第11話 幻影


「おはよう、掬。今日の予定は‥」

「うーん」

 まるで部活の朝練みたいだと思いながら、掬子は相槌を打った。というか学生時代から社会人に至るまで、ずっと体育会系なのが結木だ。今更、休日の朝からうっとおしいだとか、軍隊みたいだとか、何を言ってみたとて無駄であろうと、最近の掬子は聞き流すようにしている。

 そして結木も、やる気のない起き抜けの掬子を気にする様子は全くない。

「ブランチして、買い物して、夕方までには帰って、一週間分のおかずを作る。プラスこの間、鬼怒川で買った日本酒に合う夜ご飯を作る。そしていい感じになっ‥」

「はいはい」

 そんな上手く行くのかと思いながら、掬子は首を縦に動かした。大枠を決めるのは結木だが、細部を決めるのは掬子のほうである。


 同居をし始めてから、結木はいきなり自炊派に方向転換した。気軽に外食できない自粛ムードのせいもあっただろうが、結木の中で同居と家庭料理はイメージとしてセットになっていた節もある。二人の休みが重なる日の朝食か夕食は、必ず何か作ろうと提案してくるのだ。

 重い腰を「人をダメにする」と言われるクッションから上げて、洗面台に顔を洗いに行こうとする掬子を、結木が満足げな表情で見送る。結木自体はとっくの昔に起床して、ジョギングして、シャワーまで浴びているのだ。もう、休日の気合の入れ方自体が違っている。

「だって、たまの二人の休みでしょ」

 結局見送るのでは満足できず、洗面所までついてきた結木が、背後から抱きついてきた。 

「うわっ、何っ?」

 ふわりと香るボディソープと結木の体温に、意外なほどぞくりとしてしまう。

 現実的なデート?プランを計画してきたわりに、結木の両手は妖しい動きで乳房を握りしめてくる。

 左右の指先が同じタイミングで乳首をなでてきて、体に震えが走った。

「欲しい?」

 さらりと耳元でささやかれて、掬子はぐっと言葉に詰まる。そんな事は一切思ってなかった、結木に触れられるまでは。

「欲しいって‥」

「診てみましょうか?掬子先生?」

 何の躊躇もなく、前開きのパジャマのボタンをはずしにかかる結木を掬子は洗面台の鏡越しににらんだ。

「だって、少し触ったら分かるんだ。そろそろ欲しくなる頃だって」

 悪びれることもなく結木の手のひらが掬子の乳房の重みを確かめるようにすくい上げ、上下に揺らした。ここ数日、少し張りが出て重くなってきた胸に掬子も改めて気づかされる。

 手のひらが乳首をかする度、固くなっていくのが分かる。敏感になった乳首はさらに強い刺激が欲しくなる。

「結木さん…」

 少し困惑しながら、掬子は結木を見上げた。試されているのか?誘われているのか?いや、9割方は誘われてるのだろうが、これは今日のスケジュールのタイムロスにはならないのだろうか?

「だって、先にすっきりしたほうが、活動的になれるんじゃないかなって」

 掬子の意図を察した結木が真顔で答えてくる。こういう情欲?にドライな発言が掬子には全く理解できない。

「バカ」

 腕からすり抜けようとした掬子を結木が瞬時に引き留める。

「なんで?むらむらして、訳もなくイライラするより、よっぽどいい」

「イライラしてました、私?」  

「…いや、イライラしてたのは私のほうかな?」

 とびきりの秘密みたいに、結木は低い声になった。

「全然掬に触ってない」

「…結木さん」

 その言い分はずるい。

 掬子が動きを止めたのをいいことに、結木の右手が下着の中の敏感な部分をまさぐり出す。左手が両乳房のてっぺんを軽く弾くと、合図のように体の内側から熱がしたたる。

―結木の指が受け止めてくれる。

「ほら、もう溶けた」

 耳元で、背中に触れた吐息が体温より熱い。

 右耳を甘咬みしながら、体の内部をなぶるようにかき回す結木に、掬子は早々に根を上げた。

「…結木さん」

「なあに?」

 穏やかに誘う声音と眼差しに、つい流されてしまう。いや、別に流されてもいいのだ。ここは二人だけの空間なのだから。何も考えず、欲望のまま温かな身体に身を委ねても…

「ねぇ、早く…早くいれて…っ」

 かすれた声で言い終わるか否か、次の瞬間、物分かりのいい恋人はぐっと掬子の最奥に入り込んできた。

「んあっ」

 一気に内蔵を突き上げられるような、息がつまる感覚に、少し早いと思わなくもない。しかし、一度落ち着いて、全てを受け入れてしまえば、いつもの、確かなものを待ち焦がれる柔らかな襞は、結木の指をより子宮の奥へ奥へと引き込もうと蠢く。

 だが、掬子の快楽の波以上に、今日の結木の動きは性急だった。

「掬…っ掬っ」

 取り憑かれたように荒く息をつき、何度も名を呼びながら、激しく腕を動かす。

「ああっ。ああっん…あん!」

 いつもは時間をかけてなぶられる最奥を泡立つほどかき乱されると、動物のような声が止まらない。

「ああっ、いいっ、結木さんっ!」

「掬、いいよ。すごく…」

 体の内側に凝縮された快楽の逃げ場を求めて、掬子が顎や首筋に口づけると、結木もゴクリと喉元を震わせた。

「ああ…掬、すごい、こんなに」

 やけに艶めいた声が掬子をさらに煽り、下腹部にしびれのような振動が走る。

「ああ、すごいっ…掬っ、私が入っちゃう…」

 こっち来て!といきなり腕に誘導されて、掬子はくるりと体を返された。向かい合うのは目がやけに鋭い、余裕が抜けた結木だ。

 壁に身体に預け、そのまま片脚だけ大きく抱え上げられる。

「ああ!」

「こっちのほうが、もっと良いから」

「ああんっ、ああっ…」

 向かい合って抱き合うと、さっきとは異なる角度で、結木の二本の指がずっぽり膣に収まった。しかし、奥まで届いたと思った瞬間、すぐに浅い部分に指先を戻してしまう。

 手に届きそうで届かない絶頂に頭が真っ白だ。

「結木さんっっ…もうっ」

 これ以上、快感を引き伸ばされたら身が持たない。結木に掬子はわずかに残った理性で訴えた。

「もうっ、もう無理ですっ、もうだめっ」

 これ以上されたら、今日はどこにも行けない。

「ああっ…」

 掬子の意図を理解したのか、声を荒げて、結木が奥を突き上げてくる。掬子の蠢く内部に合わせ、何度も何度も同じ行為を繰り返す。

「ああ…いい…」

 両腕と片脚を激しく動く結木に巻きつけ、掬子は久しぶりに全身で恋人を味わった。



 この紅茶専門店では二人ともミントミルクティーを頼む。最初は掬子だけだったのが、3回目からは結木も同じ物を注文するようになった。曰く、気に入ったからと。紅茶なんてアッサムかダージリンしか知らなかったからと。

 知らなかったというだけでなく、興味がなかったのだろうと掬子は思う。掬子がかつての恋人だった朝美と出かけたような場所―例えばおしゃれなカフェとかフレンチ、ホテルのエステ―に。そんな相手と今や同居し、スーパーで買い揃えるべき商品について話したり、

「いや、やけにせっかちだったなと思って」

 ―大丈夫?私、ブレーキがきかなくて。

 珍しく不安げに結木が聞いてきたので、掬子は何を今更と肩をすくめた。

 以前の結木はもっと容赦ない快楽を掬子に与えていたはずだ…甘い毒が脳髄まで回り、しびれて真っ白になる瞬間は、二度と味わいたいものではないが。

「…あの場所であれ以上時間をかけたら、今日の予定はこなせないと思ったんです。体は痛いですけど、結木さんこそ大丈夫でした?私、かなり体重かけてたと思います」

 セックスの感想まで口にするようになっている。

 結木といると、仕事も家事も恋愛も全て生活の一部なのだと思い知らされる。朝美との恋愛を、自分の生活の中で、特別なこととして切り離して考えていた自分とは全く違う。

「まあ筋肉痛は出てるけど?私は滞りなく休日の予定が遂行できれば、満足なわけで」

 一口、紅茶をすすった口元を意味ありげに吊り上げてくる。

「ああ、日本酒に合う夜ご飯でしたっけ?」

「‥そうそう。それもあるけど」

「え?」

 他にも何かあったっけ?と掬子が考えあぐねているうちに、結木は来週の手術の動画を見始めてしまった。端から見たらグロテスクにしか見えない作業も、結木にとっては日々の営みの一つなのだろう。

 パンケーキとサンドイッチが来るにはまだ時間がかかりそうで、結木は来週の手術の動画を見ながら生返事をする。

 取り立てて急を要する仕事を思いつかない(のが結木との大きな差なのだが)掬子は、日本酒に合う料理レシピをスマホで検索する。

「肉と魚どっちがいいですか?」

「どっちもじゃないの?お刺身買って、肉は焼き鳥‥だと居酒屋と変わらないか。豚の角煮とか?」

「どっちにしろ居酒屋メニューですけどね。じゃあ卵と大根も入れて…」

 返事がないので、掬子がスマホから顔を上げると、結木がタブレットを凝視し、しきりに両手を動かしていた。この短時間でよくもまあトリップできるなと感心しつつ、来週は結木にとって?厳しい日々になるのだと予想がついた。

 今日の休みを心行くまで満喫してほしいと思いつつ、負けず嫌いの血が騒いで、掬子は手がつかないままだった書きかけの論文をスマホで読み始めた。


「あ」

 セルフレジの列を目前に、掬子は足を止めた。カートを押す結木のシャツのすそを引っ張る。

「ねえ結木さん、卵なくなりかけじゃなかったですか?」

「え、そうだった?2.3個はあったような…あ、でもこの半月は絶対卵を買ってない、私が全然帰ってこれなくて…」

 大抵のことには自信たっぷりに答える結木が、無駄に真剣な表情で悩み始める。上背があり、中性的な風貌をした結木は、カートを引いていても主婦には見えない。異様な迫力に『モデルさんじゃないの?』と通りすがりの夫婦がつぶやくのが聞こえる。

「朝食のハムエッグやら、お弁当の卵焼きやらで結構使ってるし、せっかくならたくさん煮卵作りたいんですよね」

 取ってくるので並んでてくださいと、そのままついてきそうな結木と興味津々の買い物客を残し、掬子はスーパーの真ん中あたりのコーナーにあったはずの卵売り場へ向かった。少し高いけど6個入りの平飼い卵にするか、どうせ煮卵にするのだから安いのにすべきか、自炊経験一年未満の結木に相談しても無意味な問いを自身で繰り広げる。

 生活費は全て折半、給料日に同額を掬子名義の共同口座に入れるよう設定し、家賃や光熱費はそこから引き落とされる。食料品や日用品も共同口座からのカード払いだ。外食代は交互で出し合っているのもあり、共同口座には少し貯金ができている状況だが結木はおそらく気づいてないだろう。貯金が溜まったら旅行に行くとか、何か目的があれば節約もしがいがあるのだが、基本、小旅行程度ならお互い自身の財布から出してしまっているし、長期の海外旅行となると、掬子以上に休みが取れない結木にはハードルが高い。

 海外…朝美とは彼女の大学の卒業旅行でイタリアに、掬子が医師になってからはグアムや台湾に行った。そもそもが帰国子女で外大に進学した朝美は英語と中国語が流暢で、旅行の時は自慢の彼女に尊敬すらしたものだ。

 朝美としかできない経験があったのと同じく、結木としかできないことがある。それならば、今、佳澄とできることを大切にしたい。

―そういやソファが欲しいって言ってたっけ?

 結木のマンションにあった豪華な革張りのソファは、コンパクトな2LDKのリビングには不釣り合いすぎて、置いてきたのだ。

 今度の二人一緒の休みは家具屋巡りを提案しよう…

 たどり着いた卵売り場の棚に手を伸ばした矢先だった。

「みやちゃん?」

 その声だけで分かる。ギリギリ甘くなりすぎない、明るい響きに掬子の心臓は跳ね上がった。

『ねえ、今宮だから、みやちゃんでいい?』

 初めて会った中学生の時の姿が目に浮かぶ。目元をくしゃりとさせ、めいっぱい口角を上げて笑う口元が掬子をそう呼んだ時。

 卵のパックを掴み損ねたまま、掬子は振り返った。

 心を奪った、初夏の太陽みたいな笑顔が目の前にあるのは、もう分かりきっていた。

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Hen’s night–女たちの饗宴– 藍川みのり @19830212

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