第9話 白昼夢
病院から歩いて十分もしない場所に建つ単身者用のマンションは、掬子が大学時代からずっと住み続けている部屋だ。
同棲するには狭い1DKから、何度か出ようという話になった。ネットで物件を探し、その街周辺を探索したこともある。
『掬子も私も新宿経由で仕事に行くから…代々木上原とか笹塚とか』
社会人になるのが早かった朝美のほうが、互いに仕事を持つカップルに住み良い街に詳しくて、同棲に積極的だった時期もあったのだ。
間違いなく、その一時、掬子は幸せだった。いつか来る、朝美と二人で暮らす日を頼りに掬子は毎日働き、勉強していた。
もう少し、自分に余裕があれば良かったのだと、仕事とプライベートを何とかコントロールできるようになった今なら思える。
医師という職業は必要な専門知識を頭に入れ、国家試験に合格し、机上の知識を臨床の場で結びつけ、自身の技術でもって様々な患者に対応できるようになるまでに、とんでもなく時間がかかる。研修医時代、掬子は週の半分はこの部屋に帰らなかった。仕事や研究発表の準備に追われていたのはもちろんだが、自分の担当した患者に、もし何かが起こったらと、病院から離れるのが怖かったのだ。意味もなく病院で暮らすのはやめろと、結木からとがめられることもあったが、その結木自身も、同級生の多くも、ほぼ毎日院内で顔を合わせていた。
社会人としての生活を充実させようとしていた朝美の気持ちに気づいていながらも、あの頃の掬子は、仕事を言い訳に自分の気持ちを優先させてばかりいた。
結木だったら、もっと器用にやれていただろう。
同じ研修医時代でも、結木はいつもエネルギッシュで、仕事はもちろん、同期や後輩、先輩医師・看護師などコメディカルとの交流も充実させていた。当直明けに大学の運動場でフットサルに興じたり、朝、ゴルフバッグやスノボを抱えて、出勤してきたこともある。余裕があると言えば、その一言で終わりだが、結木はそのくらい自分以外の人との時間を大事にできていたのだ。
結木と自分を比べるなんて、大それたことだ。しかも、今や結木は掬子の恋人である。完璧な恋人を得ることで、自身の欠点が補われたと思う人種もいるかもしれないが、掬子の場合は、まだどこか結木に対して卑屈になってしまう時がある。
報告書を書き終えて、病院を出たのは二時過ぎだった。日当たりが良い、小さな部屋の唯一のカーテンを開けようとして、掬子はその手を止めた。
だって今日はもう、ここには戻らない。
カーテンの隙間から、階下に停まるロードスターが見えた。
このマンションには掬子の他にも同僚が何人も住んでいる。カスタム仕様のあの車を目にすれば、持ち主は誰か、勘付く者も出てくるはずだ。
結木がわざわざ車で送迎する相手が掬子だと知れれば、意外な組み合わせだと少しは噂になるだろう。交友関係の広い結木なので、勤務後に食事に行く後輩の一人であってもおかしくはない。ただ互いのプライベートの時間を二人だけで共有するにしては、華やかな結木に対し、良く言えば物静か、率直に言えば地味な掬子はあまりにもタイプが違いすぎた。
最低限のメイク道具と下着、服は一瞬考えて、やわらかな素材のブラウスだけを手早く紙袋に入れて、ものの十分で掬子は部屋の鍵を閉めた。
「お待たせしました」
「十分早かったけど?」
外からの掬子の合図に、運転席でスマホを触っていた結木は驚いた顔を上げた。
「そもそも待ってもらっているのに、これ以上はとても」
「これでも、待つのは得意なんだ」
「・・・え?」
助手席に乗り込みながら、繰り出された言葉を反芻しようとする掬子の顔を結木は黙って引き寄せた。当直の時とは違う、しっとりと濡れた口唇とグロスの香り。
「ちょっ・・ダメですっ!」
薄く開いた口の中まで探られそうになって、掬子は焦って結木から顔を離した。
「なんで?」
淡い色に濡れた口元をとがらせ、上目遣いで結木が誘ってくる。恋人の意外にかわいらしい仕草は掬子を動揺させるには十分だった。
「だって…」
なぜか泣きそうになって、掬子は言葉につまった。百歩譲って車の中まではいいとしても、同業者が多く住む自宅前でキスする勇気は持ち合わせていない。
「ごめんごめん、困らせてみた。朝のお返し」
すっと掬子から離れて、真顔に戻った結木は車のエンジンをかける。掬子も気を取り直してシートベルトを締める。
「お返しって?」
スポーツカー独特の低い車高からの外堀通りの景色に慣れぬまま、掬子は骨格の整った横顔を見返した。
少女時代から美人すぎて、黙っていると大人に見えて近寄りがたいくらいだった。でも実際話してみると乗りが良く、明るくざっくばらんで…
今まで結木を表現してきた様々な言葉を思い返すが「かわいい」という形容詞はなかった。
「…私は朝の申し送りも上の空だった。掬子があんなに私を欲しがってくれたのに、応えることができなくて、後から考えれば考えるほど自分が情けなくなって、後悔してる」
「…は?」
照れもせず言い切る相手に、掬子はどこまで同意すべきか迷ったあげく、あまりにあからさまな言葉に笑ってしまった。
けれど…キスこそ出来なかったけれど、言葉はこの空間にいる二人だけのものだ。
「私もですよ」
「え?」
結木がハンドルを握る指に力を込め、小さく息をのんだのが分かる。こんなにも結木の近くにいて、その一挙一動に心を配る日が来るとは、ほんの数か月前まで掬子は思いもしなかった。
「急に代診が入って、本来ならそれどころじゃないはずなのに。仕事をしながら我に返る度に結木さんのこと考えてました。いけないことですけどね」
いけないことだが、中堅と言っていいキャリアに入りかけた掬子だからできることでもあった。
「そう…」
まっすぐに前の景色を見つめていた目が、まっすぐ伸びた長いまつげが、一瞬ふせられ、ピンクベージュの口唇が薄く開く。
―よかった、私だけじゃなくて。
やわらかな吐息にまぎれた言葉に、掬子は気の利いた返事を思いつけず、うなずくことしかできなかった。
車がスムーズに市ヶ谷駅を通り過ぎたところで、掬子は結木が自宅に向かうのではないことに気づいた。
「…結木さん、どこに向かってます?」
「神楽坂のキャナルカフェ。ごめん、元々考えていたところは、少し時間がかかるから、今日はありきたりのところで」
だから、掬子は短時間で身支度を整えて家を出てきた時、結木は驚いていたのだ。きっと当直明けから、いや、もしかして、それよりも前から、結木は掬子との今日の時間を、どのように過ごすか、考えてくれていたのかもしれなかった。
「いや、私、てっきり結木さんの家に行くのかと思ってました」
「あのさ、そんなに私、ムードのない女に見えるの?」
心外だと言わんばかりに、低い声を出した結木に掬子は首を振った。
「そんな…ムードがないのは私のほうです」
つい最近まで、掬子と結木はそういう関係でしかなかった。いや、体だけの関係に甘んじさせていたのは、過去を断ち切れない掬子の一方的な都合であった。
掬子の懺悔を結木は片笑みで受け止めた。
「私は掬ともっと一緒にいたいと思っていたよ。ああいう時間だけじゃなくて。たぶん、あなたが思っているより、ずっと前から」
温かな思いが、二人の空間を満たしていく。
昼間のまばゆい光とお堀端の新緑の鮮やかさに目をすがめながら、掬子は季節が変わっていくことを、全身で感じていた。
―予感がした。
朝美とひとつずつ積み重ねた思い出を、瞬く間に結木は塗り替えていくだろう。このスポーツカーのようにスマートで、スピーディーに。
今はまだ真昼の夢のようにふわふわとして、およそ現実味がないけれど。
『若い人は忘れたくても忘れられないことのほうが多いでしょう?』
もう自身が若いとは到底思えなかった掬子だが、老婦人が揶揄した「若い人」とは、与えられた幸せにわずかな痛みを感じる掬子に他ならない。
忘れられないうちは持っておくしかないのだろうか。普段は持ち歩いていることも気に留めない、古いお守りのようになるまで…
「…掬?」
無言の時間を埋めようと結木の左手が掬子の指に触れた。
「眠くなった?私、朝早く呼び出したし」
出勤時間を早めたのは確かだが、当直明けから午後まで掬子を待っていた結木に気遣われると立場がない。
すみません、と謝ろうとして、恋人はそんな言葉など求めていないことを思い出す。
「…そうかもしれません。とても暖かで、気持ちがいいから」
さらりと乾いた指に掬子がぎこちなく指を絡ませると、結木は少し考えて、その指を軽くなぜた。
「目を閉じていたら?じきに着くけど」
「いいですか」
「もちろん」
なぜ、そんなこと確認するのと結木が笑う。そのぬくもりが、点滴のように体のうちに流れ込んでいくのを感じながら、掬子は恋人の甘い誘いに従った。
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