反乱

藤堂平助は新選組で活躍した人物で有名であるが高ゆきの「隠し子」といわれているが本当かどうか疑わしい。

高ゆきは無能ではなかったが藩主時代天災や飢饉が相次ぎ、藩の借金は200万両を超えている。

まあ、以前の藩主も藩政改革を行ったがうまくいかず、その「つけ」がたまったものでもあった。

おまけに時代は幕末で「軍事費」が増えていくのに頭を悩ますばかりであった。


藤堂家津藩の藩祖は藤堂高虎である。高虎は7たび主君を変えたといわれている。

これは戦国の世の中では「当たり前」の出来事であって「恥じる事」ではない。

なんとか「豊臣秀長」という人物に巡り合った。

「惚れた」という感情なのかもしれない。

秀長は高虎を3千石で雇った。しかし秀長の命は決して長くはなかった。

秀長の死後養子の秀保のもとで働いたが、その秀保も若くして死んでしまう。

この出来事に高虎は出家した。

「この人のために死のうと思った」秀長が死にその子まで死んで生きていく意味があるだろうか?

そう思い出家した。

しかし結果としてこの行動が高虎を幸運に導いた。

秀保亡き後お家騒動が起き高虎の同輩が処刑された。

秀吉は「出家」した高虎を評価し、秀吉直属の部下として採用された。

秀吉の部下となり、大名にまで出世した。

そのうちに家康とつながりを持つ。

そして関ケ原では大谷刑部軍とたたかった。


家康は外様大名である高虎を重用した。

高虎は秀忠にも使え、秀忠の娘「和子」の入内の使者としてたびたび京都に赴く。


高虎は思えば「命を懸けても惜しくない主君を選び」その人のために必死に働いた。ただそれだけだったのかもしれない。事実裏切りや寝返りという行為をしたことは無かった。


しかし「江戸時代」になると「裏切者」という汚名を背負っていかなければならなかった。つまり「儒教」が入ってきて「武士道」という新しい価値観が出てきたためだ。主人を何度も変えるのは「武士」ではない、というのが社会の主役となっていく。


高ゆきは悩んでいた。前述のとおり黒船に無足人に黒船の中を調べろとは実は幕府の「密命」であった。

高ゆきはいわゆる「佐幕」派で幕府が政権の中枢にあることを考えの中心にあったが、幕政には積極的にかかわっていない。

高ゆきは幕政にかかわるよりも、自らの藩を何とかせねばならないという思いが強かった。

慶応4年鳥羽伏見の戦いがおきる。

津藩は旧幕軍の一員として戦っていた。


高ゆきは突然家老たちを集めた。

「これよりわれらは新政府軍にくみすることとする」

一同を衝撃が襲った。

「殿」

「これは前々から考えておったのじゃ。われらを「狗(いぬ)」としか考えておらぬ幕軍に一泡食わせてやろうぞ」


高ゆきのこの一言で橋本を守っていた津藩は新政府軍に参加する。

このことが新政府軍勝利の一因となった。

「その行い藩祖(高虎)に似たり」と言ってそしられたが以後津藩が新政府軍の主力として大いに功績を遺した。


高ゆきは明治4年に息子の高潔に譲って隠居する。

そして明治28年83歳の長寿を全うした。


彼の胸の中にはなにが去来していたのか。それは誰にもわからない。

           完

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高虎の末裔 若狭屋 真夏(九代目) @wakasaya

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