第8話

 どうやら紫子は、そのお札に期待をかけていたらしい。それさえあれば何とかなる、と思っていたようなのだ。


 強気な表情を保とうと努めていた彼女の表情が、少しずつ陰り始めた。札に触れる指先まで震えが走り始めた。しまいに彼女は、悔しそうに歯を食いしばりながら、お札の束をくしゃっと握りつぶしてしまった。「お母様も……人が悪い」「お母様?」「はい、このお守りは、母から緊急用にといただいたのですが……その結界のお札以外は、今のわたくしの霊能力では使いこなせない高度なものばかりです。とすると、あの霊に抗するすべは……何も……」


 ……最低限、身を守るためのお札だけはちゃんと入っていたってことは、そりゃあママさんわざとやってるよ絶対。腹黒なのか、千尋の谷に突き落とすというのか。つーか紫子ちゃんも、あらかじめ中身調べとくくらいしろよ。


 ……と、ツッコミを入れるのもはばかられるほど、紫子は落胆し、深くうつむいてしまった。


 「外、出られないんですよね」「うん」「連絡も、つかないんですよね」「うん」「どうしよう……わたくしが未熟なばっかりに……」


 え、と思った。彼女はこの状況を、自分の未熟のせい、と思っちゃうのか。


 今思えば、事務所での慇懃無礼な態度も、成熟した大人を装っていたのだ。そうでなければ、物事は解決できないと思い込んでいるのだろう。


 しかし、ムリヤリ準備もなく連れてこられた場所で悪霊に襲われて、自分のせいってことはないだろう。ロクなお札を入れなかった母親や、拉致監禁したバカのせいにして、テリア犬になってくれた方がまだ安心できるものを。


 も少しヘラヘラ生きていても何とかなるんだよ、とか、それを借金積み重ねたオレが言っても説得力ゼロなんだが、このままひとりで何でも抱え込んで、カラ勇気振り絞ってたら、紫子ちゃん、折れちゃうよ。


 「なんとかなるって」オレは何とか安心させようと言葉を繰り出した。こういうときの減らず口は得意だ。「地縛霊っていうからには、この工場から出ちまえば大丈夫なんだろ? じきに伯父貴が戻ってくるから、そんとき襲われるより先に脱出しよう。さて、出口まで、ダッシュでどれくらいかかるかな……」


 オレはドアを開けて、一歩外に踏み出し、トイレから建物の入り口までの距離を目算しようとした───とたんに、「ダメですッ!」紫子に、手をつかまれて引き戻された。「今の一瞬で、爪がかかる距離まで近づいてきました。出口まではとても間に合いません……」紫子は、オレの手を握ったまま離さなかった。


 オレとしては、悪霊に爪があるのか、という点が激しくひっかかるのだが、……どうもそんな場合じゃなさそうだ。紫子が、今にも泣きそうな顔でオレを見上げている。白くて柔らかい手に、ぎゅうっと力がこもる。


 「ダメです、そんな、無茶しないでください……死んじゃったりなんかしたら、わたくし、どうしたらいいか……う、ぐすっ」


 うわ……ヤバい! 泣きそう! もう心が折れる! ポッキリ行く! オレは悪霊なんかより、泣いてる女の子の方がよほど怖い!


 どうする? どうにか気を紛らわせないと。でも、悪霊に太刀打ちできなくて怖がる彼女に、何と言ったら励ませる? 生まれてこの方ずーっと、霊なんて一度も見たことないこのオレが、生まれてからずーっと霊を見続けてる彼女に、何が言える? ずーっと霊を見てきた、彼女に……。


 ……あれ、待てよ。


 おかしいな。なんか変だ。


 「紫子ちゃん」オレは紫子に尋ねた。「その悪霊、いつからここにいるの?」


 「はい?」


 「いやさ、その霊が地縛霊で、ずーっとこの土地にいるんだったら、オレたちこの建物に入った瞬間に襲われてるんじゃね? ってか、紫子ちゃん、なんで最初っから見えてなかったのさ?」


 「あ、それは、その……」紫子のマジメな性格には、単純な状況確認の質問は有効だったようで、涙も引っ込む事務的な対応に彼女を引き戻すことができた。「あの霊は、ついさっき現れたのです。わたくしの霊能力が解放されたので、それに反応して目覚めたのですわ」


 「霊能力が、解放?」


 「えーーっと……その」紫子は、ぽつぽつと話し出した。霊感の全然ないオレにどんなふうにどこまで話せばよいか、気を払ってくれているようだった。「今までは、縛られていて、猿轡もあって、だから」


 「縛られていると、霊能力って使えないの?」


 「猿轡の方が問題だったのです。霊能者が霊能者たりうるのは、霊感点と呼ばれる、霊を感じる器官というべきものが備わっているからで、どなたも、頭や首回りにあることが多いです。わたくしの場合は、それがぼんのくぼにあって、そこで感じたものが視覚と重なるのですわ」「ぼんのくぼ?」紫子は首の後ろあたりを押さえた。「ここを塞がれていると、霊は感知できません」


 なるほど? 猿轡していたタオルの結び目があった場所だ。おかっぱという古くさい髪型にしているのもそのせいか。


 「髪の毛が塞いでもダメなんだ」


 「はい、たとえ産毛でも、三日も剃るのを怠ると、とたんに感度が落ちます」


 「感度ねぇ……感じない方がいいこともあんじゃね?」さっきまで彼女の猿轡だったタオルは、オレのポケットに入ったままだった。取り出して、彼女の首に巻いてやった。そうすれば、ぼんのくぼが塞がる。「怖いものをわざわざ見なくていいよ、とりあえず」


 なぜだか、紫子がぽぉっと顔を赤くした。「あ……ありがとうございます」少し安心できたようで、しばらく慈しむようにそのタオルをなでていた。


 それから、ふっとひとつ大きく息をついて、便座の蓋の上にとすんと座り込んだ。


 「ごめんなさい、わたくしが未熟なばかりに、こんなことに巻き込んでしまって」


 「いや、巻き込んでんのこっち。ひっさらったりする方が百パー悪いんだからそういうの言いっこナシ。こっちこそホントにごめんな、伯父貴があんなパニックになるとは思わなかった」なんかちょうどいい位置にきていたので、オレは紫子の頭をかいぐりかいぐり撫でてやった。「紫子ちゃんはよく頑張ってるよ」


 ふにゅ、と紫子はなんだか嬉しそうな吐息を漏らした。「身に余ります、えっと……お名前はなんでしたっけ……」「塚堂洋介」「ありがとうございます、洋介さん」あ、なんか少しカドが取れて、かわいい顔立ちになってきた。ツンケンしてるのも悪くはないが、こっちの方がずっといい。

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