第10話

 そのときだ。扉の鍵がガチャガチャ音を立てた。紫子がはっと顔を上げ、すぐそばの扉を凝視した。


 伯父が戻ってきたのだ。軽のエンジン音には全然気づかなかった。


 伯父は入ってくるなり言った。「ダメだ洋介……会長に連絡がつかない」会長とは、彼が懇意にしてるヤクザの親分のことだ。「ユニオンから圧力がかかったのだとしたら、もうおしまいだ……いっそここに立てこもるしか……」


 青ざめて、フラフラだった。肩をがっくり落とし、まるで前を見ちゃあいなかった。


 悪霊に持ち上げられていたオレは、高い位置からその姿を見下ろした。そこからだと、伯父のずんぐりした体型はより小さく見えた。うなだれながらぼそぼそとしゃべる伯父貴を見下ろすうちに、オレはあることに気づいた。


 この期に及んで、霊を信じないわけにはいかない。で、これまで話半分に聞いてた、紫子や伯父の霊に関する話を総合すると、つまりそういう結論だ。


 「おーい伯父貴ー」オレは高い位置から伯父に声をかけた。「とりあえずまっすぐ前を見ろー」


 伯父ははっと顔を上げた。そして、宙に浮いているオレを見て愕然とした。「な、な、なんだこりゃ? ……まさか……霊が」


 「そのまさかだー」オレは薄れる意識をなんとか引き戻しながら答えた。


 「本物の霊が、あのときの霊が、ここにいるのか?」


 「そうみたいだー」地縛霊というからには、同じのがずっと居座ってる可能性は高い。だとすれば、伯父はかつてこの霊に会い、そして生きて帰してもらえたことになる。その事実が、この場を切り抜ける鍵になるかもしれない。


 「だが、今の俺には見えん……全然見えんのだ!」伯父はがっくりと膝を折った。そして地面に手をつき、首を前に出し、いわゆる OTL のポーズになった。「ニセモノで追い詰められ、ホンモノにも近づけず、俺はこれからどうしたらいい……」


 伯父の苦悩につきあっている余裕はない。オレは生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ。オレは続けて、紫子に声をかけた。「紫子ちゃん」「はい?」今にも泣きそうだったが、まなじりを拭い、気丈に顔を上げてくれた。よし、まだ大丈夫だな。


 「紫子ちゃん」「はい」「人間の、霊を感じる器官は、ほとんど頭部か首回りで、頭髪はその能力を阻害する。そうだよね」「……えぇ」


 「紫子ちゃん」「はい」「落ち込んでる伯父貴の横に立って」「?」「いいから、早く」紫子から伯父までは数歩の位置だった。紫子はきょとんとしながら、言われるままに伯父に近づいた。


 「そしたら、隣でしゃがむ」「はい」「伯父貴の髪の毛つかんで」「は?」「つかんで」「……はい」「そのまま起立!」紫子は相変わらず頭の上に?を浮かべていたが、言われるままに立ち上がった。すると、自然に伯父の髪を引っ張り上げることになる。


 「え……あ、コラ!」伯父が反応したときにはもう遅い。ほとんど抵抗なく、不自然な黒髪───つまり、ヅラははずれた。その下から現れたのは、見事なまでにつるつるな頭頂部。


 甲高い悲鳴と野太い悲鳴が重なった。つまり、そうとは思っておらず、手の中の黒いもじゃもじゃを思わず投げ出した紫子の「きゃああああああ!」と、数十年来隠していた(つもりの)秘密が暴露された伯父の「うぁああああああ!」と。


 だが、伯父の悲鳴はやがて、少しずつ変質していく。「ああああ……あ……あ……あれ?」伯父は顔を上げ、立ち上がり、オレが浮かんでいる辺りの虚空をじっと見据えた。「……お久しぶり」


 ビーンゴォ。


 情けなくって涙が出そうだが、事実は事実だ。


 伯父が、人前に出たら霊能力が発揮できなかったってのは、ついつい隠したくなるその頭頂部に霊感点があるからだ。男性の霊能者っていうとフツー坊さんだよな。それもこういう理由だな、きっと。


 んで、紫子の説明から察するに、霊感点の概念は霊能者なら常識っぽいが、伯父はそれを知らなかったわけだ。オカルトについて学んだようなことを言っていたが、ギョーカイばかり学んで、オカルトそのものにはまるで触れてこなかったんだな。


 あきれた話だが、この際、どーでもいい。


 「伯父貴ー」


 「あ、え、な、なんだ」


 「さっきの話に間違いがなければ、伯父貴は以前、コイツと話ができたってことだよな?」


 伯父は視線をふらふらさまよわせていた。オレと、その霊とで視線を行き来させたのだ。そうするうち、どうやら、およその事情は飲み込んでくれたようだった。


 「あ……あぁ……そうだ」


 「ちょっとナシつけてやってくんね? オレ死にそう……」


 「いや……ナシつけるも何も、彼はおまえを殺さないよ。オレもむかし少し生気を抜かれたが、ちゃんと生かして帰してもらえた。オレはけっこう仲良くやってたんだ」


 「ハイ?」


 「まぁその、つまり、なんだ」伯父はこほんとひとつ咳払いした。「そいつは若い男の生気がお好みでな」


 「伯父貴、いま、『彼』って言わなかった?」


 「そうだよ」


 「ホモの悪霊かよ!」


 「驚くことか? 死んでなお霊となって残るほど強い念を持つのは、往々にしてマイノリティだからな」そりゃまた妙なところでリアルな話がまたひとつ。「なに、存分に生気を吸ったらじきに放してくれる。放してもらうその瞬間には、それはもうえもいわれぬ快感が……」伯父貴がぽっと頬を染めた。


 「やめろよ気色悪い!」


 「気色悪いとは何だ! 俺の大切な青春の日々だぞ!」


 「その青春の日々になんで襲われなくちゃなんないんだよ!」


 「あぁ、それはたぶん……」


 ここで伯父が不意に黙り込み、目を閉じた。さらには頭をふらふら振り始めたので何事かと驚いたが、要するに霊と対話を始めたらしい。


 ……やがて目を開いた伯父は、かの悪霊がオレたちを襲撃してきた真の理由について、次のように伝えてくれた。


 「えぇっと、つまりだな。……そこのクソガキのロリチビがムカツクのよ! このキャワイイぷりんっぷりんのおケツはアタシのモノなのにベタベタしてくれちゃってさぁ! 霊具もマトモに使えない無能のクセに、マジんなって剣振り回すのチョーウザい。アンタはヒィヒィ泣いて震えてればいいのよ! てかそのまま死んじゃって? ネェ、ヒィヒィ泣き喚きながら死んじゃって? キャハハハハ! ……と言っている」


 「……そのギャル語はどっから出てきてんだよ。つか、おケツってオレのこと? で何? なんかめちゃくちゃ筋違いな嫉妬してねぇ?」


 「要するに彼は、男好きというより、女が極端に嫌いなだけなんだよ。その憎悪で霊になってしまうほどにな。で、今は女性をビビらせることを生きがいにしている」


 「いや死んでるから。地縛霊だから」


 ……紫子は、この会話を黙ってうつむいたまま聞いていた。


 異様な空気が生まれたのを感じて、オレと伯父はそーっと彼女に顔を向けた。


 オーラっちゅうんだろうか、オレにも見えた気がした。その小さな体から、何かが立ち上っているような。


 「こ……こんな屈辱は生まれて初めてですわ……っ」あーあ。怒らせちゃった。こっちが本性か? カワイイとこの方をメインにして欲しいなぁ。「人を馬鹿にしてェ……っ!!」


 ゆっくりと顔を上げたとき、彼女の顔は恥ずかしさと怒りで真っ赤に染まり、吊り目は極限まで吊り上がっていた。拳を、固く固く握っていた。───急に息苦しさを感じた。例えるなら、そう例えるなら、その場にいた悪霊が、冷や汗流してうろたえ始めたら、きっと空気はこんなふうに淀むに違いないのだ。


 あぁ。これはもしかして、怒りパワーMAXでレベルアップという奴? 安直だな。でも、悪霊だろうとホモだろうと、女の子を傷つけ怒らせるようなことをしたら、相応の報いを受けてしかるべきだとオレは思う。


 ご愁傷様。成仏しろよ。


 紫子は、さっきは使えないと言っていたお札の中の一枚を取り出し、体の前に突き出して何やらもにゃもにゃ呪文を唱えると、携帯電話に巻きつけた。それから再び構えなおす。


 空気の流れが変わり、何もかもが彼女の手の中に吸い込まれていくような強い力を感じた───直後、「ハァァァァァッ!」これが裂帛の気合というものか、奇声とともに紫子がダッシュした。オレの真下まで走り込み、霊剣で、ズバリと虚空を切り裂く。


 ……しばらくして、伯父が膝を折り、つぶやいた。「あ、あああ……俺の青春が……」同時に、オレを支えていた物理法則にあらざる力が失われ、オレは床に落っこちた。


 しばらくオレは、そのまま工場の床に大の字になっていた。首だけ傾けて、凛と立ち尽くす紫子を見た。なんかポーズを決めているようにも見えるのだが、オレから見るとやっぱりミニスカセーラー服の女の子が携帯電話を握り締めているだけなのだった。

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