白衣さんたちのいるお部屋
礫瀬杏珠
第1話 春 case1 黒瀬さんの視点
春。青空の広がる車窓の外を流れる川沿いに枝垂れる桜並木。プリーツの乱れがない新しい制服のスカートは中学のものより短い膝上丈。良い天気だなあ。
ここが満員電車でなければ、素敵なんだけど。どんどん人乗ってくるし、降りられんのかな、これ。
大丈夫。きっと、多分。温かいカフェオレも飲んできたし、圧着のタイツも履いてる。
だから、まあ…………。
ダメだった。途中下車駅のベンチで俯いてグラグラする脳みそが落ち着くまで待機。1時間目は確か英語の小テストだったから、出たかったんだけど、満員電車でぶっ倒れる方が精神的にキツイ。
「……大丈夫ですか?」
スーツ姿の男性に声をかけられて、首を振った。大丈夫では無いという意味ではなく、話に答えられる余裕が無いのだ。朝から女子高生に声掛けるとか……とにかく、もう、どっか行ってくれ。
「突然声を掛けて、不審がられるのは当然ですね……1年生にはまだお会いしていなかったですし」
男性が私の斜め前にしゃがんで、何かを差し出した。名刺より少し大きな、ネックストラップのついた名札だ。刻まれた校章には見覚えがある。私の、今から登校するはずだった高校。
「養護教諭の、白井と言います……お名前、教えていただけますか?」
「黒瀬……」
言いかけてすぐにぐらり、と視界が揺れる。
頭を抱え、息を吐いた。嫌な汗……冷たくてじっとりとした汗が身体を伝って気持ちが悪い。
「1年生の黒瀬さん……ああ、4組の黒瀬花霞さん、ですね。無理しないで……今日はこれから学校まで行けそう?」
不安でいっぱいだったけど、頷いた。
ここまで来て帰るのは、なんか嫌だった。
「この症状出てるの初めてですか?」
首を振る。その後も何かと質問が繰り返されるのをYESかNOで返した。
「では、連絡をしておきますから、ゆっくり向かいましょうか」
あの人は、何故1年生だと分かったんだろう。と回らない頭で考える。ぼんやりと遠くに、男性の話し声が聞こえてきた。
「おはようございます。養護教諭の白井です。1年の黒瀬さんが通学中に体調不良を訴えているので、様子見てから登校させます……保健室の二条さんに繋いでもらえますか?」
ああ、養護教諭って保健室の先生のことか。
スマホで彼が学校に連絡をしながら、私の座るベンチから離れていった。暑くて寒い。感覚が全部ごちゃごちゃになったみたいだ。何本も電車を見送って、駅のホームには人が疎らになる。
通話を終えて戻ってきた私の目の前に差し出されたのは水の入ったペットボトルだった。普通に自販機で買ったらしいそれは勿論のこと未開封。おずおずと受け取って、ぺこりと頭を下げておく。
どうしろと?
飲むのか?
対応が分からずラベルを見つめていると、隣に彼……白井先生とやらが腰掛けた。その手にはミルクココアの缶。なんか意外。流石に生徒の前で飲むつもりは無いのか、ただ手のひらの上で転がしているだけだった。
「……もう、大丈夫そう?」
先生と目が合った。冷たい印象を受けるような銀縁の眼鏡の奥の、穏やかな瞳。少し癖の残る短い黒髪の毛先が風に揺れる。
「はい……」
先生が頷いて、ホームの行き先表示を見る。ラッシュの時間帯を過ぎて、各駅停車が混じった表示。とっくに始業時刻を過ぎていて、1時間目の英語の小テストには間に合わないだろうなと今更ながら悲観してしまう。
「この時間の各駅停車なら座れるでしょうね」
「……はあ」
「起立性の低血圧は、なるべく頭を低くしていた方が良いですから」
どこまでも穏やかな声。心配しているけど、慌ててはいないその姿はなんか……プロっぽいなって思う。
流れるようにホームへ入ってくる電車に合わせて、先生が立ち上がり持っているバッグにミルクココアの缶を突っ込んだ。
少し古い車両の、誰も座っていないシートに腰を下ろすとふかふかと沈み込む。結構、この座り心地が好きだ。
「……学校には慣れましたか?」
「まだ……クラスメイトにも仲良い子が出来なかったし」
隣に腰掛けた先生の質問に対してこの返し。あー、私の馬鹿。なんで適当に嘘つかなかったんだろ。ほら、先生黙っちゃったし。
「あの……でも元々、私友達そんな多い方じゃないんで…………全然、大丈夫ですから」
取り繕うみたいに手も表情もわたわたと慌ただしく動かしながら言い訳じみたことを口にしてしまう。いやいや、余計に印象暗くしてどうする、私。
この体質のせいで、中学校も朝から通えなかった。途中で気持ち悪くなって、おかしな挙動する奴と思われたから、せっかく出来た地元の友達も離れていった。そんな嫌なことを思い出して泣きそうなのを堪える。
「クラスで仲良くなれないのは、何かきっかけが?」
「……私、SNSのタグとか全然知らないまま入っちゃって、知ってる人全然居なくて……なのにみんな知り合いみたいに付き合ってて……出遅れたんです。教室、すごい居心地悪くて……」
「なるほど……入学前から知り合いなんて、すごい時代ですよね。本当に、大変でしたね」
電車の揺れが、先生の穏やかな声が……少しだけ心地いい。このまま最寄り駅なんか、着かなきゃいいのになって、少し陰湿なこと考えてしまう。
でも、電車は学校の最寄り駅に到着して先生が席を立つ。私も、恐る恐る立ち上がった。もう目眩も寒気もないけど、あの教室に向かうのが、なんか、嫌だなって……あはは、私ってば、不登校みたいじゃん。
「学校に着いたら、もう少し保健室でお話、聞かせてくれませんか?」
「……授業、出たいんですけど、だめですか?」
怒られると思って、恐る恐る口にした言葉に先生がそれもそうですねと言って笑った。学校がある方の改札に向かう、駅の地下に作られた連絡通路を歩きながら彼が腕時計を見る。真上を、電車が通過する騒音が無くなってから先生が口を開いた。
「今なら2時間目に間に合います……一応、今日の昼休みに保健室に来てくれませんか?無理にお話してくれとは言いませんが、体調の確認がしたいので」
「はい……分かりました」
今日初対面の先生とお昼ご飯?……まあ、一人でご飯を食べるよりは、マシかもしれない。そんなことを考えながら改札を抜けたところで、先生の携帯から着信音が鳴る。
「学校からです。黒瀬さんのことは担任の先生にお伝えしておくので、そのまま授業の教室に行ってください。途中でまた気分が悪くなるようであれば、いつでも保健室で待ってますので」
言われた通りに先に歩き出した。学校まで連れていってくれると思ったんだけどな……なんて少し、あれ?なんだろう。変な感じだ。
まあ、うちの高校と最寄り駅はとても近い。だからここで目を離しても大丈夫、ということなのだろう。ちらりと振り返れば、スマホを耳に当てて誰かと通話をしたまま、先生がひらひらと手を振る。穏やかな笑顔を向けられて、どういう訳か胸の辺りがざわざわした。
白衣さんたちのいるお部屋 礫瀬杏珠 @rekiseannzu
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