0-3

 その瞬間、俺の指先は岩のように硬い壁にぶつかった。


 ぐきりと音がして、指の関節に激痛が走る。


「!?×▲○×※★〒●×→●×▽!!!!!!!!」


 ぐぎゃぁああああああああああああえええええええええええ!!


 手から頭に突き抜ける痛みに悶絶した。


「が!……っぐ……う……くぅう!」


 つきゆび! 突き指したぁああああああああああ!


 そう心の中で叫ぶが、体はあまりの痛みに歯を食いしばり、息を止めていた。


「くっ……!」


 俺は痛みに耐えながら、指をL字形にして手首をひねる。すると目の前にメニュー画面が開いた。慌ててログアウトボタンを選ぶと、視界が真っ暗になり『HELLZ DOMAIN』のロゴが浮かび上がる。


 片手でヘッドマウントディスプレイを外し、グローブ型VRコントローラーを投げ捨てた。そして俺は涙目で、コントローラーがつながったPCの画面を見つめた。そこには赤いエラーウインドウが点滅している。VRコントローラーの触感フィードバック機能が誤動作を起こしたらしく、設定の数値がMAX値に振り切れている。これでは鉄の壁に向かって指を突き出したのと変わらない。


「くっそ……いいところだったのに」


 その時、携帯電話の着信音が響き渡った。


 あーもう、何だよこの緊急時に! 液晶画面に表示された発信者の名前を見た瞬間、血の気が引いた。思わず指の痛みを忘れて携帯をつかむ。


「もしも――」


 俺の言葉をさえぎって、鼓膜を破るような大声が飛び出した。


「ちょっと! 魔王ヘルシャフトのデータが上がってないじゃない! なにやってんのよ!」


 やべっ! せっかく朝までかかって作ったデータなのに、送信してねーや!


 電話の主は哀川あいかわ愁子しゅうこさん。俺がバイトしているゲーム会社『HELLZ DOMAIN』の社畜、いや社員だ。魔王ヘルシャフトというのは、現在絶賛開発中のゲーム『エグゾディア・エクソダス』に登場するキャラクターである。


「哀川さん、すみません! もうデータは出来ているんで、すぐに送ります!」


「まったくクライアントに催促されないと納品しないなんて、有り得ないわ! データがなくて私の朝の仕事が五分無駄になったじゃない! その分の費用はバイト代から引かせてもらいますからね!」


「ちょ、待ってくださいよ! 俺だって徹夜でデータ作ったんですから! 魔王ヘルシャフトの音声データとモーションデータを各百五十点ですよ!? 昨日の夜に発注受けて、朝までってひどいですよ!」


「はぁ? お金もらっている分際で何をほざいているの? あなたみたいな中二病こじらせたぼっちのニートなんて、これくらいの仕事でしか社会に貢献できないでしょうが」


 いや。俺、一応高校に行ってるんだけど。ぼっちで中二病は否定しないけど。


「あのー哀川さん? お金と言われても、昨日の発注は全部リテイクじゃないですか! 完納の出来高契約だから、リテイクってただ働きなんですよ!」


「出来が悪いからリテイクしてるの! チェックする回数が増えて、こっちも迷惑してるんだからね!」


 いや、昨日のはどう考えてもリテイクじゃなくて、仕様変更だろ。明らかに注文内容が変わってる。きっとディレクターが気分で演出を変えたんだ。俺はあきらめて、わざとらしく大きな溜息をついた。


「はぁ……とりあえず、データ送ります。五分以内に」


「三分以内で!」


 怒鳴り声と共に電話が切られた。


 哀川さんはまだ若く、二十代前半。はっきり言って美人で可愛い。少し茶色がかったロングヘア。綺麗にスーツを着こなす姿は、いかにもデキるキャリアウーマンという感じだ。初めて会ったとき、この容姿では、社内で男に言い寄られて大変なんじゃないかと思った。だがあれは人じゃない。人の形をした鬼だ。気が遠くなるリテイクや仕様変更はこの人からの指示だ。


 しかし哀川さん、こんな朝早くから出社してるのか。あの人はあの人で、社内で大変なのかも知れない……が、その辛さをこちらに丸投げして良いという法律もないぞ。


 俺はPCのマウスをつかむと、徹夜で作ったデータをFTPサーバーにアップロードした。デスクトップの時計を見ると、もう学校に行かなければならない時間だった。


 俺は取るものも取り敢えず、カバンをつかむと部屋を出た。リビングに行ってきますと声をかけると、母親の適当な返事が返ってくる。親父はもう出社したらしい。どこの世界もサラリーマンは大変だ。俺はなるべく楽をして生きたい。無駄なことは人に押し付け、上手く立ち回って、最小の労働で最大の成果を挙げてエコに生きるのだ。


 その為の勉強期間と思えば、ブラック企業のバイトも、高校卒業の証明を得る以外には何の意味もない毎日の登校も我慢出来る。


 自宅のマンションを出て、爽やかな朝の空気を吸っても、あくびは止まらない。寝ぼけまなこを頼りに、最寄り駅までの道を歩く。


 徹夜で仕事をやり終えたテンションで、朝霧あさぎりのVRデータの更新なんかしなきゃよかった。一時間でも寝ておけばよかったと、今は後悔している。若気の至りだった。


 しかしマイ朝霧はなかなかいい出来だ。本物と遜色ない。本物相手じゃあんなこと出来ないからな。むしろ、本物よりマイ朝霧の方が良いかも知れん。


 そりゃあ本物と仲良く話をしたり、一緒に遊んだり出来たら、VRの朝霧なんて必要ないけれど、学園のアイドルとスクールカースト最下層の俺じゃ、そんなことは起こりえない。そんなのSFだ。


 だが朝霧のデータを作るのも無駄じゃない。将来は3DCGとか、グラフィックの仕事をするのもわるくないな。


 ……と言っても、朝霧のデータの体は、エグゾディア・エクソダスのいくつかある基本モデルから選んだものを、そのまま使っている。差し替えたのは顔だけだ。それも写真を顔に貼り付けて、ソフトウェアで適正化をしただけの話だ。


 だが後ろめたいことは何もない。これはいにしえより伝わる、コラという伝統的な手法だ。もはや伝統芸能と言ってもいい。俺はこの伝統を受け継いで後世に伝えていかなければならないのだ。


 そもそも、朝霧の裸なんか、見たこともないし数値も手に入るはずがないんだ。ゼロからフルスクラッチで作るなんて不可能だよ。


 そんなことを考えながら電車に乗り、我が母校公立南明神高校へやって来た。二年A組の教室へ行くと、いきなりVR空間に迷い込んだかと錯覚した。


「あ、おはよう。堂巡どうめぐりくん」


 なぜなら、朝霧がそこにいたからだ。


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