者達がめいめい開始時刻を待っている。右にいるのはかつて目にした好色勇者サブローで、一緒に会場入りした自分の奴隷たちと真剣な顔して話し合っている。落札価格を少しでも抑えるための戦略を練っているのか、あるいは今宵の夜伽の内容について相談しているのか。
中央に、つまりは舞台の正面に陣取っているのは、誰が呼んだか豚侯爵。もちろん眼前でそんな呼称をすればただでは済まないだろうが、なるほど豚面である。醜悪な面相とでっぷり太った体格は、豚以外の呼び名を拒絶するかのようだ。ただ、貴族らしい華美な服装をまとっていることで、侯爵位をこれでもかと誇示している風でもある。あんななり、あんな容貌ではあるが、その政治手腕たるや悪辣そのもので、彼を見くびった政敵は悉くが断頭台の露と消えたか、あるいは鉱山奴隷として金鉱で一生を終えたとされる。世間ではマリアの父親は彼にハメられたのだ、と見る向きもあるが、その真偽は誰にも分からない。
豚侯爵はじっとりとした目つきで、舞台上に並んだ複数の奴隷たち、そのなかで一人、着飾って、その美しい金色の髪で、シャンデリアの輝きを映し出しているマリアだけを、見つめている。これからどうやって嬲ってやろうか。その算段をしているような、粘り着くような、じっとりとした視線である。見つめられたマリアは何を考えてかずっと俯いているのだが、ときおり、その絡みつくような視線が本当に肌をなめ回しているかのように、這い回る何かから逃れたがっているかのように、身じろぎをしていた。
左には、平民達の応援を背にした、アレフである。その顔色は悪い。勝ち目の薄さもさることながら、もし本当に落札したとして――出来てしまったとして、その後のことを考えたら、青くもなるだろう。他の二人と違って、彼は人生を賭けている。己の全財産を注ぎ込んでなお、勝ち目のあるかどうか怪しい勝負に挑んでいる。つまり、後がないのだ。勝ったとしても今後の半生は、今回の件で方々に頼んだ借金の返済にかけずり回ることになるだろう。マリアという伴侶を――奴隷としてではあるが――その手に取り戻せば、目前で掻き消えた幸福な未来が残るかもしれないし、少なくとも市民の支持は得られるだろう。それに、美談の主役としてしばらくは貴族のサロンに誰先にと呼ばれるかもしれない。
しかし、負けた場合。これは悲惨だ。奴隷を購入した対価の支払いこそ無いが、無理をして借金した事実が消えるわけではない。何より、そこまでして元婚約者を救えなかったとなれば、面子が立たない。奴隷落ちした元許嫁の存在は、貴族の名誉に対してさしたる傷を与えないが、それを取り返そうとして失敗したとなれば話は別だ。貴族社会では誰からも嘲笑される道化として持て囃されることになるだろう。今日の結果如何で、男爵家の浮沈は決まったと言っても良い。元より不利なのは誰の目にも明白なのだ。だから、負けるとしても、良い負け方をしなければならない。アレフ男爵の一挙手一動足は、この場にいる他の参加者達――金貨一枚をまったく負担と思わず、目の前で開催される愉快なショートして捉えられる趣味の良いお歴々――によって即日、ありとあらゆるところへと面白可笑しく喧伝されることになる。そのとき、彼は二匹の魔物相手に果敢にも闘った勇者として謳われるか、それとも二匹のケダモノに元婚約者共々弄ばれた憐れで愚かな身の程知らずと吹聴されるかは、今日の、今からの彼の行動に掛かっている。
そんなアレフは、ちらりとマリアの姿を見てからは、ずっと目を瞑っている。二人の強敵をどう攻略していくか、どのようにしてその攻撃を躱すかについて、必死になって頭の中で勝つための方策を探し続けている風にも見えた。豚侯爵のお付きのひとりが、そんなアレフの様子をご注進して、豚侯爵は大きな口を開けて、声を挙げて笑った。競売に掛けられる奴隷たちも無言、司会も口を閉ざしている今、異様なほど静まりかえっている劇場内の座席に、その濁った笑い声はおそろしいほど大きく響き渡った。他にもオークションの参加者はいるのだが、右と左と真ん中、それぞれに別れて座った三者の存在感にかき消されて、まったくといっていいほど印象に残らない。
ジェスは、そんな三人が視界に入る、少し斜め後ろの席についた。
目玉となるマリアが競りに掛けられるのは最後になる、と司会が説明を始めた。これ以降は入場できないことを知らせてから、オークションの仕組みについての説明、支払いの期日、そして細々とした注意事項を語った。
嵐の前の静けさ、その表現は、何ら誇張されたものではなかった。他の奴隷たちだって、それなりに高値がついている。だが、前座だ。百ずつ値段をつり上げて、競り合っている者たちにも、どこか冷めた空気が漂っていた。最初に競売に掛けられた屈強な男は、元上級冒険者だったらしい。だが、莫大な報酬に釣られて請け負った仕事で、あってはならない大失敗を冒した。その違約金の支払いに身売りの形で奴隷となることを選んだのだ、と紹介された。莫大な借金を抱えたせいで、こうして奴隷になることは、決して珍しいことではない。ただ、それは商人が事業の失敗で妻や娘を担保にする場合が多く、その気になれば自分の身ひとつでそれなりに稼げる上級冒険者ではあまり聞かない話ではある。
奴隷にもいくつかの種類がある。借金の形として身売りをした場合は、さほど悪くない待遇の場合がほとんどだ。自分で自分を買い上げるまで、主人の下で働く、という契約になっている。もちろん普通の雇用関係に比べれば待遇がよいとは決して言えない。しかし、服従を誓わされるとはいえ、主人に命まで捧げなければならないわけではないのだ。
というわけで、彼は多額の借金を返しきるまでは肉体労働に勤しむか、あるいは報酬の大半を吸い上げられる形で冒険者に復帰するかするのだろう。
二人目、三人目と、マリアを後回しにして、奴隷達が壇上に昇らされ、多くの貴族と富豪たちが、声を高らかに金額を積み上げていく。最初こそ冷え切っていた場も、勝負が繰り返されるたびに加熱していく。最後の闘いに参加する気のない彼らにとっては、前座に過ぎないオークションだからこそ、手土産代わりに一人二人買って帰るのも悪くないかと考えているらしい。価格がつり上がっているのを目の前で見て、しっかりと聞かされている商品たちも、今更騒いだり暴れたりはしない。今後の未来を想像して青ざめるくらいはしているが、しかしもはやどうにもならない状況なのだ。命があるだけ温情。この場にいる奴隷落ちした残りの商品たちは、すでにそうした境遇にある。
最初の男のように借金による奴隷は一番マシである。
奴隷ではあるが一応の人権は保障されているし、自分を買い上げることが出来れば、いつか自由になる日が来るかも知れないという希望も残っている。
残っているのは犯罪の刑罰として奴隷となった者たちで、皆が諦念の表情をしている。彼らは処刑されるか奴隷として生き長らえるかの二択を迫られ、奴隷として誰かに絶対服従することを誓わされた身である。ただし、これでも最悪とは言えない。なぜなら、奴隷の身分となったのは刑罰の一種だから、所有者は彼らの命をみだりに奪ったり、意図的に大怪我させることを禁じられる。名目上は落札者の所有となるのだが、国から一時的に――つまり、死ぬまで――貸与されているようなものなのだ。ただし、命令には絶対服従が基本となる。つまり、たとえば女の奴隷が主人から股を開けと言われれば、すぐさまそれに応じなければならない。性奴隷として扱われても、それをしたら確実に死ぬ、という状況でもないかぎり一切の拒否は許されないのだ。そしてまた、主人が殺されそうなときには、肉の盾になれと言われれば、それに従うのが当然となる。殺してはならないが、死んでも良い。逆らったならば、相応の罰則を与えて良い。主人にはそうした権利が与えられるし、主人の命令が自殺しろであるとか、それに準ずるような内容でないかぎり、絶対服従せざるをえないのが、犯罪によって奴隷となった者たちである。
だから、刑罰として奴隷となった者たちは、自分を買い上げた貴族や富豪に対して、どうか良い主人であって欲しいと希う。殺してはならないが、結果的に死んでしまっても仕方がない。壊しては怒られるが、壊れてしまっても、金を出した自分が損する、意思を持った道具。
であればこそ、最後に誰に買われるかが、運命の分かれ目となることは間違いない。最悪は豚侯爵だ。何人もの奴隷が、思いがけない事故によって壊れてしまったと、誰もが噂していた。豚侯爵によって奴隷として落札された、とある見目麗しかった――ちょうど今のマリアと同じくらいの年頃の――少女。その人形めいて美しく可憐だった顔は、ある日を境に、みるみるうちにその顔が爛れてしまい、白くきめ細やかだった肌はボロボロになり、目から光を失って、それでも豚侯爵はそんな少女を、大事な道具を見せびらかすようにどこに行くにも連れ回していたのだったが、やがて屋敷の、豚侯爵のベッドの上で、苦しみながら死んだという。
街の者なら誰もが聞いたことのある話だった。豚侯爵が、そのボロボロになった奴隷少女を連れて歩いていたのは、大勢の目撃者がいた。かつての美少女のあまりにもひどい変わりように、誰もが息を呑んだ。あまつさえ、奴隷――すなわち、自分の所有物である、年頃の乙女を、そんな目に遭わせておきながら、常に自分の近くに侍らせて、その無惨になった顔を人前で隠させることすらなかったことは、豚侯爵のあまりに非道、冷酷さの象徴とされた。
さすがに目に余ると、どこぞの貴族がが糾弾しようと直談判したこともあったらしい。しかし、醜くなった奴隷少女は、悲しげに口にしたものだ。わたくしのあるじさまは、優しい方にございます。何も知らぬ方の口だしはおやめください、と。
一方の奴隷ハーレムの主、嫉妬と羨望の的、街の男連中からはその絶倫さに夜な夜な乾杯が捧げられるとも言われる夜の勇者サブロー殿はといえば、奴隷の扱いに関しては評価が高い。なにしろ、買われた奴隷少女達は口を揃えてご主人様を称えることに淀みがない。無理矢理いわせている風でもないし、夜の生活すら不満は無いと断言されてしまえば、ある種の憧れの対象になっても不思議ではない。
ただし、サブローが買う奴隷少女は、彼のお眼鏡に叶った相手のみである。どんなに奴隷に身を窶すまでに辛い境遇があったとしても、それは彼が目をつけて、手をつけて、金を出す理由にはならない。あくまで外見が一定ラインを超えていなければ、彼の救いの手は伸びてはくれないのだ。誰にでも優しさを振りまくわけではない、というその行動は、ある意味では潔く、ある意味では薄情として、酒の席ではしばしば議題になる。女なら誰でも救うわけではない。救ったとしても奴隷であることには変わりない。だから勇者サブローは優しいのではなく、己の欲望に忠実なだけの、ある意味男らしいご立派様な冒険者なのだ、と言われている。今回のオークションであれば、マリアは確実に彼の好みに合致しているだろう。当然、彼に買われれば奴隷として夜の奉仕は求められるだろうが、それでも豚侯爵の元で一生を終えた、あの憐れで悲しき少女の轍は踏まないだろう。もちろん、最善はアレフが落札することだろう。マリアにとっては元婚約者であるアレフ男爵。本人としては解消したつもりのないだろうが、彼の元に行くことが出来たなら良い。奴隷の身である以上、ちゃんとした形での結婚は許されないだろうが、それでも貴族なら愛妾の一人や二人抱えていても珍しいことではない。そもそも家同士の決めた政略結婚の方が多いのだ。実際に恋愛する相手は別にいたり、あるいは結婚後に愛を育む夫婦も多いのだから、問題にはならないだろう。子爵家から嫁を得た男爵家であれば、若干バランスも悪く強く出られなかっただろうが、立場も逆転したのだ。一連の騒ぎが上手く収まりさえすれば、あるいはアレフにとっては飛躍の機会になるかもしれない。
様々な思惑のなか、オークションは大きな波乱もなく、終わりに近づいていく。
しかし、誰ならば当たりなのだろう。誰に買われるのが一番の幸運なのだろう。それは実際に落札され、その主人の下に行ってみないと分からない。ただ、自分の未来に戦々恐々としている他の奴隷たちも、マリアのことを憐れみの目で見つめていた。
そして他の商品がすっかり消え去った舞台の上で、ぼんやりとシャンデリアの輝きを、その青く澄み渡った瞳に映し込んでいたマリアは、ゆっくりと視線を降ろした。熱の篭もった声の司会が、朗朗と己の名と過去の経歴を紹介し、その身分が剥奪され、今や犯罪奴隷――それも、本来は死罪相当であること、本来子爵家として支払うべき巨額の借金を国庫により負担することになったことなどを延々と言い連ねて、最後にこう締め括られた。
「絶対服従且つ、生死不問の奴隷として扱われることとする――以上が、この奴隷マリアの処遇となっております。子爵家はすでに存在しておりませんので、家名はございません。また、生死不問の文言付きの奴隷にございますので、この商品をいかように扱っても、国法により処罰されることはございません。ああ、申し遅れましたが、この商品の純潔は保たれていることを、女性職員の検査によって確認しております。それでは何か、他にご質問は?」
生死不問。
その一言がつくのは、一応は殺さないよう注意される犯罪奴隷であっても、一握りである。それは死罪よりもなお重い刑罰として奴隷登録した場合に限られる。貸与ではなく、完全に所有権を譲ります、という意味合いである。それは、この奴隷はどう扱っても構わない、とする免罪符である。遊びと称して体中に刃物を突き立てようが、四肢をもいでしまおうが、目を潰し、耳を埋めてしまっても、国からのお咎めは一切無いとするお墨付きなのである。
子供が玩具を好き勝手に弄り倒して壊してしまうかのように、奴隷を自由に使い、嬲り、尊厳を剥ぎ取り、人格を無視せよという、それこそ人間として扱わなくても良いとする――つまりは、王家に逆らった者はこれと同じ運命を辿るという、分かりやすい見せしめだった。死刑以上の罪として設定することで、一切の人権を奪われた姿を、世間の前に、衆目の前に晒すがよいといった残酷な宣告なのだ。
会場が静まりかえっていた。マリアは、まったく動じた様子は無かった。すでに言い聞かされていたのかもしれない。奴隷の扱いに慣れているはずの、大富豪や、金を持った趣味の良い貴族達も、司会の口にした生死不問の響きに、少しばかり気後れしていた。
それもそのはずだ。奴隷を好き勝手に扱う者は多い。金を持った貴族や富豪にとっては、ある意味玩具のように使っているものも少なくない。それでも、本当に奴隷を殺すだとか、死ぬまで嬲るようなことは、まずありえない。なぜならば、単純に高いからだ。使い捨てにするにはあまりに惜しい金額、決して少なくない対価を支払って手に入れた自分の道具を、わざわざゴミのように粗雑に扱う者は滅多にいない。だから奴隷が無惨に死んだ話もそこまで口の端に乗らない。そういう奴隷はよっぽど手酷く逆らって、主人の勘気に触れたか、あるいは何らかの事故で死に至ったケースがほとんどである。そうでなければ豚侯爵による奴隷少女の扱いが、街中で飛び交う噂のなかで、おぞましい悲劇として語られるはずがない。奴隷は確かに貧民以下で、人権を奪われたような存在と言われるのだが、それでも道具やペット程度には扱ってもらえるのだ。使える道具なら大切にもするだろう。可愛いペットだったら優しくして、長く一緒にいられるように世話だってやくかもしれない。
未来の閉ざされた奴隷にだって、それくらいの希望はある。
下級冒険者だって、ひもじくても、苦しくても、なんとか食いつないでいけるくらいの生活は出来る。貧民街の子供だって、頑張れば、どうにか死なずに済むくらいの施しにはありつける。
奴隷にだって最低限の「現在」がある。
嫌な緊張感が、会場に充満していた。その文言ひとつがついていることで、王国は、落札者に、奴隷マリアを必ず残酷な目に遭わせて生まれてきたことを後悔させるように、と強要しているかのようだ。もちろん実際にはそんな強制はない。奴隷をどう扱おうが、本来それは落札者の自由である。しかし、王国所属の貴族たちにとっては、あるいは有力者との繋がり多き大富豪たちにとっては、それは暗黙の了解として捉えざるを得ないのだ。
ついでのように付け加えられた、マリアが処女である事実は、普段なら何かしら観客のテンションに影響を与えるものだったはずだが、この空気のなかでは痛々しい響きを伴っていた。これが奴隷市場なら女の幸せを教えてやるだの、男も知らずに奴隷落ちとは可哀相だな、などと嘲弄混じりの野次を飛ばす陰険な買い主もいるが、この場では誰も触れなかった。そこに細かく突っ込める雰囲気ではなかったのだ。
誰もが黙り込んだなか、ひとりの男が手を挙げた。
質問は、と司会が尋ねたまま、凍り付いていたオークション会場だ。ようやく動いた空気に、全員が安堵の息を漏らした。
「マリア嬢を、どのように扱っても構わないと、我らが王が保証してくれるのだね?」
ざわめきはなかった。ただ、広がった沈黙は、先ほどよりも重さを伴っていた。
問いを投げかけたのは、豚侯爵そのひとだった。
司会はその通りでございます、と答えた。
穢れ無き乙女マリアは、これから彼の手によって凄惨な目に遭うのだろう。その光景が目に浮かぶようであり、わずかばかりの良心を持った参加者達は、せめて苦しまぬ終わりをと祈った。
但し、暗い喜びの情景を夢想して、つい股間を膨らませた貴族の姿がないわけではない。
所詮は同じ穴の貉だ。奴隷を使った楽しみ方としては、それもひとつの形である。羨ましそうに豚侯爵に視線を送る不埒者は数人いるが、それを咎める表情は見当たらなかった。
「よろしい。では、そろそろ始めてくれないかね。吾輩は競売に参加をしに来たのだ。観劇に来たわけではない」
もし噂通りであれば、豚侯爵にとっては、躊躇う理由は無いだろう。
一人も二人も同じだ。公認があるだけむしろ嬉しいかも知れない。そんな豚侯爵の冷たい声に、被せるように場違いに明るい男の声。勇者サブローが、沈黙を打ち破るように叫んだ。
「私からも質問だ! 彼女の処遇は、落札者の自由で良いのだろう?」
「もちろんでございます」
「ならば話は簡単だ。私の奴隷は、すべて私の好きに扱っている。その列に入るだけだな」
「はっ。女と見るや手に入れないと気が済まない、盛るしか能のない猿同然の輩が勝手なことを。君は、すでに落札した気でいるのかね?」
「私の故郷には、豚に真珠、という言葉がありまして」
「ふん。種なしがよく吠える。猿は猿らしく、どこかに篭もって繁殖に励んでいればよいのだ。賢しい獣が着飾っても、所詮は獣だということを忘れるな」
「そっくりそのままお返ししますよ」
どちらの声も、よく通る。この息苦しいほどの静寂にはいっそう強烈に突き刺さる。周囲は二者の、互いが顔も見ずに前を向いたまま痛烈に言い合う姿に、視線を彷徨わせるしかなかった。他人の醜聞ほど味わい深いものはない、と嘯く貴族達にも、食いつきたくない種類の肴はあるものだ。どちらに味方しても、敵になっても厄介で、かといって口を挟んで注意を引いても面倒だ。数人の例外を除いて、ほぼ全員の心はひとつになった。視線が集中した司会は自分の使命を思い出し、声を張り上げた。
「前哨戦はそのくらいにしていただいて、そろそろ開始の鐘を鳴らしても?」
アレフは拳を握りしめていた。これはマリアを景品とした二人の勝負だった。市井では第三勢力として語られるアレフだったが、豚侯爵と好色勇者にとっては敵とすら看做されていない。眼中にないのだ。だがこの舌戦には混ざらない。大丈夫、勝ち目のあるだけの金額は用意した。狙うべきは、一番最後。価格のつり上げに参加せず、最後の最後で掻っ攫うしかない。事実、アレフに存在する勝機はそれだけだった。豚侯爵と好色勇者が手を引く金額を、最後に提示すること。アレフと違い、どちらにも守るべき自分の立場が存在している。アレフと違い、二人はマリアの身柄を欲しがっているが、それは絶対ではないのだ。身を持ち崩すほどの大勝負となれば、どちらも最後には引くだろう。そのために必要なのは冷静さだった。アレフ自身が機を窺うのもそうだが、それよりも、むしろ二人が熱くなりすぎて、競り勝つためなら、身を削るほどの金額を出しても構わないと開き直ってしまうことが怖かった。
だから、アレフにとって今一番大事なのは、二人が冷静さを最後まで保ってくれることだ。そのためには割り込んではいけない。
引き時を見誤られてしまった時点で、アレフの負け、そしてマリアの絶望である。
「よろしいようですね。では、競りを始めさせて頂きます。なお、こちらの商品、奴隷娘マリアは、開始価格が一万からとなっておりますのでご注意ください!」
二度目の静寂だった。それは、唐突な真空の発生のように、ひどく強烈だった。誰もが無言のまま、声を発してはいけない重苦しい空気のなか、音という音の代わりに騒がしいほど無数の視線が、ありえない金額を口にした司会に、そしてそんな高値を付けられたマリアに一斉に集まった。
「……一万?」
誰かが声を漏らした。それは、一つ前の奴隷の落札価格の百倍近い金額だった。聞き間違いを誰もが疑ったが、司会は一万です、と繰り返した。一万は一万だ。金貨一万枚。奴隷は高値とされるが、それでも設定される金額には相場があり、限度というものがある。奴隷一人に対しては異様なほどの高値だったが、おそらくは子爵家の代わりに国が支払った借金の相殺も含まれているのだろう、と誰かが解説した。
誰かの声を切っ掛けに、会場内にはざわめきが生まれた。それは文句であったり不平であったりした。その多くは、こんな金額では豚侯爵も好色勇者も手を挙げないだろう、という失望の響きを伴っていた。金貨一万枚。どう考えても、美しいとはいえ、今となっては単なる奴隷となりはてたマリアに、それだけの価値はない。子爵家の娘としての利用価値がわずかに残っているならば、その金額でも多少は損を取り返せるかもしれないが――国家反逆罪の汚名を被った以上、爵位を継がせるための胎盤としても使えない。それどころか、反逆者の子息として拭えないレッテルすら貼られかねないことを考えれば、下手な爆弾並に取り扱いに困る危険物である。それにわざわざ金を出してまで引き取るなど、まともな判断力を持っていたら出来るはずがない。
そしてこの場にいる貴族や富豪は、多少高尚な趣味を持ってはいるが、それでもそれなりに聡い者ばかりが集まっている。誰が好きこのんで、その身体以外に使い道のない奴隷マリアに、そこまでの無駄金を出すというのか。
「一万百」
騒がしさを貫くように、淡々とした声が響いた。風船めいて膨らんでいた喧騒は、その一声で、破裂したように消え去った。声の主は豚侯爵だった。そこまでして政敵の娘を地獄に味わわせてやりたいのかと、他の参加者達が戦々恐々とするなか、次の声が続いた。
「一万二百」
余計な声は許さない、というように、百を足して金額をつり上げたのはサブローだ。マリア目当てに参加したのは誰もが知っている。面子のためだろうか。今度は小声が漣のように広がっていく。いま容易く足された金貨百枚ですら、普通の奴隷一人分である。平民からすれば大金持ちである貴族たちも、大富豪も、自分の金銭感覚が狂いそうになっていた。
「一万三百」
「一万五百」
数字だけが、重なっていく。それは言葉にすればただの数字だ。しかし、金貨一万五百枚。この場にいる貴族の大半が、一生掛かっても払いきれない莫大な金額なのだ。
「一万一千」
「一万一千百」
先を行く豚侯爵に、追いすがる好色勇者。尋常ではない金額を提示され、最後にはそれが自分の値段として落札される運命にあるマリアは、まるで他人事のようにその数字の飛び交うさまを眺めていた。じっと見つめている先には、誰の姿があるのか。サブローか、豚侯爵か、それとも未だ無言の元婚約者か。
マリアの青い瞳には劇場の豪奢で絢爛なシャンデリアの、ぞっとするほど精緻で細やかな輝きが映り込み、燃えるように白く煌めく。嵌められた鉄色の手枷は、あたかもブレスレットのように手首にぴったりだった。着せられた質素なドレスは、薄暗い劇場のなかにあってただ一人舞台上で光を浴びて、まるでウエディングドレスのように清楚で眩かった。
「一万二千」
豚侯爵が、語調を強めた。両脇を固めた奴隷少女たちが心配そうに己の主の表情を窺う。好色勇者サブローは息をそろそろと吐き出すと、その金額の上を提示することはなく、劇場の天井を仰いだ。
「一万二千! 一万二千です! この上はありませんか!?」
一刻も早くこの重圧から逃れたいとでも言いたげに、司会は早々と鐘を慣らそうと試みる。
他の貴族達に、これを上回る金額なぞ出せるはずもない。その熱意もないし、それだけの理由もありはしない。プロらしからぬ司会の安堵の吐息が聞こえるような状況で、ついに落札が決まる。
「一万二千、十!」
「……一万二千十! 一万二千十が出ました! いませんか! 他に、いませんか!?」
百刻みから、五百で突き放し、そしてまた桁を上げてサブローを諦めさせた豚侯爵。一万二千という途方もない金額で落札されるかと思ったそのとき、ついに別の声が混じった。ここに来て十刻みというけちくさい真似に出たのは、やはりというべきか、マリアの元婚約者、アレフ男爵だった。
「ひとつ、聞いてもいいかね?」
それまでアレフなどまったく視界に入れず、意識もしていなかったであろう豚侯爵が、今日初めてまともにアレフの方を向いた。金額の提示ではなく、そうした会話はルール違反になるのだが、司会は止めることはできなかった。司会役の男もまた、豚侯爵と同じ疑問を持っていたからである。
「なんでしょう、侯爵閣下」
「君に……今口にした金額、きちんと払えるのか? 一万二千十だぞ。銅貨や銀貨ではなく、金貨一万二千十枚だ」
「払います」
「……このオークションは、終わり次第即金での支払いが必要だ。こう言っては何だが……たかが男爵風情が出せる金額とは思えない」
「閣下、ご心配ありがとうございます。しかし大きなお世話です。私はアレフ=ドーゲンビートル男爵。閣下も我が男爵家の噂くらいはお聞きになられたこともあるでしょう」
「なるほど。成り上がりのドーゲンビートルか。……しかし、それでも、この金額を捻出できるだけの身代は無いだろう?」
「別に、そんなことは重要ではない。私と侯爵閣下、そしてこの競売においては何ら問題にならない。私の手には支払えるだけの金がある。それだけが唯一絶対の事実です」
アレフは冷徹な瞳で睥睨する豚侯爵を前に、まったく引かなかった。金額の多寡によって落札者を決める場にあって、しかしこのやり取りは誰の掣肘もなかった。好色勇者サブローはすでに降りた。豚侯爵とアレフ男爵の他に、この泥沼のような競売に参加する間抜けは見当たらない。とすれば、残ったのは二人の意思の確認だけだった。
どこまでやるか。どこまでもやるか。
最後まで戦い抜くのか。マリアを落札するために、二人は何を賭けるのか。
誰もが固唾を呑んで見守っていた。司会すら二人の会話を邪魔することなく、静かにその無言の対峙が終わるのを待っていた。やがて豚侯爵がちらりと壇上のマリアを見て、嘆息した。アレフはまだ気を抜けなかったが、それでも勝利へのか細い道筋を辿っていることは確信していた。
あとは何を天秤に乗せるのか。
貴族として、何を得るのが一番得なのか。侯爵と男爵、立場こそ違えど、同じ視点を持つことが可能な二人だからこそ、落し所を探ることもできた。
アレフは賭けに勝った。豚侯爵は静かに座り直すと、目を閉じた。これ以上値段をつり上げないという、勝負から下りたという、誰の目にも明らかな意思表示だった。
アレフの闘いは、この瞬間のために、どれほど我慢出来るかに終始していた。豚侯爵はサブローが降りるまで引かないことは分かっていた。勝負から逃げたという評判が、サブローに負けた場合の未来が、金貨にして一万二千枚というとてつもない金額を吐き出させる理由になってしまった。だから、実のところ豚侯爵はマリア自身にさほど執着しているわけではなかったのだろう。アレフの見立ては正しかった。すでにサブローを降ろした以上、この金額の支払いを避けられる展開には侯爵は喜ぶと見込んでいたのだ。
豚侯爵はアレフに負けたのではない。譲ってやったのだ。
今ならば、このタイミングであれば、その名目が立つ。さほどいらない景品のために、その価値の数倍や数十倍の金銭を注ぎ込んででも、手に入れなければ気が済まないこともある。それを避けるためには言い訳が必要なのだ。
金貨一万二千と十枚。それはアレフの借金してまで集めた金額とほぼ同額だった。しかし、何が何でもマリアを落札する。その一世一代の賭けには勝った。ならば問題は無い。いや、問題はあるが、それでも構わないと胸を張って言える。
さあ、マリアを連れて帰ろう。今日のため、抵当に当ててしまった我が屋敷へと。今日だけはオークション会場として使われた舞台の外側で、繰り広げられた壮絶な一騎打ちは、まるで歌劇のようにあるべき結末へと辿り着く。そのクライマックスを誰もが固唾を呑んで見守っていた。
皆の期待を背負った成り上がりの男爵家、その嫡男アレフが、すべてを擲つ覚悟で行った一世一代の賭けに勝つ形で、決着が付いた。
それは愛の勝利だった。幾たびの苦難を乗り越えた主役が、ついに最後の敵を打倒した瞬間だった。奴隷マリアの落札者はアレフ男爵だ! 豚侯爵がその寛容さで譲ってみせた! 金貨一枚の決して安くない見物料を支払った貴族達、富豪達、ほぼすべての参加者達は多いに満足した。これは現場に居合わせることでしか感じられない興奮があり、目の前でしか感じ取れない二者の対峙の凄まじさだった。単なる見世物ではありえない真剣さ、マリアの命と全財産をチップにした大勝負。見るも涙、語るも涙の素晴らしき舞台だったと、観客達は自分たちが末代までの語りぐさ、ひとつの伝説の目撃者になったことを感謝した。こんなに面白い娯楽は他にない。ああ、なんて素晴らしい日だろう。あとは司会が落札確定の鐘を慣らすだけ。回りでこの感動を共有した皆と語り合いたいのだ。さあ早く、早く決着を!
「一万二千、二十」
大歓声の準備をしていた観客、つまりは参加者たちはみな、困惑した。水を差した馬鹿者は誰だろう。あの気にくわない冒険者、奴隷女の支配者サブローはすでに旗色を明らかにした。豚侯爵も、今更前言を翻す意味も必要もない。前途ある若者――マリアを取り戻せるがゆえに、その評判と、その出費により、栄光と破滅の綱渡りが約束された――アレフはすでに一万二千十を宣言し、司会の一声を待つばかりで、わざわざ自分で追加するはずもない。では誰だ。この完璧な筋書きに、余計な続きを付け加えた愚か者は。
貴族達も、富豪達も、顔見知りの声はすべて記憶のなかにある。声の主を捜すつもりで記憶を辿るが、そんな声の持ち主にはとんと覚えがない。安っぽい声だった。こうした競売に参加し慣れていない、下手くそな声の出し方だった。だが、重ねて言うが、金貨一万枚は途方もない大金で、全資産ならともかく、奴隷の購入費用として出せるような人間は王国中探しても片手で足りるはず。そのうち三人は出そろって、残る相手はこの場にいたとは思われない。なら、誰が?
視線は彷徨い、全員が声の主を探し回る。ぼったくりな参加費用も相まって、参加者の数はさすがにそこまで多くはない。すぐにそれらしき人物が見つかった。この豪華絢爛な王国劇場には相応しくない、見窄らしい身なりの男。上級冒険者サブローの装備品とは二段も三段も見劣りする、安っぽい容姿が目立つ。今までなぜ誰の注目も浴びなかったかといえば、ごく単純に席取りの妙である。後方について、観客達の様子が十分に見える位置に陣取っていたためで、きょろきょろと周囲を見回したりしない席主たちからは、ちょうど死角に当たる位置だったに過ぎない。
問題はそこではない。風采の上がらない、覇気もない、安っぽい身なりの、安っぽい顔付きの男だ。それがこの至上の娯楽、奴隷競売のオークション会場に紛れ込んでいることも場違いだが、クライマックスの盛り上がりに皆が浸っていたのに、それをどうして邪魔をするのか。警備兵に追い出すよう、誰かが声高に命令する。そこの不審者をつまみ出せ。だが警備兵は動かない。金貨一枚を支払った以上、どれほどこの場に不似合いそうに見える男でも、彼は参加者としての資格を持っている。冒険者が足を踏み入れるには分不相応な場である? 確かにそれはそうだろう。しかし、サブローが許されて彼が許されない法はない。では提示した金額は虚偽であろう。そんな金額、支払えるはずがない。オークションを意図的に妨害した、それだけで排除の理由には十分だ。口を揃えて、感動の一瞬を邪魔された貴族達が喚き散らす。
「なら、これで満足か」
見かけだけなら中流程度の冒険者、サブローと違って金を持っているようには思えないその容姿、にもかかわらず、彼は自分の脇に置いてあった丈夫そうな袋に手を突っ込んだ。それは美しい宝石の数々、金銀の宝飾品をごっそりと掴み取って、掲げて見せつけた。
劇場のシャンデリアから降り注ぐ光に照らされて、怪しく煌めく宝物たちは、それひとつひとつが凄まじい価値を持っているのが遠目にも分かる。この場にいるのは高尚な趣味を持った貴族と富豪ばかりで、彼らには目利きの素養も備わっていた。その目が信ずるのだ。彼の、あの戯けた冒険者の手にある財宝は、すべてが本物だった。一目見れば真贋の判断は容易い。金貨にして百枚から千枚は値が付くであろう貴重で素晴らしい財宝が、一つ、二つ、三つ、四つ、いやいやあの袋にはさらにひしめいていそうである。
「急いでたんでな。換金してくる時間がなかったが……即金なら、宝石や、装飾品での支払いでも良いんだろう? 見た感じ、この場に現金を持ってきてるのはいないみたいだしな。小切手が許されるなら、これで支払ってもいいはずだ。換金の手間はあるし、その分で多少さっ引かれても構わない」
豚侯爵は笑っていた。ひどくおかしそうに、そのでっぷりとした腹を膨らませて、たるんだ頬をゆらせるように、哄笑し続けていた。
好色勇者は、目を回す自分の奴隷たちに二言三言囁いて、立ち上がるとさっと会場を出て行った。もうこの場に残る理由は無いと言わんばかりに。
「なあ……俺は、一万二千二十と金額を提示した。何か文句はあるか?」
最高のタイミングで、横から掻っ攫う。
その戦略を、同じようにして返されたアレフ男爵は、いっそ哀れなほどに憎しみの篭もった視線を最後の声の主に向けていた。次善であった好色勇者でもなく、最悪であった豚侯爵でもなく、名前も知らない、見たこともない、わけのわからない吹けば飛ぶような冒険者。まったく警戒の対象になかった、しかし一番重要な場面で出し抜いてきた怨敵。だが、声は出ない。もう、出せない。自分の出した金額に、金貨十枚を積み重ねただけの男に、アレフはもはや立ち向かう術を持たなかった。あの金額が、自分の限界だった。もう乾いた雑巾を絞るようにして捻出しても銀貨一枚すら出て来ない状況だった。それを、まるで見透かしたように上回られた。豚侯爵を降ろすまでは、上手くやりとげたのに。落ちたら即死の綱渡りを渡りきったはずだったのに。
どうして、こんなことに。
「まだ、鐘は鳴らないのか?」
促されて、司会は尋ねた。この上の金額はありませんか? その声には当惑と、期待があった。こんな形での決着は誰も望んでいなかった。少なくとも、この場の参加者達の大半は。だからアレフの再起の声を待った。豚侯爵の嫌らしい横槍を待った。二人は黙っていた。サブローはすでに劇場の外だった。いくらかの沈黙を挟んで、鐘は鳴った。
奴隷となったマリアを最後に落札したのは、ジェスというほとんど無名の冒険者だった。ただ、参加した金を持った野次馬どもは、ことが終わってから思い返して、溜飲を下げた。そのあまりにも期待はずれの間抜けな顛末は、ある意味では予定調和をぶち壊した最高の結末と言えたからだ。一時は主役に躍り出たはずの元男爵アレフは予め約束されていた破滅のため一人で踊り狂ったに過ぎなかったし、豚侯爵は期せずして一切の金を使わず政敵の娘であったマリアを地獄に呼び込むことに成功した。その末路を直接見ることはかなわずとも、想像するだけでも楽しかろうと言われている。勇者サブローはハーレムの追加増員がならず残念だったかもしれないが、同じくらいの容姿の奴隷少女を五人買いそろえ、余った金で郊外に土地を買い立派な館を建てて、自分の奴隷たちと楽しく暮らしているという。
あの不埒な闖入者――参加費も払ったし、参加資格もあったから問題無いはずだが、貴族たちのサロンでは無礼な冒険者ということになっている。それは結婚式の最中に花嫁を奪う男の所業に等しいゆえ――うだつの上がらない冒険者ジェスは、落札金額として提示した金貨一万二千二十枚を即日支払った。持ち込んだ古代の秘宝の数々を支払いに充てたところ、鑑定料や換金料として相場よりいくらか高めに割り引かれたが、それでも十分に足りた。おそるおそる差し出された書類をざっと眺め、ひとつ頷くと下手くそな字でサインをして、取引はつつがなく終わった。奴隷の契約と主人の登録が完了し、名実共にジェスの所有となったマリアは、主人の希望によってすぐさま手枷と足枷を外され、その身には犯罪奴隷であることを示す首輪と、元々は純白だったはずのドレスだけを身につけて、そのまま引き渡された。
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