第2話 前夜祭
結木が住むのは、大学病院から三駅ほど離れた閑静な住宅街だ。大学に入学した時に家を出たのだと結木は言っていた。出ざるをえないような特殊な家庭環境にあったのだと、これは噂で掬子も知っていた。
結木や掬子の年代が単身で住むには違和感のある、重厚な造りのマンションを前に、しばし掬子は立ち尽くした。
裕福なファミリーやシニア層がセレブな生活を送るにふさわしい場所は、相変わらず結木の部屋に向かわせる足を重くする。
―いつだって結木は絶妙なタイミングで誘いをかけてくるのだ。
そして、掬子にとって結木はいつも、おぼれる者がすがらずにはいられぬ、唯一の藁のような存在だった。
前回ここに来たのは、朝美の結婚が決まった時だ…そんなことを思い出しながら、オートロックのエントランスで部屋番号を迷わず押せる自分に、掬子は苦笑してしまった。
「おつかれさま、遅かったな」
「すみません、今日中に終わらせないといけない仕事がいくつかあって」
洗いざらしの髪が額にかかった結木は、学校や職場で見せる凛とした姿とは打って変わって、あどけなく見える。ただし、柔らかく微笑みながらも、ちらりとのぞかせた医者の視線はいつも通りだ。
いや、医者になるずっと前から、結木はそうだったかもしれない。
学校の廊下や登下校の通りすがりに、なぜか結木は掬子を慮るような視線を向けてきた。先輩はもちろん、教師に対してもおかしいと思ったことははっきりと口にする、物おじしない結木の性格から考えれば、たかが後輩に声をかけることなど、たやすいことのはずなのに。掬子にだけはめったに、そうしなかった。
結木にとって、自分はその程度の存在なのだと思わせるのに十分な態度だったと、掬子は今でも思っている。
「…おかしいな、染谷医長には釘を刺しといたつもりだったのに」
本気で首をかしげていぶかしがる、過干渉さに半ばあきれて掬子は言った。
「私には私なりの仕事の進め方があるんです。医長や結木さんの約束がなければ、もっと病院に残ってました」
「せめて、連絡をくれたら、迎えに行ったのに」
夕方から何度かあった着信はそういう意味だったのだろう。うすうす気づいていたからこそ、掬子はかけ直すことをしなかった。
「そんな悪目立ちするようなこと、絶対にしません!」
一年ぶりに通された結木の部屋はその時の印象とほとんど変わりはない。
モデルルームのようにシンプルで生活感のない空間。エネルギッシュな結木のイメージからしては意外な、必要最低限の物しか置かれていない部屋だ。
「悪目立ちって、どういう意味?」
洗いざらしジーンズにシャツを一枚羽織っただけの結木は困惑した顔を掬子に向ける。
結木が自分の魅惑的な容姿にまるで関心がないのは知っている。20代後半になっても化粧どころか、基礎化粧品すらろくに持とうとしなかった結木を諭したこともある掬子だ。しかし、そんな本人の意思とはうらはらに、シャツからのぞく白い肌や豊かな乳房には男性や一般的な女性であっても、自然に目が吸い寄せられしまうに違いなかった。
結木が知る以上に、結木と親しくなりたいと考えている人間はごまんといる。そんな彼ら彼女らの目の前で、夜勤明けの結木を足代わりに使うなんて挑発的な行動をとれるはずがない。
答えずにいる掬子には気にも留めず(というのも元々掬子は口数が少ないせいだが)結木は窓際のソファに腰かけた。
「どうぞ、隣」
「はい…」
ローテーブルには飲みかけのワイングラスと形ばかりの乾き物が置かれている。その光景にかすかな違和感を覚える前に、結木が体を寄せてくる。昼間と違う、ボディソープの香りと燃えるように熱い体。
この部屋でたしなみ以上に酒を飲む結木を見たのは初めてだと、掬子は気づく。
「今日は気分が良かったから、先に始めてたんだ。掬が飲むかも分からなかったし」
『飲む?』とわざとらしく聞いてくる結木に、掬子は首を振った。
「もう十分です」
仕事ができないほど飲むなんて、社会人として失格だ。誰に言われるでもなく、当面は控えるつもりだった。
「カンファは上手くいったんだろう?」
「…誰からの情報ですか、それは」
あの場には外科のドクターも、二人と同じ出身校のドクターもいなかった。あの病棟で結木と仲の良い看護師といえば…と考えていると、結木はあっけなく種明かしをした。
「私、あの場にいたの気づかなかった?師長の席のパソコンでカルテ書いてた」
「えっ」
「症例紹介はコンパクトに、症例研究は詳細にされてて、専門外でも納得がいったな。途中までしかいられなかったけれど」
「あ、ありがとうございます」
こんなふうに後輩の仕事を手ばなしで褒めることができるところも、結木を慕う者が多い理由なのだろう。
ワイン代わりに渡されたミネラルウォーターを一口飲むと、こわばっていた体の力が徐々にゆるんでいく気がした。
「医局の皆も心配してただろう。品行方正な掬子先生が倒れるだなんて。染谷医長なんて血液検査から一通り取らせる勢いで、とめるのに一苦労だった」
「実際はただの二日酔いだなんて、ばれたらとんでもないことになってました。玲香にも埋め合わせしないと」
同じ医局で仲の良い後輩の洪玲香は、学生時代、結木と同じバスケ部に所属していた。中学に入学したばかりの少女にとって、5学年上の部長はタカラヅカの男役並みに憧れの存在だったらしい。そんな結木に頼まれては、代診を断れるはずもない。
「ああ、その件なんだが。私から、掬子に酒でもおごらせるからと言っておいた」
「えっ」
それを結木の口から言ったら、玲香が期待してしまうではないか。
「あの、それ、結木さんも来てくれますよね?」
珍しく、積極的に誘いの言葉を口にした掬子に結木はふっと笑い、グラスの中身を一気に空けた。機嫌の良い時、結木は水のようにアルコールを摂取する。
「もちろん。高くつくかもしれないけど?」
「ええ、覚悟してます」
掬子自身、決して酒に弱いわけではないが、同じ時間飲むにしても、結木はペースが少し早く、掬子のように酔いつぶれることもない。
「私だけなら、いつもの安いところでもいいけど…洪がいるからにはそうもいかないだろう?ああ、そうだ、洪の時は私は自分の分出すから、また別の日に二人で飲み直すのがいいな」
どこにする?とすぐさまスマホを手に取る段取り好きの結木のグラスに掬子はワインを注いだ。特別な日でもないのに、シャンベルタンを飲む女に格安居酒屋ほど似合わないものはない。なのに、実際に足を運ぶと、不思議と場になじんでしまうのが結木なのだが。
「…倉田の結婚式、どうだった?」
スマホの画面から、わざと目を離さずに聞いてくる結木に、掬子はこの部屋に来る前から用意していた台詞を言った。聞かれるのは最初から分かっていたからだ。
「きれいでしたよ。ドレスがすごく似合ってて」
「なんだその定型文…似合うようなドレスを選んだんだろ?」
器用に片方の口角をあげて苦笑する結木を眺めながら、思わず掬子は結木のワイングラスに指を伸ばしかけ、やめた。すかさず『えらい』と結木がからかう。
「まあ良かったよな。倉田もようやく片付いてくれて」
店を一通り検索し終えたのかスマホを置き、掬子の代わりと言わんばかりに、結木は再びワインを傾け始める。
「東大卒、エリート商社マン。絵に描いたような幸せな結婚、か。一世代前の」
「…そうでもないですよ、今も昔も、もてる男女は決まってます」
余計な一言がついたせいで、素直にうなずくことができず、掬子は言い返した。むろん、掬子自身、そんな御伽噺など、つゆほども信じていないが。
「って言うか本当に、どこで朝美の旦那のプロフィールまで調べたんですか?」
「篠原の友人の妹が、倉田の妹と同学年なんだ」
「…相変わらず、なにげにすごい情報網ですね」
篠原先輩は同じ病院に勤務する麻酔科医だが、その友人も、友人の妹も誰が誰だか掬子には見当もつかない。
「私にとっては、ようやく待ち望んだ福音だけどな…」
「えっ?」
自分自身につぶやくように言った結木を見上げると、想像以上に結木は真剣な表情をしていた。
「まだ、あの腕時計は必要?」
「結木さん…」
掬子と朝美の頭文字が刻まれた腕時計…結木は今日、初めて気づいたふりをしていたが、それすら正直怪しいものだ。
朝美より社会人になるのが遅れた掬子の、初任給が出た時に、朝美と贈り合った腕時計。国内ブランドの、その当時の掬子にとっては思い切った買い物だった。
あれから5年…
朝美と買った腕時計を身に着けて、掬子は何度も結木と寝ている…答えられないでいる掬子に、結木はさらに畳みかけてくる。
「まだ、答えは出ない?」
「…どこにあるんですか?」
一瞬で乾いたのどから絞り出した問いを結木を聞かなかった。
「欲しい?」
「…当たり前です。腕時計、あれしか持ってないんですから」
うなずいた掬子を見る結木の表情が、心なしか硬くなったのは、掬子のうがちすぎだろうか?
確かめる間もなく、結木はいつもの穏やかな表情を取り戻していた。
「行こう」
初めてこの部屋に来た時と同じように、結木は掬子の腰を抱き、ソファから立ち上がらせた。
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