舟幽霊

 ゆかりと絵美は電車に乗りこんだ。

「じゃあね、言ってきます」

「ああ、いってら。気をつけて」

 そうして小旅行は始まった。

 絵美のおじさんとやらが経営している民宿までは、電車で一時間と言ったところらしい。

 女二人の旅のこと。話は尽きず、お菓子を食べたり、カードゲームをしたりしていると、時間はあっという間にすぎた。

「もうそろそろ着くころだわ。駅には、おじさんが迎えにきてくれているはずよ」

「絵美のおじさんかあ。小さいころに、一度会ったことがあるよね?」

「ええ、おじさんもゆかりのことを話したら、覚えていたわ。会えるのを楽しみにしていたわよ」

 降りる駅を車掌がアナウンスし、電車は到着した。

 絵美と二人連れ立って降りると、改札横でおじさんが待ってくれてた。こちらに大きく手を振っている。

「絵美ちゃん! ゆかりちゃんも。よくきてくれたね」

 がっしりした体格で、よく日に焼けており、声が大きい。いかにも海の男、という感じの人だった。

「おじさん、お久し振りです」

「絵美ちゃん、久し振りに会ったら綺麗になったねえ。ゆかりちゃんは、相変わらず元気そうだ」

「おじさん、ちょっと。絵美とのその差はなんですか! ……まあ、事実ですけど」

「あはは、すまんすまん。いや、会えて嬉しいよ。民宿で家内も待ってる。さあさ、車に乗ってくれ」

「ありがとうございます。ゆかり、いきましょう」

「うん!」

 そうして到着した民宿は、こじんまりしているものの、木の温もりが感じられる、アットホームな建物だった。

 おじさんとは対照的に小柄な、でも同じように笑顔の優しいおばさんに出迎えられ、絵美たちは部屋に通された。

「わあ、海が見える!」

 部屋からは目の前に海が見え、景色は最高だ。和室の部屋は広くはないものの、清潔で、畳の香りが心地よかった。

「いい部屋ね、ありがとう、おばさん」

「気に入ってくれて嬉しいよ。――夕飯は六時だからね。それまで、海で遊んでくるといい」

「うん。絵美、着替えたら早速行こうよ!」

「ゆかりったら、はしゃいじゃって……」

「民宿にはボートもあるからね、よかったら乗っていくといい。ただし、あまり沖へは出ないように気をつけるんだよ」

「はあい」

 ゆかりたちは早速水着に着替えると、海にでかけていった。


「うわあ、綺麗だねえ」

 都市部から離れているその海は、海水浴客も少なく、紺碧に深く澄んでいた。

 陽光に煌く水面が眩く、美しい。

「水、冷たいや」

 浅瀬に足を踏み入れると、海水は少しひんやりとして、気持ちよかった。

 二人はしばらく、浅瀬で泳いで遊んだ。

「ねえ、絵美。せっかくだから、ボートに乗ってみようよ」

「いいわよ。じゃあおじさんに借りにいきましょうか」

 民宿に行くと、叔父さんは快く貸してくれた。

 海辺まで、運ぶのを手伝ってくれる。

 波打ち際でボートに乗り込むと、

「あれ? ……何これ?」

 ゆかりはボートに妙なものが乗っていることに気がついた。

「……柄杓?」

 それは木でできた柄杓だった。――ただし、底が抜けている。

 これでは水が汲めないため、何の用もなさないだろう。

「これじゃ役にたたないじゃん」

 持ち出そうとするゆかりに、おじさんは重々しい声で言った。

「ゆかりちゃん、それは乗せてってくれ」

「おじさん? これがどうかしたの?」

「このあたりの迷信のようなものでな。海に出るときは、それを乗せていくことになってるのさ。だからゆかりちゃんたちも、忘れずに持っていてくれ」

 有無を言わさぬその口振りに、ゆかりは気を呑まれて頷いた。

「う、うん……わかった」

「ありがとよ。よし! それじゃあ、出すぞお!」

 おじさんがボートを押し出してくれる。

「おじさん、ありがとう! いってきます!」

 ゆかりたちはオールをこいで、沖へと漕ぎ出していった。


「海の色深くて、綺麗だねえ」

「時々魚が見えるわよ。波にゆられる感覚も心地いいわね」

 二人は沖合いに漕ぎ出ていた。ただし、あまり岸から離れないように気をつけている。

 いつでも戻れるあたりを、たゆたっていた。

 あたりには誰もおらず、沖を見れば一面の海原が視界を占める。

「ふむ。海か。久し振りだな」

「セン」

 ストラップ状態でついてきていたセンは、変化の術を解いた。

 潮風を浴びて、少し目を細める。

「ここなら人目にはつかぬだろう」

 そのまま、人型に変化する。センの純白の髪が光をはじいて眩しいほどだ。

 ご丁寧に、水着のオプションつきである。

「獣の姿では、海水に濡れるには適さぬゆえな」

「ふふ、こんな美少年と一緒に海水浴ができるなんて、眼福ね」

 絵美が冗談めかして言う。

 そのとき。

「ん……? なんだろう、あれ」

「どうしたの? ゆかり」

「いや、なんか白いものが……」

「白いもの?」

 二人で海面をみやると。

 ふわふわと、何か白い綿のようなものが飛んできて、海面にふわりと浮いた。

 それは一つではなく、あとからあとから飛来し、いくつも水面に落ちた。

「綿?」

「でも、こんなところに……?」

 センが警戒態勢をとる。

 綿のようなものは、次第にその大きさを増し、人の頭のようになった。

「なにあれ、人!?」

 それはやがて目鼻を持ち、ぬらりと海面にたちのぼった。

 気付けば、ボートはいくつもの人影に取り囲まれていた。

「セン!」

「見ておる。あれは……舟幽霊だな」

「舟幽霊……そうか、それで」

 絵美が何かを察したように頷く。

 人影はボートに近寄り、しきりに言い始めた。

「イナダ貸せ」

「イナダ貸せ」

「イナダ……?」

 わけがわからず混乱するゆかりに、絵美は言った。

「ゆかり、持ってきた柄杓を投げて!」

「柄杓……? え、この底が抜けた奴?」

「そう。お願い!」

「わ、わかった!」

 意図が不明のまま、それでも言うとおりに柄杓を投げるゆかり。

 すると、舟幽霊たちは柄杓にむらがった。

 そして、柄杓を使い、ボートに水を汲み入れようとする。

 だが、底が抜けているため一向に水は汲めない。

「愚か者め。いつまでもそうしておるがよい」

 センが水中に飛び込む。

 颯爽と舟幽霊に泳ぎよると、がぶりと喰い始めた。

「ひいい!」

 舟幽霊が悲鳴をあげてのけぞる。センはそれを捕まえ、がつがつと喰っていく。

 たちまち一体をぺろりと平らげてしまった。

 周りの舟幽霊がざわつく。

 センは近くのもう一体めがけ、喰いついていった。

 もう一体が食べられるのを見ると、他の舟幽霊たちは蜘蛛の子を散らしたように去っていった。

 後には静かな波間だけが残る。

「消えていった……?」

「セン、ありがとう!」

 センがざばりとボートにあがってくる。

「他愛ない奴らであったな」

「うん、よかった。……絵美、さっきの柄杓って、なんだったの?」

「舟幽霊が言っていたイナダっていうのはね、舟で使う柄杓のこと。素直に渡すと、それで水を汲み入れられて、舟を沈没させられてしまう。だからね、柄杓の底を抜いておくの。そうしたら、いくら水を汲もうとしても汲めないでしょう? それで、舟幽霊も諦めると言われているのよ」

「へえ……。だから、柄杓が舟にのってたんだね。おじさんたちも知ってたのかな?」

「まさか本当に出るとは思っていなかったでしょうけどね。古くからの言い伝えではあったのでしょう。おまじないとして、舟に乗せていたのではないかしら」

「おかげで、助かったよ。それにしても、せっかくの時間を邪魔されちゃったな」

「そうね……。もっとゆっくりしたいところだけど、妖怪がでては、さすがに気味が悪いわね。早めに、岸へ戻りましょうか」

「仕方ないね」

 ゆかりは言って、オールをこぎ始めた。

 しかし、いくら漕いでも漕いでも岸に進まない。

 それどころか、どんどん沖へ流されているかのように、ボートが進み始めた。

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