第9話
が、彼女はやがてきゅっと唇を引き結び、タオルを首からはずした。
「いつまでもこうしているわけにはまいりません。策を講じませんと」
紫子曰く、彼女の霊能力を感じて霊が目覚めたからといって、霊能力を封じればまた眠ってくれるわけではないそうだ。彼らを眠らせるには、むしろ弱らせる必要がある。人間は、日の出の光を感じて目覚めたとしても、日が沈んだら即眠るわけではない。けれど疲れていれば昼間でも寝てしまう。それと同じだ。
悪霊は今もなお結界の外で、憎悪の念を振りまきながら、結界によって作られた霊力の障壁を壊そうとして暴れているという。すっきり心地よい目覚めで絶好調ってか?
「ずーっとほっといたらどうなるの?」
「……結界の限界が先に来ます。正直、あと一〇分保つかどうか」
マジかよ。なんて役に立たねぇ結界! オレが紫子の立場だったら、末代まで母親を呪ってやるぞ。ん? それだと自分も呪うのか。
「あと一〇分で、何ができる? 霊と話し合ったりできないの?」
「わたくしの能力は、霊が見えるだけで、対話までは……お母様はできるのですけれど」
「さっきのお札、自分で書くことは?」
「……わたくしは、未熟で」紫子は、またばつの悪そうな顔になった。
「ああもう、それ言わない」彼女の霊能者レベルがスライムを卒業した程度なのはよくわかった。霊能者ったって中学生ならそんなものだろう。
彼女に与えられた仕事がインチキ霊能者の調査なのは、実力が伴わなくて、霊と渡り合う仕事を任せられないからに違いない───本人にその自覚はなく、ユニオンの役に立ちたい一心で引き受けたのだろうけど。
紫子に落ち込む暇を与えないように、矢継ぎ早に言葉を繰り出した。「持ってるお札って緊急用だけ? ふだん持ち歩いたりしないの?」
「えぇ、全然」
「霊能者なのに?」
「だっていつもは、アプリをダウンロードしてますもの」
「は?」
なんか、聞いてはいけないギョーカイの内幕が飛び出したような気がするぞ。
「手作りのお札は高額なんですの。だから組み込まれる術も高等なんです。まぁ、それを作って売っているのがお母様なんですけれど」
「いや、そうじゃなくて。ダウンロード?」
「えぇ、簡単な術はみなダウンロードです。……それが普通ではないのですか?」
「オレに訊くなよ!」オカルト業界もIT化か。妙なところでリアルな話があったもんだ。
しかし、ということは。「わたくしの携帯なら、いくつもメモリに入れてありましたのに……」なるほどな。伯父がいきなり携帯電話をシュレッダーにかけたのは、連絡させまいとしただけじゃない。ミーディアムユニオンの者が携帯電話で術を使うことを知っていたからなんだ。
納得したところで、オレは自分の携帯電話をもう一度取り出してみた。いまどきはこれも除霊の道具なのかと、ためつすがめつする。
あれ?「───ぎりぎり一本立ってる」
……そうか、換気扇の開口部があるから、室内よりは電波が届きやすいんだ。ここは完全にアンテナの圏外なのではなく、建物自体の電波遮蔽能力が高いんだな。
「ホントですか?」紫子の顔が、ぱぁっとほころんだ。「じゃ、お借りしてよろしいですか?」
……誘拐犯が、さらった相手に、連絡取らせるために電話を貸していいもんだろうか、と一瞬思ったが、今さらか。
「でも、オレの端末だよ? メモリーなくて、番号とかわかる?」
紫子は一瞬考え込んでしまった。……が、すぐに顔を上げた。
「ダウンロードサイトのURLなら覚えてます。お借りします!」オレの手から携帯をもぎ取った、かと思うやすさまじい勢いで親指が動き出す。やっぱいまどきの中学生だ。操作速ッ!「つながりました! これで霊具をダウンロードすれば、何とか」「……それって、パケ代いくら?」「知りませんよ。なんで定額にしとかないんですかっ!」
そのとき、トイレの扉がみしっと音を立てた。「まずい、結界がもう限界! 今からダウンロードして間に合いそうなのは……初心者セットくらいか……」初心者セットって。またオカルトらしくない単語が。「ダウンロードダウンロード……うぅん、まだ? この機種遅い!」いや、それ機種の問題か?
扉の音はどんどん大きくなってきた。ドアの掛け金がガチャガチャ音を立てた。開けられてはまずいのだろうと、オレがドアノブをつかんで引っ張ると、外からも強く引く力があった。ドアの向こうには……悪霊、しかいないはずだよな。
「よし、完了! 次は解凍……早く早く」外から加わる力は、ノブを回して扉を開こうとしているのではなかった。戸板全体を吸引している、そんな感じだった。マジ? マジこれ霊のしわざ? ラップ音? ポルターガイスト? うへぇ……生身に力を感じてはじめて、オレはオカルトのギョーカイにいるんではなく、オカルトそのものを相手にしているのだと思い知る。
「解凍終わり! で……この中で使えるもの……えっと、これは印刷しないとダメ、これは発動に時間がかかる……いま使えそうなのは……霊剣……危ないッ!」いきなり横から紫子に突き飛ばされた。紙のないペーパーホルダーにしたたか腰を打ちつける。
痛みは感じなかった。痛みなんか吹っ飛ぶ光景が目の前に生まれていた。ズガァァン! という激しい音とともにトイレのドアが真っ二つに縦に裂け、掛け金も蝶番もねじ切って、奥に向かって吹っ飛ばされたのだ。
「こんのぉう!」紫子が、携帯電話を剣の柄のように握り締め、ドアがなくなった場所に向かって振り回した。どうやら本当に霊剣ってやつになったらしい。携帯電話のアンテナから、ライトセイバーみたく刃が伸びているイメージか。
オレの目には、携帯を握って虚空を見据える紫子の姿しか見えない。が、様子を察するに、悪霊が斬撃に少しひるんで退き、紫子が中段に構え直した……というところか。にらみ合いになり、じり、じりとすり足で位置を変えていく。トイレから離れ、広い部屋の中へ。
剣道か何かやっているのか、紫子の立ち姿はけっこうサマになっていた。嫁入り前のお嬢さんがミニスカートの制服のままでしていい格好かどうかは別として。
「てぇいっ!」紫子が上段に振りかぶり、一気に斬り込んだ。だが、何か硬いものに当たったかのように弾き上げられた。畳み掛けて二度三度、フェイントなど交えながら斬りつけたが、いずれも弾かれ、有効打ではないようだった。逆に足捌きが乱れて後退、壁際に追いつめられてしまった。くやしげに歯を食いしばる紫子。
見ているだけというのは……なんか一生懸命やってる人がすぐそこにいるのに、トイレで腰抜かしているだけとは、さすがに情けない。とはいえ、見えないものを相手にできるほどオレは器用じゃない。
───と、オレの頭の中にある考えが浮かんだ。……オレからヤツが見えないってことは、ヤツからもオレが見えない可能性ってないか? だったらわりと好き勝手やれるんじゃね?
その考えが妥当なものか思量する前に、紫子が派手に弾き飛ばされ、壁を背に尻餅をついてへたり込むのが見えた。携帯電話を取り落とし、虚空を見るその目には敗北感がありありと浮かぶ。
思わず体が動いた。悪霊がいるであろう場所と紫子の間に割って入って手を広げていた。「あ……」紫子が息を呑んだ。
うわオレなんかすげぇカッコいいことしたー、と思った次の瞬間に、腰の辺りをぎぅぅと強く何かに抱え込まれる感覚が生まれた。当然だ。紫子はさっき、ヤツが『オレに向かって爪を伸ばした』と言ったじゃないか。ヤツはオレが見えるし、襲えるのだ。素人が思いつきで行動すると、ま、たいがいこういう結果だな。
オレは完全にとっつかまり、引きずり上げられた。足が床から離れ、霊が見えないオレの目には、物理法則に反して宙に浮いたように映る。うわっ、くっそっ、なんだこれ、悪霊ってのはこんなに力があるもんなのかよ!
あらがおうと腕を振り回そうとしたが、とたんに力が抜けて腕がそのまま垂れ下がる。思うように動いてくれない。妙な虚脱感。浮力を感じる……快くすら、ある。……もしかして本当に生気抜かれちゃってる?!
「いやあぁぁぁぁっ!」紫子が悲鳴を挙げ、めちゃくちゃに携帯電話を振り回し始めた。「洋介さんを離せェェェェっ!」彼女の顔面は蒼白だ。どうやらオレはマジでヤバいらしい。このままなんか全部抜かれて、取り殺されるらしい。全然実感湧かねぇ。これまでの人生にも生きてる実感はなかったが、死ぬ実感はなおさら見当たらない。
……紫子の攻撃は、やはり悪霊にはまったく通じなかった。また弾き飛ばされて、今度は、工場の入り口近くの壁に叩きつけられた。
紫子は、ついに床にへたり込んだ。「わたくしは……やっぱり……未熟で……無力で……ゴメンナサイ……ぐすっ……」あぁ、今度こそ泣くのか。泣いちゃうのか。女の子泣かすと罰が当たるぞ。
いや……もう、紫子を気にしている場合じゃなくて……オレの意識もどんどん遠のいていて……オレ、このまま悪霊に取り殺されちまうのかな。
女の子の盾になって死にましたってんなら、誘拐犯にまで落ちぶれちゃった身には、まぁまぁいい死に方なんかもしんねーけど……?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます