第10話 蜜夜


 人気のないマンションの駐車場で「少しだけ」と口づけをしたのがいけなかった。

 少しだけ、と口唇に。当然のように耳から首筋へ、そしてVネックのニットの下のブラジャーまでずらされて…

 抱きかかえられるようにして入った結木の部屋の玄関で、掬子は胸に顔をうずめる恋人を強くかき抱いた。

 車内でも何度も音を立てて吸われ充血した乳首に、唐突に息を吹きかけられると腰から力が抜け、結木ごとドアに倒れこんでしまう。

「やぁん」

 自分でも嫌になるほど甘い声をあげた掬子に、今度はスカートの下から臀部の肉を両手で揉みながら、結木が意地悪く聞いてくる。

「上と下どっちが好き?こうやってされるの」

「それともどっちも?」

 ぺろりと右側の乳首を舐められるとさらに下腹部から熱いものが滴るのが分かった。

「ああ…どっちも…」

 どっちも大好きです。結木の頭に顔をうずめて掬子はささやく。

 これは朝、二人が当直室で出来なかったことの続きなのだ、きっと。

 お堀端のおしゃれなカフェでアフタヌーンティーをして、さらにこんな形で愛欲の埋め合わせまでしてくれる。

「結木さん、私、もう…」

 3週間、結木と会えなくて、たまらなかったのは、きっと掬子のほうだ。

―心も体も。

 結木の両手に手を置き、掬子はぎこちなくストッキングをずり下げる。生暖かく湿った太ももを確かめた結木は素早く動いた。

「ああっ!」

 玄関先だということを忘れて上げた声を戒めるように、結木が口の中にも指を入れてくる。妖しい水音を立て上下ともに激しく突かれながらも、掬子も負けじと全身で結木を飲み込もうと体をしならせた。

―今日は私が欲しかったのだ。

 下の口で根本まで結木の指を咥え込んで、掬子が左右に腰をうねらすと腕の中の背中が大きく震えた。

「ああ、いいっ。飲み込まれる」

「結木さん、いっぱい、いっぱいください」

 外を気にしていたはずなのに、たまらず声を出した結木と目が合う。もう気恥ずかしさも、過去のような共犯者めいた背徳感もない。ただ純粋に互いが互いを求め合っているだけ。

「ああっ、もうっ…」

 すごいと枯れた声で口走り、結木は掬子の右脚を大きく開いた。

 体位が変わることで、より奥まで結木を受け入れられるのが嬉しい。

 自らの手で脚を開く代わりにキスをねだった掬子に、結木は熱い舌で応えた。結木の指の腹が何度目か、子宮の奥の奥に触れた時、掬子は全身を震わせながら結木ともども、床に崩れ落ちた。


 事後でも結木はけろりとして、スーパーで買い込んだ食材を冷蔵庫に放り込んでいる。晴れ晴れとしてさえ見える表情はスポーツでもやってきた後かのようだ。

 対照的に掬子はなかなか情事の後の気だるさから抜けきれない。

 今晩はサラダとアヒージョとパスタを食べようと話していたのだ。かつて料理をしているところなんて、一度も見たことがない結木だったから、掬子は数少ないレパートリーの中で自分が作れるものを作るつもりだった。

「結木さん、後は私がやります」

 パスタの麺やバケットまでも冷蔵庫に入れようとする結木にたまらなくなって、掬子は立ち上がった。

 しかし、

「あ」  

 思わず上げた声に結木が振り返った。

「どうした?」

「えっと…」

 慌てて玄関に向かったものの、そこはすでに片付けられた後だった。

「もしかしてパンツ?洗ってるけど」

 履くの?あんなに濡れてたのに?

 心底いぶかしげな顔をした結木を無視して、掬子は持ってきた荷物から下着を取り出した。

「まだいいって」

 追いかけてきた結木が背後からパンツを奪い取る。

「よくないです」

 パンツも履かずに料理をするなんて、まるで羞恥プレイもいいところではないか。

 しかし、いつぞやの腕時計のように、結木は繊細なレースの布切れを持つ手を高く上げたまま部屋の隅にある間接照明に引っかけてしまった。

「今履いたところで洗濯物が増えるだけでしょ?」

 暗に誘われたことに気づかない掬子ではない。

「なっ…今日はもう…」

 これ以上、求めてしまったら気がおかしくなりそうだ。

 掬子の逡巡を別の意味に受け取った結木は少しおおげさに首を振る。

「まだいけるよ、全然。逆にさっきのせいで、もっと欲しくてたまらなくなってくるはずだけどな」

 患者への病状説明のように淡々と言ってくれるが、口元に二本重ねて突き出された指が掬子にとっては生々しい。

「立ってだと、しっかり奥まで触れないでしょ。刺激的なシチュエーションで一瞬は満たされるけど、すぐ物足りなくなる」

 口唇をなでていた二本の指が上唇と下唇をそっと押し開く。滑らかな唾液の力を借りて、口の中に入ってきた結木に掬子は舌を絡めて迎えた。

 くちゅくちゅと卑猥な音がするのも気にせずに、掬子は自身の欲望のままに顔を前後に動かした。

「今日は本当にかわいい…」

 結木は背後に回り、掬子を力任せに抱きしめた。そして自身はそのままソファに腰を下ろしてしまい、掬子は自然と恋人のひざに座る形になってしまった。

「ああっ…柔らかくてあったかくて溶けちゃいそう…」

 かつて聞いたことのないような甘い声が掬子のうなじをなぜ、さらに掬子を追い討ちをかけてゆく。

一こっちもまた、ぐちょぐちょでしょ?

 下着をつけていない下腹部をスカートの上から探られると、敏感な部分に服の生地がかすり、強烈な快感が沸き上がってくる。

「結木さん…」

 さっき抱き合ったばかりなのに。   

 これから夕食も作らないといけないのに…なぜ、こんなにも欲しくなってしまうのだろう。結木は、ああ言ったが、さっきだって結木の指は掬子の奥まで届き、何度と言わず震わせてくれた。

 涙目で腰を浮かすのを我慢している掬子に、耳に口付けることに夢中な結木は気づいていない。耳朶の形を口唇で確かめながら、穏やかにささやいてくる。

「ねえ掬、恥ずかしがらないでほしいの。掬が欲しがってくれると私は嬉しい。必要とされてるんだって安心する」 

 ―私はさみしがりやだから。

 とても、大切な言葉を聞いたのに、掬子には聞き返す余裕がなかった。優しい声音とは裏腹に下腹部を責め立てる手は容赦なかったからだ。

 掬子はスカートを自らたくしあげ、太ももを、その最奥を、背後にいる結木にも見えるように広げて見せた。

 今、一番結木を欲しがっているところ。

 掬子がそうすることで結木の気持ちに応えることができるのなら、ためらう理由などなかった。

「…ああっ」  

 荒いため息とともに、結木の指が沼のような掬子のそこに吸い込まれる。

「ああっ…ん。結木さん、またくる、またきちゃうぅ」

 待ち焦がれていた形と長さのものを上下の口両方に収めてゆく満足感で、張りつめた掬子の体はじわじわと弛緩してゆく。しかし結木が指を動かすと、離すまいとして掬子の腟がきゅっとすぼまる。その繰り返し。さざ波のように穏やかな快感に、二人は思い切り身を任せた。


「おいしい」

 熱々のエビとあさりとキノコのアヒージョをバケットにつけて、かじった瞬間、結木はおおげさに言ってのけた。

「まだ一口目ですよ」

 とりあえず褒めなければと思ったのだろうが、早すぎるだろうと掬子は笑ってしまう。

「早く言いたかったんだ」 

 口をとがらせる結木が子どもみたいでかわいい。

「真実味が薄れます」

「見込みで言ったんだって」

「仕事じゃないんですから」

 掬子もたっぷりと金色のオイルを染み込ませたバケットにエビを載せ、おそるおそる口に入れた。猫舌なのだ。

 短時間しか煮込んでいないわりに、魚介の出汁がよく出ている。めんどくさがらずにあさりを入れて良かった。

 真面目に味を分析する掬子に気づいた結木がすかさず言った。

「掬。私、別に味にうるさいタイプじゃないから。むしろ両親共働きで、食事は祖母がたまに家に来て作り置きしてくれるか、自分で買うかで。自分のための食事が出てくるだけで正直、何でもうれしい」

「…はい」 

 結木の家族について初めて聞かされた情報で、これまでの結木の食事に対するこだわりのなさが分かった気がする。

 学校や職場以外の場所で結木はどのように育ってきたのだろう。一人で過ごす時間が長かったとおぼしきエピソードが多いが、さっき口にしたような寂しさを感じさせる場面は今まで見たことがなかった。

「あ、だからって、これからも全然作るつもりはないって言ってるわけじゃないからな」

「え?」

 黙っていたら、話があらぬ方向に飛んでいって、掬子は照れたようにうつむく結木を見つめた。

「だって一緒に住んだら毎日、スーパーの惣菜や外食ってわけにも行かないだろうし。これを機に食生活もちゃんとしたいなって思ってたんだ」

「…は?」

 思いがけない…いや、思っていたより展開の早い話に、掬子は絶句してしまった。

「いや?」 

 いやじゃないですけど…と言ったら、速攻で同棲が始まりそうで、掬子はすんでのところで言葉を飲み込んだ。

 代わりに、

「ここの家はどうするんですか?」

 同棲という言葉が浮かび出した頃から疑問に思っていたことを口にする。 

 たぶん、ここのマンションは家賃にするとかなりの高額で、結木と折半したとしても勤務医の掬子の身の丈には合わない。

「ここに住むのは気が引けます。結木さんのご両親の持ち物であるなら、なおさら」

「貸しに出すよ。そもそも、ここって車がないと通いづらいだろ」

「そんな簡単に」

「簡単だよ。最近、一人の時はそうゆうことばかり考えてたんだから」

 不動産屋の目星もつけてると自信たっぷりに言ってのける結木は、そもそも掬子には想像できないくらいの楽天家なのだ。どんなわずかな光でも希望にして前に進んでいける強さが、結木にはある。

「…ここまで来て、みすみす逃したくないからな」

 きっぱりと言い切る結木に、なぜ、そこまで思ってもらえるんだろうと、何度も沸き上がる疑問が頭をよぎる。けれど、その思いで掬子が不安になることはもうなかった。

「どこにも逃げませんって」  

ーだって、私もあなたを欲しいんですから。

 呼吸のように口からついて出た言葉に、結木のワインを持つ手が止まった。くっきりとした二重を向けられて、真顔だとなおさら結木は美しいなんて、掬子はひいき目に思ってしまう。

「ごはん食べたら、物件調べましょう」 

 お互い、なかなか時間を合わせにくい仕事なのだから、今決めれることは、決めておいたほうがいい。

「…うん!」

 勢いよくグラスを空けた結木がふっと掬子の顔の下に体を傾け、かすめるようなキスをした。

「知ってる?掬子の、最初っから好きなところ」

「え?」

 真面目な問いかけより、いつもより温かく赤い口唇から離れがたくて、掬子からもう一度口唇を合わす。

「やっぱり言わないでおこう」

「ちょっ、途中まで言いかけておいて、気になるじゃないですか」

「だって、言ったら気にするだろうし?」

 姿勢をもとに戻した結木は、いつもの見慣れた不敵な笑みに戻って、掬子と自身のグラスにワインを注いだ。









 















    




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