第3話 熱帯夜

「掬…」

 ベッドにたどり着くなり、覆いかぶさってきた結木を掬子は必死で押しとどめた。

「待ってください、結木さん…シャワーを」

 いつもなら、さりげなく奥の浴室を使わせてくれるのに、今日はそうはしない熱い身体に掬子を戸惑った。

「時計、返してほしいんだろ?」

 セーターを下着ごとたくし上げ、結木は掬子の胸に顔をうずめた。普段よりきつく香るアルコールに、見知らぬ誰かに襲われるような恐怖を覚えて、掬子はもがいた。

「ちょっ‥いきなりはやめてくださ…んんっ」

 のびてきた指が掬子の言葉を奪った。しかし、丁寧に整えられた指先は、確かに結木のもので、掬子の口蓋や舌に刺激的に突いてくる。

 いつもの愛撫を口腔内に感じながら、掬子は結木とのいびつな関係の始まりを思い返した。

 朝美を愛し続けたいと思えば思う度、掬子は奈落の底に落ちていくような絶望感にかられた。

『掬子が男だったら、私たち一緒になれたのに』

『私がもっと強い女だったら…掬子と一緒にいれるのに』

 そう言って、泣いて謝るだけの朝美に、大切なのはそんなことじゃないはずだと、何度すがりついただろう…どうにも変えられない現実や弱い自分を責めるのではなく…もっと大切なことがあるはずだと…

 底の見えない奈落に差し伸べられた優しい手は、先に医師になってからも変わらず、掬子を見つめて続けていた相手だった。

 結木の長くしなやかな指は、今、掬子の喉奥にまですっぽりおさまっている。

 この手に救いを求めた日から、干からびた植物が水を必要とするように結木と体を重ねた。今日のように、掬子の異変を察した結木から声がかかる日もあれば、掬子のほうから誘いをかけた夜もある。

 そして、いつからか、抱くより抱かれることに掬子の体はなじんでしまった。

「何を考えてる?」

 自分の内なる思考へと気持ちが逸れはじめた掬子に気づいたのか、結木は指を抜いてしまった。直情的なようでいて、結木はどんな時も冷静に掬子を観察している。

「…結木さんのことです」

 決して嘘ではないのに、結木は首を振った。

「なら考える必要はないだろう。私はここにいる」

 情欲とはかけ離れた、慈しむような表情が掬子の視界に映る。なぜ、結木は都合の良い時だけ体を求めてくる女をそんな目で見続けられるのだろう。

「考える前に、口にすればいいんだ」

 返事を待たずに、結木は掬子の首筋に舌を這わせた。ふい打ちの刺激に掬子の身体は魚のように跳ねる。

「…結木さんっ、私はそんな女じゃない。あなたが思っているような…」

「なんだそれ」

 くだらないと結木は吐息で笑った。

「私が、あなたを必要としているんだ。掬が何を思っていても関係ない。あなたがここにいるだけで…それだけで私は十分だから」

 ほんの少し、結木が嘘をまぜたのに、掬子は気づいてしまった。与え続けるしかない恋愛ほど苦しいものはないと、掬子は身をもって知っていた。

「ずっと、思ってたんです」

 掬子の、結木の、一方通行の思い。滑稽だと思って掬子はずっと言葉にはしなかった。

「知ってます?こういうの、同じ穴のむじなって言うんです」

「上等だよ」

 皮肉をまともに返されて、掬子は言葉を失う。

「それでも…私には分かってるんだ、初めて会った時から。だから掬が私を選んでくれるのなら、私は奈落にでも落ちるって…」

 吐息がかかるほどまでに顔を離した結木から、射るような視線を送られて、掬子はやっとのことで言葉をつむいだ。

「なぜ私なんかに…」

「分からないなら、分かるまで思い知ればいい。これから、何度でも」

 掬子の頬に指をかけた結木は、不敵にも取れる微笑みを向け、そのまま口唇を落とした。



「ああ…」

 暖かな風を送る空調と、どちらともなく漏れる吐息が交じり合い、寝室はまるで夏の夜のようだった。

 初めこそ触れるだけだった結木の口づけは徐々にに深いものになった。指よりも熱をはらんだ結木の舌は、繊細な動きで掬子の口腔のすみずみまでさぐっていく。歯茎から口蓋までを舌先でなぞられた時、いつものように掬子の身体に電流のような快感が走った。

「ああっ…いい、結木さんっ」

 小刻みに体を震えさせながら、確かなものにすがろうとする掬子に応え、結木は掬子の身体をきつく抱きしめる。

 久しぶりの結木の感触に、掬子自身、早くも身体の内側から溶けてゆきそうだった。結木に負けじと掬子も広い背中に両手足を回し、人肌のぬくもりの心地よさに全身で味わう。

 ―今日は、このために来たのだ。

 朝美では満たされることのなかった思いを埋めるため…いや、そんなのきれいごとだ。単に欲望を満たしたいだけだ、今の私は。

 このからっぽな身体に。

 太ももの内側に差し込まれた結木の手の導きを待たず、掬子は自ら腰を浮かせた。次第に腰回りに上がってくるスカートのホックを掬子がはずすのと同時に、結木はそれをはぎ取る。

 そのままストッキングを脱ごうとする掬子に、結木は再び覆いかぶさり、右の乳房をにぎりしめながら、その先端をきつく吸い上げた。

「ああっ」

 すでに堅く張りつめた乳首を唇と舌で交互に舐め転がしながら、結木の右手はもうストッキングごしに掬子の下着の感触をさぐっている。

「いいよ、掬。もっと感じて」

「結木さんっ…」

 指の腹で優しくなでさするかと思えば、ストッキングを破かんばかりに爪でひっかいたりする。さらには何の準備もないまま、ぐいと下着ごと膣に入り込むかの強さで突き上げれて、掬子は声もなく、結木にしがみついいた。

「すごいよ…掬、どんどんあふれてくる」

 熱のこもった吐息が皮膚をなぶるのにすら感じて、掬子は低くうめいた。

「ああっ」

「もう我慢しなくていいんだ…倉田に」

 左手で乳房を転がしながら、もっと気持ちよくなれと結木がささやく頃には、掬子は腰を振る自分を止められなくなっていた。結木の手を、長く硬い指を欲して、掬子は夢中で口走る。

「もうっ…もう、早くっ、結木さん…」

「どうしてほしい?」

 快感の涙ににじんだ視界の向こうで結木が問いかける。わざとじらすような質問をしてくる相手を掬子はにらみつけた。

「早くっ」

「…じゃあ、見せるんだ」

「ひっ」

 予想しない結木の動きに掬子は叫んだ。ストッキングを履いたままの掬子の両ひざを抱え、思い切り開脚させたのだ。

「全部見せて。私を欲しがっているところ」

「やっ、そんな…そんなこと」

「こんなこと、倉田とはしなかった?」

 ストッキングごしに掬子の性器を舌先でなぞりながら、結木は平気でそんなことを口にする。

「…するわけが…」

「あいにく、私は違うよ」

 結木は朝美とは違う。

 やけにはっきりとその言葉は掬子の耳に届いた。結木がどんな表情をしてそう言ったのか確かめたい気持ちになったが、太ももの間に結木を挟み込み、快楽に体をのけぞらせている状況ではとても叶わない。

「結木さん…」

「全部さらけだすんだ…私は倉田とは違う…全部受け止めるから」

 再び、指を突き立てられて、掬子はたまらず結木ごと腰を上下に蠢かせた。湿った布の奥で熱くうるむそこに、今すぐにでも結木を感じたかった。

「結木さん、早く…早く、中に…」

 途切れ途切れに欲望を口にした掬子に結木は満足げに言った。

「じゃまだな…この姿もなかなか良かったけど」

「結木さん、もう…」

 我慢できないと自らストッキングを脱ごうと腰に手をかけた掬子を、結木は押しとどめた。どうするつもりかと思案する間はなかった。

「きゃっ」

 薄い繊維が破れる独特の音が響くのと、待ち望んだ結木が挿入されたのはほぼ同時だった。

「ああっ…ああ、いいっ。いい、いいっ、結木さんっ…」

 下着をかき分けて押し入れられた驚きと羞恥は、すぐに快楽の嬌声に変わる。

 結木の形を、結木の体の一部を深く感じ取りたくて、掬子は結木の背に手を回し、きつく腰を押し付けた。結木の動きに合わせて身体の揺らすと、結木とつながった場所からはしたない水音が響く。

「結木さん、欲しい、もっとあなたを…」

 顔前ではじける白い肌に、固くなった乳首に結木が施したのと同じように口づける。しっかりした肩の骨格やくぼんだ鎖骨にも舌を這わせた。

「掬…」

 その瞬間、結木が小さくうめいたのを、全身を震わせたのを、掬子は確かに耳と、身体の奥で感じた。。

「わたしもだ…私もずっとあなたを…」

 与えるだけでも与えられるだけでもない、二人で作る律動が新たな快感の波を呼ぶ。ぼんやりとかすむ視界の向こうに、掬子はようやく結木を捕らえた。

 本当は、改めて見るまでもない。いつも、結木は掬子のそばに寄り添っていたのだから。

 全身に大粒の汗を浮かべながらも、掬子を離そうとしない結木は、十数年以上前から変わらぬ恋をする者の顔をしていたのだった。





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