Hen’s night–女たちの饗宴–
藍川みのり
第1話 診察室
清潔なベッドの上で掬子は目を覚ました。
糊のよく効いた、その分、体を跳ね返してくるような硬いシーツ。黄灰色のしみが浮き出た天井。クリーム色のカーテンは、病室を常に一定の室温に保つ空調の風に揺れている。
「眠剤なしで、ここでよく寝れたためしがない。先生も一度入院してみたら分かるよ」
担当する入院患者の口癖を思い出したところで、掬子は一気に血の気が引いてベッドから飛び起きた。
「今、何時!?」
飛び起きて腕時計を確認しようとしたが、左手には何もはまっていない。掬子が慌ててカーテンを開けたのと、結木が病室に入ってきたのはほぼ同時だった。
「結木さんっ」
自分の身に起こったことがよく掴めない状態で、目の前にいるのが結木だったことに、掬子は多少の安堵と、やはりかと納得してしまった。
結木は掬子と同じ出身校の外科医で、中・高・大、勤務先の大学病院ともに4学年先輩にあたる。
「今11時。出勤してきたのと同時に倒れたんだ。貧血ということで回診は洪に代わってもらっている」
「…申し訳ありませんでした」
代診が1学年下の仲の良い後輩だったことにも、結木の過剰な意図を感じて、掬子は軽くため息をついた。結木はそんな掬子に眉根を寄せはしたものの、何も言ってこない。
「昼からの病棟カンファには出ます。私の担当患者の番ですので」
…もう大丈夫です、と言い終わる前に、結木が口づけ出来そうなほどの距離まで顔を寄せてきて、掬子はのけぞりそうになった。
「聞いたよ。昨日は相当飲んでたって」
「…誰にですか?」
この病院で昨日の式に参加した者はいなかったはずだ。
無言のまま肩をすくめる結木は、つまらない質問には答えない合理主義者だ。
掬子と結木の出身校からこの大学の医学部に進学する者は、毎年十指に余る。加えて学生時代、生徒会とバスケ部ともに所属していた結木は掬子とは比べものにならないほど顔が広かった。
「…情報網はどこにでも張り巡らされているってことですか」
「その気になれば、だけどね」
嫌味で言ったのに、それには乗せられずに、大真面目に返してくる。実に結木佳澄らしい。
海外のスポーツ選手を思わせる、骨格がしっかりした豊かな肉体、化粧が邪魔なほど整った顔立ち、そして学生時代から今まで変わらない、誰にでも誠実でまっすぐな性格。
掬子と全く別世界にいる結木は、掬子にとってコンプレックスを駆き立てられる存在でもあった。
「カルテチェックして、大貫さんの部屋に顔出してきます」
目を逸らしたまま立ち去ろうとした掬子に、結木はさらりと言った。
「その前にマウスウォッシュとマスクして行ったほうがいい」
「なっ」
かっと耳のあたりに血が集まるのが分かる。しかし、振り返ってはいけない、もう一度結木と目を合わせてはいけない。なぜだか分からないが、そんなアラームが掬子の頭の中に鳴り響く。
「それと、今夜、私の部屋まで来ること」
「…なぜです」
かたくなな掬子の反応に結木が苦笑した。
「理由が必要なら、こんなのはどうだ?」
背後でカチリと鳴った金属音が何か、すぐに分かって、掬子はついに振り返ってしまった。
「あなたはこれを取りにこないといけないんだ、私の部屋まで」
「これ、私の時計じゃないですか!」
初めて感情的になった掬子に、結木は綺麗に口角を上げる。
そして、掬子の指先が時計にかかった寸前、結木は腕を思い切り高く上げ、取り上げてしまった。女性の平均身長くらいの掬子より、かなり上背のある結木に、そのようなことをされては、かなうはずもなかった。
ちらりとのぞかした白い歯に、いじめっ子という言葉が掬子の脳裏をよぎる。
「結木さん!からかわないでください!」
「軽いなあ、チタン?」
結木は掬子の頭上で悠々と腕時計の文字盤を眺めたり、裏面をひっくり返したりなど検分を始める。
裏面の刻印に一瞬、結木が視線を止めたのが分かる。しかし、結木がそれに触れることはなかった。
「もう、ほんとに返してください。仕事ができないじゃないですか!」
「じゃあ、私のを代わりに使えばいい」
取れと言わんばかりに差し出された手首を見て、それが想像通りのハイブランドのものだったことにげんなりする。
「こんな高価なもの、私には無理です!」
「時計は時計だろう。これで残りの一日十分に働ける」
『残りの一日』という含みを持たせた言い方に、掬子は我に返った。ここで言い争いをしている場合ではない。まずは医長や医局の皆に謝りに行って、カンファに出る前に情報収集をしに行かなくてはならない。いや、その前に歯磨きと、念のため白衣も着替えておこう。
掬子の顔が徐々に仕事モードに切り替わっていくのを、結木が面白そうに見ている。
常に人の輪の中心にいる結木は、普段、全くもって寡黙なタイプではない。なのに、掬子のそばに現れる結木は、多くの人が思う彼女とは違う静かな姿で、掬子を混乱させる。
自分に注がれる結木の目が掬子は昔から苦手だった。いかに自分が些末な人間であるか、見透かされている気がするからだ。
困惑が苛立ちに変わろうかという時、いつのまにか結木の腕は下り、そのまま掬子は腰を引き寄せられていた。
「…結木さんっ」
高い体温と、いつもの、独特な清涼感のある香りに包み込まれ、掬子は反射的に体を引き離そうとする。しかし体育会系の人間、加えて外科医となれば何せ馬鹿力だ。
「やめてくださいっ、人が来ますって」
「私は構わないよ…誰かさんと違って」
掬子の小声に合わせたつもりなのか、結木はわざと耳元で熱くささやく。ますます体を硬くした掬子に、結木はいっそう力をこめた。
「お願いだから私の時計、返しに来て。来るまで待ってる」
白衣のポケットにロレックスが押し込まれたのが、その重みで分かって、掬子は目を閉じた。
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