第7話
さて、と。
彼女を自由にしてしまった。伯父が戻ったときに元通りにしておかないと、何言われるかわかったもんじゃないのだが、おとなしく捕まってはくれるまいな。
この部屋は広いから、逃げ回られると厄介だ。出てきたところをすぐ捕まえるしかない。女の子がトイレをすませるのを手ぐすね引いて待ち構えるって状況は、かーなーり問題があると思うが、いたしかたない。
猿轡を取ったことも問題だ。あのキツい性格がテリア犬みたいにきゃんきゃん騒ぎ出したら手に負えない。オレ、女の子とモメるのヤなんだよ。一つ何か言うと、三〇は反撃してくるから。メンドクセェ。
水の流れる音が聞こえてきた。ドアが、きぃ、と音を立てた。さぁ来るぞ。オレは身構えた。もちろん、すぐ耳を塞げるようにだ。
……ところが。
予想に反して、紫子は暴れたり騒いだりしなかった。じっとして、黙っていた。それはそれでヤな状態だった。何しろ、おかっぱ髪の少女が、こちらからは片眼だけが見えるほどの隙間を空けて、トイレのドアから外を凝視しているのだ。
彼女はいったんぱたんと扉を閉めた。また、きぃ、と細く開いた。視線はオレを見ていなかった。ひどく青ざめて、オレの背後をじっと見ていた。ぱたんと扉を閉めた。また、きぃ、と細く開いた。今度はオレをまっすぐじーっと見て、ゆっくり手招きしている。
「すっげぇ怖ェからやめてくんね?」オレは唇の端を引きつらせ目を背けて答えた。……トイレの花子さんってどんなんだったっけ、いい妖怪だっけ悪い妖怪だっけ?
だがオレの気も知らず、紫子は手招きを続ける。「早く、いらして」声は、怒っているようにも何かに怯えているようにも聞こえた。しかたなく扉に近づくと、いきなり手をつかまれ、トイレの中に引き込まれた。
二人で立つと、吐息が感じられるくらいの距離になってしまう。そんな狭い場所で、紫子はやはり怒っているのか怯えているのかよくわからない表情で、オレを上目遣いににらみつけてきた。
「えっと……そのぅ……もしかして間に合わなかった?」言いながら、なんちゅうことを口走っとるんだと自分でも思った。だがオレにもよく状況がわからないので、思いつきを言ったまでだ。
彼女はぶんぶんと顔を横に振り、怒りと恥じらいと恐怖を一緒くたにした複雑な表情で、とにかく何か答えようとあたふたしたが、なかなか言葉にならなかった。目には相変わらず力があるが、足が小刻みに震えているのが、この狭い空間では嫌でも伝わってくる。
……ひょっとしたら、強気に振る舞ってるけど、やっぱりこの状況が怖いのかな。そりゃそうだよなぁ。拉致られて縛られたら、ショックを受けるのがフツーだろう。
「うーんと……だから……いろいろ手荒なことしてゴメンね。オレ、あの人に頭上がらなくってさぁ」
他人事みたいにオレが言ったあたりで、ようやく彼女の頭の中で何か噛み合ったらしい。
「あああ謝る気があるならはじめからしなければよいのですわっ!」
早口大声でまくしたてて、そこではっと口を押さえる。体をひねり、緊張の面持ちで、薄く開いたドアの隙間からまた外を凝視した。
「……その伯父様とは連絡がつきませんの?」
「いやぁ、ケータイ圏外でさ。伯父貴、カギかけてったもんで外にも出られないし」そのとき紫子が、びくんと身を震わせた。「……外に何かいるの?」
「いますよ」紫子が外を凝視したまま至極まじめに答えた。
「何が?」オレも思わず緊張して問い返した。
「悪霊です」
「はぃ?」
緊張が吹っ飛び、すっとぼけた声が出てしまった。
……えーと、オレには見えないんですが。
……てゆーか、もしかして、怖いのってそっち? オレとか拉致じゃなくて?
……てゆーかてゆーか、「きみ、霊能力者なのに霊が怖いの?」
「こここここわくなんかっ!」緊張しているところに図星を突かれ、紫子はビシィと背筋を伸ばした。それからきりきりとからくり人形のように体の向きをゆっくり戻してオレを見て、ばつが悪そうにこうつぶやいた。「ゴメンナサイ、ホントはちょっと……怖いです」おや、今までにない素直な言葉。
「そんなヤバいヤツがいるわけ?」
「怨念に満ちた地縛霊です。人間の生気を奪って殺す能力を持つ悪霊で、無差別な激しい憎悪をこちらに向けています」
「はいぃ?」マジかよ。そりゃ、確かに怖い。
「無防備で襲われたら、あなたも、わたくしも、ひとたまりも……」さしもの紫子でも、語尾が曖昧になる。
とはいえ、オレにはやはり何も見えないのだ。体をひねり、ちらりと外を見た。殺風景な部屋で目立つものは、オレが座っていたパイプ椅子くらいだ。霊がいるとはとうてい思えなかった。
「いいんです。わたくしが何とかいたします。霊能力のない方はじっとしていてください」勇気を奮い起こさんとぐっと小さな拳を握り締め、紫子がまた強気な表情を見せた。「先ほど結界を張りました。金剛不壊とはいいませんが、この中は当分安全です」
言われてみれば、トイレの閉じた蓋に何かお札が貼ってあった。なるほど? 霊能者っぽいことをする。
はてそういえば、彼女の荷物は事務所に置き去りのはずで、何も持ち出す余裕はなかったはずだが、と思ったら、彼女はお守りの袋を手に持っていた。今までは首からぶら下げていたらしい。それに十枚ほどのお札が入っていた。
「結界の他に、使えるものがあれば……」紫子はそう言って、お守りに入っていたお札を丹念に調べ始めた。
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