第8話 外来診察
だからと言って、あんなやり方はないだろう…
結木は掬子を高ぶらせるだけ高ぶらせて、最後まではしなかったのだ。『今日、ちゃんと私の家に戻ってくるように』と。
おそらく、あまりに積極的な掬子を見て、今回は逆に結木の方がブレーキを踏んだのだろう。
そして、結木の判断は結果として正しかったのだ。
「今宮先生!お願いします。新患の須賀さんです」
「はいっ」
いつもとは違う外来看護師の声に掬子は我に返った。
本来なら土曜日の外来は掬子の当番ではない。染谷医長の入院患者に急変があったため、急きょ、朝に交代することが決まったのだ。
診察開始前までに一通り予約患者のカルテには目を通すことができたため、今までは問題なく診察できたものの、次は新患だ。きちんと医長に引き継げるように評価しなくてはならない。
看護師から渡された問診票からざっと情報をさらう。80過ぎだというが、整った字形。氏名や住所は当然のこと、現病歴や既往歴にも正しく漢字で病名が記載されている。当たり前のこと、と思うかもしれないが、できない人のほうがと圧倒的に多い。
主訴は物忘れとあるが…おそらく年齢相応のものではないかと見通しを立てたところで、患者が入ってきた。
「よろしくお願いします」
上品な所作とパーマを当てた白髪が美しい女性を目にし、掬子はますます、その確信を深めた。
「はじめまして、須賀さん。本日担当させていただきます、神経内科医の今宮です」
「あなたが、染谷先生の代わりのお医者様ね」
さらりと医長の名前を口にし、須賀さんは微笑んだ。もしかして、染谷医長と面識があるのか?穏やかなようで冴えた目に、掬子は背筋を正した。
「記憶力の低下を気にされているとのことですが、普段の生活で、実際にお困りになったことはありますか?…」
外来が終わり、照明が落とされた1階フロアには他の医師はもちろん、看護師もクラークも残ってはいない、はずだった。
「はい、どうぞ」
それでも、ノックされた診察室のドアに100%医者の声で対応した掬子に、結木は一瞬、バツの悪そうな顔をした。
「結木さん?どうしたんですか?…」
結木にそんな顔をさせた申し訳なさと目の前の仕事を仕上げないといけないという責務で、掬子は後の言葉につまった。
「代診だったんだな、病棟を探してもいなかったはずだ」
「…はい、急に染谷医長に頼まれて…」
患者に対する医者の顔から先輩に対する医者、ましてや恋人の顔にはなかなか切り替えられず、ぼうぜんと口ごもった掬子に、結木は柔らかな表情で微笑んだ。
結木のその表情のせいもあると、妙な居心地の悪さと甘酸っぱさの理由に掬子は思い至った。今の結木の顔は、仕事中にすれ違う時とはまた違う、100%恋人に向けられたものだったからだ。
「一緒に帰ろうと思ったんだけどな…」
今日の午前の勤務を終えたら、日曜日は互いに丸一日休みだ。結木が思うのも、当然の流れだった。
「すみません、もう報告書仕上げるので」
「いや、せかすつもりはないんだ。染谷医長の代診ならカルテも気をつかうだろう?もう少し時間がかかるのなら、私はここで学会の稟議書でも作るよ」
やることならいくらでもあると、結木は診察用の机にカバンを置いて、椅子に腰掛けた。
結木に時間外の仕事をさせる前に、掬子は首を振った。
「いえ、結木さんはちょっと休んでください。私はMRIとSPECTの結果が出てくるの、待っていただけなので。後5分もかからないです」
今日、唯一の新患。須賀京子氏、83歳。元看護師・保健師。
結果としては、MCI(軽度認知障害)レベルか。何なら異常所見なしで通してもいいと思う。70代まで看護師として働いていたせいもあるかもしれないが、80代であれほどしっかりしている人が、なぜ物忘れ外来を受診しようと思ったのだろう。
報告書に決まりきった文言を入力しながら、掬子は診察時のやり取りで何か取りこぼしている点はないか振り返った。
『あなたには…ごめんなさい、馬鹿にしているんじゃないのよ。染谷先生にもまだ分からないかもしれない、この感覚』
『若輩者の私には分からない感覚でも、教えていただけますでしょうか。治療が必要となった際、参考になりますし、主治医となる染谷医長にも報告する必要がありますので』
物忘れ外来を受診する人のほとんどは自分の祖父母くらいの高齢者だ。どうせ若い人には分かってもらえないからと、主訴を濁そうとする相手に、掬子は即座に食い下がった。
須賀さんも掬子が引き下がるつもりがないことを察したのだろう。用意してあったのだろう訴えを流暢に話し始めた。
『あなたのような若い頃はね、忘れたいのに忘れられないことのほうが多いでしょう。でも、最近の私はどうやら違うみたいなの。数年前のちょっとした出来事を思い出せない。大事なことだったような気がするんだけど…思い出すきっかけもつかめない』
もちろん、あなた達が言う「日常生活」には何ら支障はありませんよ、と言い切った須賀さんに、掬子は返す言葉が見つからなかった。
「特に脳室の拡大や海馬の萎縮も見られない。血流量は…左側頭葉が少し落ちてるのかな?あと、小さな脳梗塞もある。いくつの人?」
背後から、電子カルテ上の画像を見ていたのだろう。結木が世間話をするかのように言った。
「83歳です」
「ふうん、実際のところは?」
「過去のエピソードが出てこない時があるとの主訴でしたが、認知検査上でも特に落ちてる様子はないです。身体的にも健康で知的に保たれているからこそ、逆に心配されているのかと…」
「へえー」
物珍しそうに結木が相槌を打つ。
同じ医者でも神経内科の掬子と消化器外科の結木は専門分野が全く異なる。業務上でも共患を持つこともあまりないため、自身の細かい仕事内容を話すことは不思議なほどなかった。
「まあ、難しい症例ではないです」
「でも、気になったんだろう」
鋭い結木の一言に、ふっとパソコンの手が止まった。その通りだ。
「…ですね。しっかりしているように見えましたけど、だからこそ、画像上はどうなんだろうと」
でも、それだけではない。きっと、あの人の言葉が気になったのだ。
『忘れたいのに、忘れられないことってあるでしょう?』
―朝美との日々もいつか、忘れる日が来るのだろうか?
思い出は抜けない棘のように、掬子の胸の内にある。今日のように、ささいな出来事がきっかけで、にぶい痛みを覚える…
結木の視線を感じながら、掬子は慌てて仕事に戻った。
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